夏の恋
陸サーファーという言葉をご存知だろうか。
実際にサーフィンをすることのない人が、浜辺で女を引っかけるためにサーファーファッションをすること、つまり見せかけサーファーのことである。
私にとって“彼”の第一印象は、まさにそういう“チャラ男”であった。
*****
友人に誘われて海水浴に遊びに来た。海のある町で生まれ育った私は、人やら何やらでごちゃごちゃした夏の海があまり好きでなかったけど、大学の友人たちに押し切られ、『まあ一度くらいなら』と地元の海に行ったのだ。部活で、タイムが思ったように伸びずスランプに悩みまくっていた私を、友人たちは励まそうとしてくれたのかもしれない。だけど女3人で海にいる姿は、傍から見たらどう映ったのだろうか。おそらく男漁りに来た尻軽女にでも見られたのだろう、私たちは何度かナンパされる羽目になった。
しかし友人二人はすでに彼氏がいたし(結構ラブラブである)、私はと言うと部活の陸上に打ち込みまくって恋愛なんてする気もなかった(友人たちはそれをひどく惜しんでいた。まったく迷惑な話であるが)。
毎回適当にあしらっていたが、一組、しつこい男たちがいた。
「ねえねぇ、いいじゃん、少し一緒に休憩するだけだって!」
「俺らも男3人で、ちょっと会話に花が欲しいっていうかさぁ~」
男達はこんがり小麦色に焼けた肌で、サーファーっぽい格好をした、髪色が黒・金・茶の3人組だった。――ここではそのまま髪色を、3人の仮名として使うことにしよう。茶は初めのうち面白がって一緒に口説こうとしていたが、ガードの固い私たちに段々と飽きてきたのか、ちょっと無口になった。でも黒と金はずっと積極的で、特に私の友人二人に猛アタックしていた。友人たちも嫌だと言いつつキッパリはねつける事もできないまま、しつこく粘られて。ついに、私に無言の助けを求めてきた。
(……しゃーない、色気もなんもない私が一刀両断するか)
変な覚悟を決めて、ずいと進み出た。
「お兄さん方、私たちほんとに迷惑してるので、いい加減に失せてくれませんか」
黒と金がちょっと呆気に取られ、私を見た。そして、せせら笑う。
「俺らは、君じゃなくて、二人にキョーミがあるんだよね。君、すごい体してるし、男とか必要なさそうだし?」
――カアッと、頭に血が上った。
私は確かに部活柄日に焼けてるし、本気だからこそ体作りにも余念がない。男たちが言ったのは、きっと腹筋のことだろう。私のお腹は、うっすらと割れている。だけどそれ――私の本気の証――を嘲笑され、どうしようもなく血が沸いた。
怒りのあまり、口の端に笑みが浮かんだ。
「はっ、よく分かってるじゃない。あんた達みたいなぽてぽての体の男なんか、この子らには釣り合わないのよ。なんてったって、いつも側に私がいるんだからね? 女の私より貧弱な体の男たちなんて、隣にいて恥ずかしいだけじゃない? なんだったら腹筋勝負でもしましょうか。言っとくけど私、あんた達と違ってちゃんと体作ってるし、体脂肪率だって負ける気しないけど。女に体負けて、それを笑い話にできるってことは、それ相応の価値があなたたちに備わっているってことよね? どうぞ、それを見せて下さる? そうしたらこの子たちも惚れ直して、喜んで尻振ってついて行くでしょうし」
言い終わってニッコリと微笑むと、黒と金はグッと言葉を詰まらせた。顔を真っ赤にして、怒っているのか、恥じているのか、知らないけど。その顔を見て、少しばかり胸がすっきりした。さらに追い打ちをかけようと口を開きかけた時、しばらく黙っていた茶が黒と金の頭をガッシと掴んで押し下げた。
「どーも、こりゃ完敗です。失礼しました、他当たります」
ヘラッとした情けない笑顔を見せ、茶は黒と金を引き連れてどこかへ離れていった。
いつの間にかいた数名のギャラリーからパラパラと拍手が送られ、友人二人からは『本気で惚れそう』などとからかわれて、その日の海水浴は終わったのであった。
*****
数日後、早朝。
部活がオフだった私はいつものランニングコースを通って、浜辺までやって来た。夏の海は好きじゃないが、早朝となるとあまり人がいないし、暑すぎない空気は走るのにちょうどいい。
