別れの準備
翌日、朝食を食べるより早い時間にチャイムが鳴った。寝坊してミリアさんに起こされるような時間ではないはずなのだが? そう考えながら扉を開けると、そこにはヤハクが立っていた。
彼は酒宴が始まる前に、大人たちに追い返された。そういえば、あれから僕はまったく連絡を取っていない。正しくはそれ所ではなかった。
「おはよう、フレッド。」
「ああ、うん。おはよう、ヤハク。」
僕の心中は察して欲しい。とにかく言えるのは、昨日がどちらの結末を迎えていたとしても……今この状況は厳しい。
「この二日間の事は別に訊かない。俺まだ子供だし? でも男だから。フレッドが何考えたかは分かるつもり。」
ヴィラの食堂の屋外の席、ヤハクは僕の真正面にいる。一緒に朝食を取りながら彼がまず口を開いた。表情は悪くない。けれど彼はどう思っているのだろう? それを考えると、とても怖い。っていうか、何で知ってるんだ? 何処まで知っている? やはりここではプライバシーというものの概念が希薄であるらしい。
「姉ちゃん、昨日泣きながら帰ってきてさ。部屋に閉じこもったまんま。最初は大騒ぎしてたけど、すぐ静かになったよ。無断外泊の方は、ここのおばちゃんのおかげでお咎め無し。どうせフレッドを飲ませた張本人なんでしょ? 毎年恒例だし。おばちゃんが快方を頼んだ形になってるよ。」
彼の声は淡々としていて心臓に悪い。生きた心地がしないという表現は、こんな時に使うものだろうか? おまけに僕を見て溜息を吐いてくれるものだから、益々追い詰められた気分にさせられる。
「と、ここまでが報告。気になってたんでしょ?」
「……うん、ありがとう。良かった。」
怒られなかったと聞きホッとした。だが彼女の現状は心苦しい。傷つける事は分かっていた。追いかけもしない、言い訳もしない……僕は何もしていない。きっとそれが一番酷い事なんだ。
「ねえ、フレッドはこのまま帰るつもり?」
「うん、そのつもり。僕にはシャファンの人生を振り回せないよ。今抱えているものを投げ出す度胸も無いし、彼女には僕の惑星なんて向かないしね。」
僕みたいな、いやそれ以上の理詰めの人間がゴロゴロしている世界だ。ここのおおらかさや、感情に任せた生き方は相当に浮く。ここで浮いていた僕が言うんだから間違いは無い。あの惑星の人間に、この惑星の人間のような寛容さは無い。否定か、良くて無関心だろう。僕がここに来て、この違う世界の中で学ぶ事はたくさんあった。だが逆はどうだろう? ここから『スコラティクス・プラネタ』に行って、何か学ぶべき事があるのだろうか?
「フレッドは相変わらずだな。考え方が面倒臭いや。」
「悪いけど、それが僕ってものなんだよ。」
自嘲気味に薄く笑うと、それもそうだね。と、彼は笑った。良かった……けど、そこまで笑わなくても良いんじゃないか?
