弱い僕と強い彼女
端末に表示した写真を眺め、昔の事を思い出していると、シャファンの微かな声がした。どうやらやっとお目覚めになるらしい。
昨夜は僕のせいでよく寝られなかったらしいので、その分グッスリだったのだろう。僕が起きた時間も昼をとっくに過ぎていたが、彼女が意識を失ってから更に2時間ほどが経過して、今は午後の4時になろうとしていた。
「おはよう。」
開きっぱなしだった写真を閉じ、体ごと向きを変え彼女を眺めた。ゆっくり起き上がった彼女は、僕に気付いて顔を赤く染めた。それから着衣の乱れを確認しようとするので、僕は慌てて身の潔白を主張した。
「何もしてない、大丈夫、大丈夫だから。」
しかし、それはそれで不満らしいのか、不貞腐れた彼女は頭から布団を被って隠れてしまった。
「……意気地無し。」
おまけに、こんな台詞まで飛び出す始末だ。……女の子の心理は難しい。
「シャファン、とにかく帰った方がいいんじゃないか? ずっとここにいても、君の立場はどんどん悪くなるだけだろう?」
それは僕も同様で、実際にはやましいなど何も無くても、男の部屋に無断外泊。おまけに翌日も遅くまで同じ男と一緒となれば、疑うなと言う方が無理だろう。いや、少し手を出してしまった事実はあるのだが……。
「うん、それはそうなんだけど。ねぇ、今何時?」
「もう少しで4時だね。」
「そう、じゃぁもう少し。」
しぶしぶ布団から顔を覗かせた彼女にそう教えたのだが、何をどう計算したのだろう? どうしてそういう結論に至ったのか教えて欲しい。ああ、そういえば、まだ言い訳を考えていない。だからこれから考えようという事だろうか?
「もう少しって、良くないだろう? まぁ確かに言い訳はまだ考えて無い気がするけど……。」
「それならもういいの。薬を貰いに行った時にミリアさんの知恵借りたから。うん、大丈夫。」
なるほど、確かに彼女の後ろにはそんな人もいる。年の功の知恵を借りれば、上手い言い訳が出てくるものなのか。
「そう、知恵ってどんな?」
「んー? えーと、そうね。あなたの介抱でここに泊まったけど、泊まっただけって証言をしてもらうの。」
昨夜の様子から考えると女将の発言力は大きい。そして信頼もだ。そんな彼女の口添えがあれば一晩くらいの外泊など……どうにかなる世界なのかここは!? 余程大らかなのか、それとも適当なのか、いずれにせよ大き過ぎる感覚の違いに僕はまた戸惑い、クラクラする。
「本当に、そんなので済むのか?」
理解の範疇を軽く超えた思想に、いい加減脱力する。
ここに来てから一体どれだけのカルチャーショックを受けたのだろう? 楽しい事、驚く事、呆れる事、色々たくさんあったけれど、さすがにこれはトップクラスの衝撃だ。
思わず顔を手で覆い、俯いているとシャファンに呼ばれた。
「ねぇ……フレッド?」
遠慮がちに、でも『あなた』では無く、きちんと名を呼ばれて驚いた。
「今度は大丈夫だから。」
「大丈夫って、何が?」
「……さっきは驚いて気を失っちゃったけど、今度は大丈夫だから。」
一度目は反射で質問を返したしたものの、今度はそういう訳にはいかない。……返答に困る。本音を言えば、彼女の言わんとしている事を、僕は理解したくなかった。この言葉の先は、今まさに迷っている事を真正面から突き付けられてしまうのだ。
勢いだけでは駄目だと思う理性。それでも感情に任せたいと思う自身。しかし『遊び』でなんて器用な事が出来る性格でもない。あと三日という残り時間では、どうしたって前者を選ぶのが僕だ。
布団から出てきた彼女は、端に腰掛け落ち着き無く足を揺らした。僕はその素足を自然と目で追い、罪悪感を感じて目を逸らす。
何気なく端末へと目を向けると、モニターにはメールが表示されたままだった。そうか、写真の下になって忘れていたのか。
フリージアとの事が気にかかるのは、きっとただの感傷でしかない。このメールもタイミングがあまりにも良過ぎただけだ。彼女との終わりは諦めではあったけれど、納得出来るものでは無かった。しかし、まだ好きだという類ものでも無い……とは思う。
「私は後悔したくないの。私、フレッドが好きなんだもん。」
彼女の告白はとても甘美で嬉しく思う。けれど、その言葉を素直に喜び、受け入れるだけの心のスペースは、今の僕には無い。たぶん思い出してしまった絶望感で占められているのだろう。
眩しく強く美しい彼女。気が強くて不器用で、でも意外と可愛らしい所も見つけてしまった。彼女はとても魅力的な人だ。そう、とても。だから……、
「僕なんかに、君はもったいないよ。」
僕の中で出た答えはこうだ。
「でも、フレッドも私を好きだって言ってくれたでしょう?」
「うん、今もそう思ってる。だけど僕はもう三日しかここにはいないんだ。君が好きだと言ってくれるのはとても嬉しい。だけど、」
「……だけど何よ? 三日しか無いから、今動かなきゃいけないのよ?」
押し殺したような彼女の声にギクリとして振り向いた。殴られる!? と、思ったのは条件反射かもしれない。しかし彼女は足を垂らし、俯いているだけだった。
「だけど……ここはとても遠いんだ。またすぐ来るなんて簡単に約束なんか出来ない。」 僕はその場限りのような約束をする気は無い。
僕には故郷の星を逃れられない義務がある。
僕には今、ここまで来るのにかかる多額な旅費の持ち合わせは無い。
そして時間。こんなに長い休みが取れるのは稀な事だ。今回のように費用と時間がぴったりと重なる時は、一体何年先だろう? おまけにそれは期限がつく。
「距離が何よ? そんなの、片道分頑張れば良いだけじゃない。」
何も知らず、彼女は無責任な事を言ってくれる。そう思うと溜息が出た。
「僕にはまだ、あの星から自由になれない理由があるんだ。」
そう自由。過去の僕が浅はかであったがために、今の僕は囚われの身に等しい。逃れるための条件は薬の完成。しかし今の状況では、それがいつになるのか見当もつかない。下手をすると完成しない可能性だって十分に有り得るのだ。
そして僕は更に暗い気分になる。
けれど、それは僕の勘違いでしか無かったと、次の彼女の言葉で知った。
「そんな理由なんか関係無いわよ。……頑張るのは私だもの。私があなたの所に行けば良いだけでしょう?」
確かにここから出たいと言っていた。けれどそう簡単に貯められるような額では無い。それに、昨夜の踊る姿を思うと、彼女はここに無くてはならない人だと思う。彼女の才能は、簡単に投げ出してしまうには勿体無い。
「君は踊る事にプライドを持っていたんじゃなかったか?」
そう言って彼女は僕を引っ叩いた。なのに、今の彼女の言葉は矛盾している。
「当たり前じゃない。そうじゃなきゃ踊る価値なんかないわ。でも、場所なんてどこだって良いのよ。私は踊りをやめる気なんてまったく無いもの。」
彼女の言葉は僕の予想を遙かに越えた。踊る場所はこの場でなければならない。それはただの思い込みでしかないのだと。
本当に僕は、枠の中に嵌まりきった人間らしい。そして彼女は……本当に強い。