急な坂道を上って下ると、その先がパッとひらけて海が見えるのだ。その瞬間が、最高に、好きで。陽が昇る直前に来て、朝陽を眺めて、また走って帰るのがオフの日課だ。
今日もそうして、朝陽を眺めていた。数人のサーファーも海にプカプカ浮かんで赤い太陽を見ていた。その姿が妙に可笑しくて、一人そっと笑みをこぼした。
「……あれ、君、」
その時、浜に上がって来た一人の男が私を見て、思わずと言う風に声を上げた。私も反射的に、そちらを見て。
「……あっ!」
そこにいたのは、サーフボードを抱えた、先日のナンパ男3人組の一人、“茶”だった。
(うーわ、最悪。帰ろう)
くるりと踵を返して駆け出そうとした瞬間、ぱっと腕を取られた。潮に濡れてべた付く手、腕に張り付く砂。不快感に顔をしかめて、振り返った。
「……何か?」
「あ、ごめん、思わず……。あの、こないだ海で、迷惑かけた子、だよね?」
「ええ、そうですが。迷惑かけたという自覚がありながら、今さらに追い打ちをかけるには、何か理由が?」
「ははっ、きっついなー、ほんと。気持ちいくらいに」
茶はまたヘラリと笑って、頭を下げた。
「また会いたいと思ってたんだ。この間は、本当に、失礼なことをして、言って、ごめん。反省してる、少なくとも俺は」
「……それって、他の二人は反省してないって聞こえるけど」
「うん、当たり。あの後、君のことさんざんけなしてた。筋肉女って、馬鹿にして」
「――っ、それ、ほんとーに、むかつく。代わりにあんたぶん殴っていい?」
わなわなと震える拳を必死に抑えて、茶を睨みつけると、彼は肩を竦めた。
「うん、それで君の気が済むなら。でも俺もむかついちゃったから、あいつら二人、ぶん殴っといた」
「……え?」
茶はスッと真剣な目になって、私をじっと見た。突然の変化に、私も思わず気を付けの姿勢で固まる。彼は数度深呼吸をして、真剣なまま、言い放った。
「名前も知らない君。好きです、付き合って下さい」
……。
「無理、ごめんなさい」
「わ、即答! 傷つく~」
途端にへにゃっと相好を崩して、茶は笑った。
「じゃ自己紹介から始めさせて。俺、竜平。リュウって呼んでね。……君は?」
強引に始まった展開に、なんだか答えなきゃいけない雰囲気になって、口を開いた。
「……ゆずほ」
「ゆずほちゃん! かわいい名前だぁ、爽やかで、君にぴったり」
「……」
「俺、よくここでサーフィンやってるんだ。趣味程度で全然うまくないけど、こうして朝陽眺めて帰るのが夏休みの日課。ゆずほちゃんは、ダンスでもやってるの?」
「陸上。部活で、短距離やってる」
「へえ~、それでしっかり体作ってるのかあ。いいなあ、かっこいい」
リュウとやらは、私の腹筋を嘲笑いも妬みも引きもせず、純粋に、褒めていた。なんだかそれが新鮮で、少しくすぐったいような気もして。私は頬に熱が集まるのを感じて俯いた。
「あれ、あれ、ごめん、やっぱり失礼だったかな……ごめん。でも、俺はゆずほちゃんのその努力を本当にすごいと思って、尊敬してるんだ。よく俺は何でもチャラいとか軽いとか言われるけど、アスリートってものに、本当に憧れててね……」
言い訳をつらつら並べはじめたリュウに、なんだか毒気を抜かれて。私ははあとため息をついた。
この男には、なんだか、ペースを乱される。ツンツンした気持ちとか、警戒心とか、根こそぎ奪われるような。
「私も、あんたは陸サーファーだと思ってたけど、ちゃんと波乗ってて少し見直した。チャラそうだけど、意外としっかりしてるね」
「あーっ、やっぱりチャラ男だと思ってたんだ、心外だなあ。俺ってば結構おカタいのよ」
その言葉にくすくす笑うと、相手も少しほっとしたように笑った。
「良かった、やっと笑ってくれた。……ここ、よく来るの?」
「……うん。部活がオフの日は、朝陽を見に走りに来るんだ」
そんなことを皮切りに、二人で話した。リュウは存外良い奴で、話し上手・聞き上手だった。不覚にも馬が合って、ずいぶん楽しい時間を過ごしたのだった。