「明日帰るんだよね?」
「そう、明日。昼一番のセスナでこの島を発って、そのままかなり上手く乗り換え出来るんだ。」
「そっか、分かった。じゃあ、空港までは見送るよ。」
彼は僕の前に手を差し出す。だから僕はその手を握った。
「ありがとう、ああそうだ。僕の持ってきた機材、全部貰ってくれないかな?」
「何で? 罪滅ぼしだとか言うなら、いらないよ? もしそうなら見損なうから。」
今、僕は初めて彼に睨まれた。握った手にも痛いほどの力が込められる。だが、もちろんそんなつもりは微塵も無い。
「ヤハクはあの場所の調査をして、立派になるんだろう? その足しにして欲しい。言うなれば投資ってやつさ。」
「そういう事なら遠慮なく……って言いたいけど、本当に良いの?」
彼の強く握られた手の力は抜け、口は間抜けな形に開いていた。ここに来てからずっと、僕は驚かされてばかりだった。けれど、少しだけやり返せた気がして気分が良い。
「勿論。中古でよければだけど。僕も知りたいんだ、あの場所の事。でもそのためには君が明らかにしてくれないとね?」
「ありがと。実はフレッドに教えるかどうか、本当は迷ったんだ。でも良かったって思ってる。だって俺の夢笑わなかっただろ? それに……」
そこで言葉が途切れた。誤魔化すように涙を拭う。
「兄貴みたいに思ってたんだ。すっごい世話の焼けるさ、だから……ううん、いいや。何でもない。絶対明らかにしてやるよ。」
「うん、楽しみにしてる。ずっと友達だよ。これからも連絡するしね、自慢じゃないけど僕には友達が少ないんだ。」
「何それ? 本当に自慢にならないし。でも、俺もするよ。こんな心配な友達なんか他にいないもん。」
「酷いな。何でそんなに皆心配するんだ? 僕はもう十分大人なんだけどな?」
「ほらそれ、そうやって自覚が無い所だよ。」
やっぱり酷い。一切の遠慮もなく彼は笑っていた。だから僕も一緒に笑った。
その後、ヤハクと一緒に島を歩いた。パウじいに挨拶をして、お昼はヤハクの家でご馳走になった。サニエさんのご飯はやっぱり美味しい。彼がどうしても家で食べようと誘ってくれたんだ。
そして、この日は初めて父親に会った。背はそれほどでも無いが、とても逞しい体をしているのが、服の上からでも一目瞭然だった。今日は有給を取ったらしい。理由は僕を見てみたかったからだそうだ。いつも話題に上がっていたらしい。確かに、それだけ僕はここに通っている。
僕はとにかく気まずくて仕方が無いのだが、彼の方は一向に気にした様子も無い。今まで僕の指定席だった場所には、正式な主が座っている。そして僕は、この場にいないシャファンの席にいた。この事も妙な緊張感の要因なのかもしれない。あの子は拗ねて閉じこもってるだけよ。サニエさんはそう笑っていたが、そう割り切れるほど神経は持っていない。何よりその言葉は、彼女が理由を把握している証でもある。どうしてここにはプライバシーが無いのだろう?
食後は清算が始まった。友達だけど契約は契約だからねと、びっしりと数字で埋まったシートを渡された。確かにお金は払わなければならない。そう、そうなのだが……複雑だ。これだけ良くしてくれたのに、所詮は金で繋がった友人か……まあいい。あの笑顔には屈託が無い。時折ズルそうなものは混じっていたけれど。
午後はコテージに戻り、片付けをした。帰る準備だ。自分の家ほどに慣れてしまった部屋は、何だかとても名残惜しい。帰ればまた『家と仕事場の往復』という味気の無い生活が再開するはずだ。
本当にここでは色々あった。南国への幻想は早々に打ち砕かれ、不思議な文化に触れ、未知の植生に感動した。そして、素敵な人々に出会った。振り回されてばかりだったけど、今思えば楽しかった。
ああそうだ、忘れちゃいけない事がある。夕飯はリベンジだ。初日に行ったショーの行われるレストラン。彼女の職場だ。
あの時は、もう二度と行く必要は無いと思ったが、今はそれを悔しいと感じている。どうやら僕は、ここに来て少し変わったらしい。
あの日と同じように砂浜を歩き、店に向かった。そして、メニューからちゃんと好きな料理を選んで頼んだ。もちろん同じ店員にだ。ショーもとても楽しかった。映像で良いと思っていたものは、ここに来て違うのだと知った。こうして直接目にし、音を聞くのはまるで違う。迫力が全然違うんだ。
そして、ここにも彼女の姿は無かった。残念というべきか、ホッとしたというべきなのか、自分の気持ちは分からないのだが。ただ、もし仕事を休んでいるのなら、職場に迷惑を掛けたのではと申し訳ない気分になった。何故ならその原因は、僕にあるはずだから。
あと残り2話くらい?