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1.Marktplatz(Layer:1 Main Story)

 

「我、民に示したるは自由なり……か」


 マルクト広場の雑踏から晴れた空を見上げながら、オルランド・ヘルマンは溜息とともにつぶやいた。

 広場のシンボルであるローラント像の盾に刻まれた言葉だ。


 誰の言葉なのかは知らない。けれど、誰に向けた言葉なのかは、よく知っている。

 そして、それを享受することの難しさを、いままさに思い知らされていた。




市場(マルクト)」という名を持つこの広場は、交易都市ヴェーザーマルシュの繁栄を象徴する場所だ。


 幾何学模様を描く石畳の上を、貨物を満載した荷馬車が走り抜け、瀟洒な装いの市民や商人が行き交う。

 農産物を運んできた農民や、麻袋を担いだ荷役人夫たち、それに旅人や巡礼者と彼らを護衛する騎士たちが、わがもの顔で闊歩している。


 オルランドが知る限り、安息日以外でこの広場が賑わっていなかったことは、ただの一度もなかった。


 ヴェーザーマルシュは、王都に通じる街道と大型船が航行できる川が交わり、水運と陸運の要衝として発展した町だった。

 近郊には豊かな農地と塩田が広がり、山麓では鉱物の採掘も盛んだ。それらの物資はこの町に集積し、この町から拡散していった。


 人の往来と物資の流通。

 それがヴェーザーマルシュの繁栄の源泉であり、交易都市と呼ばれる所以だった。


 交易によってもたらされた富は様々なかたちで蓄積され、その一部は巨大な建築物として具現化していた。


 広場の東側には、二つの尖塔が天高くそびえるヴェーザー大聖堂がある。

 石造のゴシック建築は、長きにわたって、この町のみならず周辺の都市にある建造物の頂点に君臨してきた。


 だがその地位は、もうすぐ竣工するヴェーザー市庁舎に譲ることになっている。


 市民の寄付によって建設が進んでいるヴェーザー市庁舎は、レンガ造ゴシック様式の壮麗なファサードを持つ建築物だ。

 高さこそ大聖堂の尖塔に劣るものの、広場の一辺を占める間口に回廊を巡らし、大きなガラス窓を惜しげもなく配した総三階建ての威容は圧巻の一言だ。


 公共の建築物だけではなく、市民たちの住宅もまた贅沢な作りだった。

 レンガ壁に三角屋根を乗せた複数階建ての住宅が立ち並び、意匠を凝らした破風や窓の飾りと、色とりどりの外壁が広場に彩を添えている。


 この場所は、オルランドに多くのものを与えてくれた。

 子どものころには将来への夢を、そして大人になってからは生きていくための活力を。

 だからマルクト広場の賑わいは、オルランドの半生そのものだった。




 北から吹いてくる川風が、ほのかに潮の匂いを運んできた。

 交易船がノーラン湾からヴェーザー川を遡ってくるには、ちょうどいい追い風だ。

 波止場は活気づいているにちがいない。


 青空を羽ばたく鳥も、陽気にさえずりを上げている。

 鼻歌のひとつも歌いたくなる日和だった。

 だが……。


 オルランドは、二度目の溜息をついた。


「困ったことになったものだ」


 *


『ルーヴランとの交易関税を引き上げることとする』


 ヴェーザーマルシュの領主ヴァリエラ公爵が発した命令は、オルランドたちを驚愕させるものだった。


 事の発端は、ヴェーザーマルシュが属するグランドロン王国の国王レオポルド二世と、隣国ルーヴラン王国の王女マリア=フェリシアとの縁談だった。


 大陸の北東部を二分し、長い国境を接する両国は、常に領土をめぐる小競り合いを続けていた。つい数年前には、ヴェーザーマルシュを含むノードランド地方がその舞台になったこともあった。