太陽がすっかり顔を出しきって、暑さが増してきてやっと、私たちは別れた。次に会う約束も、アドレスの交換もしなかったけど、なんとなく、次のオフにはまた会える気がしていた。
コンクリートに照りつける光のせいか、頬が火照って仕方ない。イヤホンを耳にねじ込んで、普段はあまり聞かない女性ボーカルの繊細な曲をBGMに、いつもよりアップペースで家路を走った。
それからと言うもの、私達は会えばよく話すようになった。お互いにフルネームもアドレスも知らないままだったけど、私はこの、束縛し合わない、相手に何か期待も失望もしない関係が心地よかった。
恋愛をする余裕は実際に私には無いと感じていたし、リュウは恋の対象と言うよりも、私にとって非常に気の合う男友達だった。
リュウも、初めこそ私に付き合ってくれと言ってきたけど、それ以来、二人の関係を発展させようとする気配も見せない。だから私は、彼もこのズボラな関係が気に入っているのだと思うようになった。
そうして、曖昧でいい加減で、心地良い関係が長く続いた。季節は夏の盛りを少し過ぎ、それでもまだまだ暑さ厳しい9月の終わりになった。
大学の長い夏休みが終わり、授業が始まった。オフの日も、お互いに授業などですれ違っているのか、早朝に海に行っても、リュウには会えない日々が続いた。
*****
ある雨の日、私は久しぶりに海に走りに来ていた。雨の早朝は、あたりは薄暗くて、人もいなくて。
(泣くにはうってつけだ……)
私は最近のスランプが祟って、次の試合のリレーのベストメンバーから外されてしまったのだ。しかも、その私が抜けたポジションに入ったのは後輩。ここのところぐっと伸びてきた子だった。
(悔しすぎて、頭おかしくなりそう……!)
体育座りした膝に顔をうずめ、嗚咽を噛み殺す。非情に降り注ぐ雨に、涙なんか流されてしまえばいい。
その時、だった。
「ゆずほちゃん?」
いないと思っていた声がした。思わず顔を上げてしまった。
「リュウ……なんでいるの」
「雨でもサーファーには関係無いんだよ。それより、なんで泣いてるの、ゆずほちゃん……」
雨だからと高を括っていた。存外リュウは鋭い男だった。
「……言いたくない」
「やだ。言って」
なぜかリュウは怒った顔をして、私の隣にドッカと腰掛けた。でもこちらを見てこないのは、彼なりの気遣いなんだろう、リュウは時々フェミニストだから。
「すっごくくだらないこと。でも、あとひと踏ん張りの前に、泣かないと、足が出ないの」
「……部活でなんかあったんだ?」
「……後輩に、抜かれた。負けた、の」
言いながら、喉が一気に詰まった。涙がせり上がって、目の淵から零れ落ちた。涙を見せまいと目をゴシゴシこすり、唇を噛み締める。
「無理に我慢するな、傷になる」
そっとリュウの手が触れ、それから強引に私の手を掴んで顔から引き離した。
「見ないで!」
「じゃあ見ない。代わりに我慢するな、全部吐き出して、俺に」
吐き出したい。だけど聞かせていいのだろうか、こんな醜い感情を。
「――私、いま、すごくやな奴、だから。ひどいことばっかり、言うよ? 気分良くないよ、絶対」
それでもリュウは、真剣な目でしっかり頷いてくれた。
「それでゆずほちゃんが前に進めるなら、俺も嬉しいから。それに、さ」
リュウは、ちょっと情けなく笑った。
「弱ってるゆずほちゃんにつけ込んで、ポイント上げようとしてる俺も、大概やな奴だし、ね?」
その言葉に気が抜けて、私は声を上げて泣いた。雨の浜辺には、私とリュウの二人だけ。ひとしきり泣いて、それから愚痴やら嫉妬やら、黒い気持ちを全部吐き出した。
自分が調子の良い時は後輩の面倒をよく見てその成長を喜んでたのに。スランプに陥って、後輩のタイムがどんどん伸びることが恐怖と羨望の対象にしか見えなくなって、心の何処かで転べ、とか考えてる自分が、本当に嫌で嫌で。リレーの第二走者を取られて、悔しさで何も声をかけられず、心身共に敗北を味わった。本当に強い先輩ならきっと、よくやった、私の分も頑張れと激励し、自身も努力を怠らないだろう。だけど私は、結局、負け犬にしかなり得なかった。