 だから国王と王女の縁談は、当事者だけでなく、両国の国民にとっても歓迎すべきことだった。


 だが成婚を目前にして、その縁談は突如として破談になった。

 偽の王女を仕立て、結婚式の熱狂に紛れて国王を暗殺するという、ルーヴランの陰謀が露見したことが理由だった。


 グランドロンの対応は苛烈で、偽王女は首を刎ねられ、血染めになった彼女の衣装がルーヴラン王宮に送り付けられたという。

 狼狽したルーヴラン側は、首謀者として宰相を処刑し、領土の一部をグランドロンに差し出すことで、かろうじて事態を収拾した。


 しかし、事件はそれで終息したわけではなかった。

 グランドロンの貴族の一部が、この機に乗じて領地や権益の拡大に動き出したのだ。


 その急先鋒の一人が、ヴァリエラ公爵だった。

 公爵は国王に強い口調で、『戦になっても当然の不埒な計略だ。関税の引き上げは当然の措置である』と進言した。


 それは、交易で成り立っているヴェーザーマルシュにとって、極めて深刻な事態だった。

 対応を協議するために、ただちにハンザ会議が招集された。




 ハンザ会議は、ヴェーザーマルシュの行政の要をなす会議体だ。


 ノードランド地方は、グランドロン王国ヴァリエラ公爵領でありながら、古くからこの地方に住んでいたノーラン人への配慮などから、住民による半自治が認められている特殊な地域だった。


 そういう土壌から自然発生的に成立したハンザ会議は、この時代ではかなり先進的な住民自治のありかたと言えるものだった。

 会議の議員は、選挙によって選ばれた市民の代表と、商業や鉱工業の組合役員とで構成され、その決議は領主の代官によって追認されるという仕組みになっていた。

 決議できるのは行政に関することに限定されていたが、事実上、住民の総意による都市の運営が容認されていたのだ。

 会議はマルクト広場のローラント像の前で行われるのが習わしだった。議長は持ち回りで務めることになっていて、今回はオルランドの当番だった。




「今日の案件は、ちょいとばかり難しいぜ……」


 西ノードランド地方の訛りが混じった言葉で話しかけてきたのは、最年長のハンザ会議議員で、オルランドの父親の長年の友人でもある。


「領主は本気らしいが、今でも高い関税をさらに引き上げればどうなるか」


「そうだな」とオルランドは答える。

「ルーヴラン人が買っている穀物粉や塩や鉄が、今の値の倍近くになるだろうな。そしてその上がりは、領主の懐に入るって寸法だ。だが、あまり苛めると、開き直ってまた攻め込んでくるかも知れないな」