「私はここで泣いて、ちゃんと前に進むために来たの。だから、もう後輩を僻まないし、彼女の努力をちゃんと認める。それから、私も初心に戻って頑張る」
グズグズ鼻をすすりながらの宣言だったけど、リュウは真剣に聞いてくれた。それからぽんと私の頭に手を乗せて、よく頑張った、って言ってくれたんだ。
「……あんたってほんと、優しいよ」
涙も止まって、見上げた奴の顔は晴れ晴れとした笑顔で。
「やっと気付いてくれた? 俺はゆずほちゃんにとって、最高の男であろうと常に努力してるんだよ。――ね、俺とゆずほちゃん、良いツガイになれると思わない?」
前だったら、『ツガイってなによ』と笑い飛ばしていたんだけど。今ではそれが、本当に素敵な選択に思えるから不思議だ。
「さっき自分で、私の弱みにつけ込んでる悪い男って言ってたじゃない」
「あ、ああ、あれは、その場の勢いと言いますか、買い言葉に売り言葉というようなやつでして……」
途端に慌て出すリュウ。私はちょっと笑って、
「いいよ。ツガイの件、考えとく」
それだけ言って立ち上がった。まだポカンと呆気に取られてるリュウを残して歩き出す。
ふと、思い出した。まだお礼を言ってない。
「リュウ!」
私が呼ぶと、彼は従順にこちらを見上げた。
「――ありがと、大好き!」
走り出した空気は、雨に洗われて、すがすがしく清らかだった。
*****
その後、私のタイムは段々と良くなっていった。重い気持ちを全部吐き出して、プライドをかなぐり捨てたのが良かったんだろう。初心に戻って、基礎練も見直した。今度の試合は後輩の走りを見ていることしか出来ないけど、その次は、もう譲る気はない。そう、ハッキリ宣戦布告したら、後輩も嬉しそうに笑っていた。この子にも、心配をかけていたんだなあと反省した。同時に、私をさらに強くしてくれたことに感謝もした。
――そして、一番、ありがとうと言いたいのは。
「ゆずほちゃん! やっばい、俺、感激だよ、ついにゆずほちゃんの私服姿拝めるなんて!」
大げさな反応に苦笑して、でも、悪い気はしない私も大概だ。
「そんなたいそうなモンじゃないよ、私、私服なんて3セットくらいしかないもん」
「うーん……確かにランニング中のゆずほちゃんも捨てがたい……タンクトップに短パンだし」
「どんな理由よ、それ。殴るよ」
相変わらずリュウはへにゃっとした笑顔でよく笑う。バカっぽく見せてるのは、わざとなのかもしれないと最近は思う。ほんとは人の機微に敏感なやつだから。
リュウとは、ようやくアドレス交換をしてメールや電話もするようになった。でも、まだ“お付き合い”しているのではない。前よりもリュウは積極的にアタックしてくるんだけど、私にはやっぱりまだ陸上が一番で、一歩踏み出せないから。理解ある彼に、ちょっと甘えてるのかもしれない。それでも、“恋愛”に目を向け始めただけ私にとっては大きな進歩だ。
「……で? 今日のお出かけの目的は何かな、俺のお姫さまっ!」
リュウがあんまり楽しそうにはしゃぐから、周りが何人かこっちを振り返った。恥ずかしさに怒ろうとしたけど、ふと、こんな経験も彼と一緒だからこそできるのかな、なんて、思ったりして。
私の知らなかった世界を見せてくれて、優しくて、理解もあって懐のでかいリュウ。こんな優良物件もそうないんじゃない? ――私もなんだか、だいぶ丸くなった気がする。陸サーファーだと思っていたけど、違った彼。本物のサーファーってのも、なかなかカッコイイかも、なんて。
「前から、サーフショップに一度行ってみたかったんだ。案内してくれる、リュウ?」
あなたのことをもっと知りたい、なんて私は素直には言えないから。
こんな言葉でも、きっと、あなたなら分かってくれるような気もして。
「もちろん! じゃあ今日は、俺の趣味全開でいくから、覚悟してよー」
にっこりと笑ったリュウの笑顔にドキッとした。不覚にも、日焼けした肌にのぞく歯がすごく好きだな、と気付かされた。
今年、私は、あついあつい〈恋〉に落ちるのかもしれない――。
「春の恋」に続きまして、「夏の恋」。
さっぱりした性格の女の子と、彼女に懐く犬男子。
ちょっと心揺れるオトコマエな女の子を書きたかったのです。