「前国王フェルディナンド三世の自由交易禁止令が、結果としてルーヴランによる西ノードランド侵攻を招いたんだからな。あの二の舞はごめんだぜ」


 自治を行っているとはいえ、あくまでも公爵領であるヴェーザーマルシュは、独自の軍事力を持つことはできなかった。武力で攻めてくる相手に対抗する術はないのだ。

 オルランドは首肯しながら、もうひとつの不安を口にした。


「とはいえ、領主の命令に逆らえば、今度はグランドロンがどう出てくるかわからない……」


 現国王のレオポルド二世は、市井の庶民のことも気に掛ける君主だと言われている。しかし統治機構の末端にまで、そういう意識が浸透していることは期待できない。


「とくに今の代官は、領主の腰巾着だからな。教皇庁の覚えもめでたい男だという触れ込みだったが」

「ゼルトナー司教か。ありゃあ宗教と貴族の権威を笠に着ただけの俗物だぜ。公爵の歓心を買うためなら、なんでもするだろうさ」


 代官のゼルトナー司教は、着任以来、ことあるごとにハンザ会議と揉め事を起こしていた。

 それは意見の対立というよりも、価値観の違いというべきものだった。


 そもそも、教区の司教という立場と領主の代官という立場は、相容れないもののはずだった。

 だがゼルトナー司教は、ハンザ会議そのものが大罪の「傲慢」にあたると断じて、教導の名目で世俗的な支配の片棒を担ぐことを正当化してしまった。


「領主の命令に従えば、この町を戦火に晒さないとも限らない。だが跳ねつければ、どんな圧力をかけてくるか、わかったものではない……」


 ほんとうに厄介なことだ、とオルランドは思った。内憂外患とは、このことか。


 オルランドは、広場の中央にあるローラント像を見上げた。

 ローラントは異教徒であるサラセンの軍と勇敢に戦ってこの世界を守った伝説の騎士で、剣を掲げて盾を構えた木像は凛々しい笑みをたたえて、晴れた空の彼方を見つめている。


 人の背丈の四倍ほどある像は、今から三十年前にオルランドの父親たちが建てたもので、ヴェーザーマルシュの自由と自治を守っていると信じられている。


「もう、ローラント様のご加護にすがるしかないか」


 ふと漏らした呟きに、思いがけない方向から、澄んだ水のような声が応じた。


「そう……。この地でも、あなたは『ローラン』なのね」


 声のした方を見ると、灰色のフードとローブで全身を覆った小柄な人が立っていた。


 鼻の先が隠れるほど目深に被ったフードの下に、細身で形のいい顎が見えている。

 身なりから察するに巡礼者だろう。華奢な立ち姿と繊細で高い声は、年若い女であることを思わせた。


 巡礼者はしばらくのあいだローラント像と向かい合っていたが、やがて踵を返すと雑踏の中に消えて行った。


 *


 午後から始まったハンザ会議は、激論ののち、当面のあいだ関税を据え置くという決議を行って閉会した。

 関係各所との調整や事務処理の準備が万全でない、というのが建前だったが、期限を切らなかったため、越権と言われてもしかたのない決議だった。


 ゼルトナー司教がいい顔をしないことは分かっていたが、議長としては彼の追認を得なければならない。

 オルランドは深呼吸をひとつしてから、議場の片隅で成り行きを見守っていたゼルトナー司教のもとに歩み寄った。


 巨躯を司教服に押し込み、布張りの豪華な椅子に窮屈そうに腰かけたゼルトナー司教は、赤銅色の四角い顔に不敵な笑みを浮かべていた。


「ご覧の通りだ。しきたりに従って、会議の決定に追認をいただきたい」


 きわめて事務的なオルランドの言葉に、ゼルトナー司教は大仰なため息とともに答えた。


「父よ、彼らをお許しください。彼らは何をしているのか分からずにいるのです」


 教会の尖塔を背負うように立ち上がったゼルトナー司教は、手に持った鉄製の牧杖(バクルス)を石畳に突き立てた。


 がつんという重い音が威圧するように響き、金色の柄頭が夕陽を反射して輝いた。

 山草のゼンマイのような形に曲がった柄頭は、蛇が十字架を囲んだ意匠になっている。儀礼用としては武骨に過ぎるもので、騎士崩れの司教が持つそれは、誰もが武器(メイス)だとしか見ていなかった。


「関税は領主が決めることで、そなたらが口出しすべきことではないのだぞ。小賢しいのも災いのもとであろうよ」


 やはりそうきたか、とオルランドは思った。

 それがゼルトナー司教のやり口だとわかっていても、神経を逆なでされたように不愉快になる。

 オルランドはローラント像の前に立つと、腹の底から声を上げた。


「誰に何をいくらで売るかは、俺たちが決めることだ。あんたたちじゃない。商売に口出しは、しないでもらいたい」

「その商売とやらが、誰のおかげでできているのか、よく考えてみることだ。そなたらの自治ごっこが、神のご加護と国王陛下や公爵閣下の庇護のもとにあることを、忘れておるのではないか」


 ハンザ会議を真っ向から敵に回すゼルトナー司教の言葉に、議員たちが色めきたつ。その雰囲気がオルランドの背中を押した。


「領主も国王も、我々から吸い上げた富で潤っているのだから、我々を守るのは当然だ。それに、あんたこそ国王と領主の庇護がなければ、何もできないじゃないか。どっちにせよ、あんたにはハンザ会議に口出しする権利はないんだ」


 顔を紅潮させて睨みつけるゼルトナー司教を見て、オルランドは言い過ぎたと思った。

 もっと早く、冷静になるべきだった。なんといっても、この男の追認がなければ、ハンザ会議の議決は有効にならないのだ。


 だが議場の雰囲気がオルランドに力を与え、オルランドの言葉が議場の熱気を煽り、その気勢はすでに収まりがつかないところまで昂ぶっていた。


「商人ふぜいが、つけあがりおって。そなたらの心に巣食った悪魔を、神の御名において、この儂が打ち祓ってくれるわ」


 見下したようなゼルトナー司教の言葉は、議員たちに燻っていた不満に火をつけた。


「そっちこそ思い上がるなよ。さっさと追認しろ」

「司教なら教会にこもって、身の安全を神にでも祈っていればよかろう」

「俺たちにはローラント様のご加護があるんだ。あんたたちの思い通りにはならんぞ」


 口々に罵声を浴びせる議員たちに、ゼルトナー司教は上気した顔を(しか)めた。そして、かろうじて持ち上げた口の端をひくつかせながら、裏返った声を上げた。


「神をも恐れぬ愚か者どもが。このことは公爵閣下のお耳に入れる。……後悔するなよ」


 再びメイスで石畳を突いたゼルトナー司教は、大股で教会の中に消えると、扉を荒々しく閉め切った。


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