わだかまり
気を失ったシャファンはそのままベッドに寝かせておいた。また妙な事を考えてしまわないように、きちんと布団をかけて視覚的な刺激の要素を排除した。
それから僕は端末に向かい、データの入力作業の続きを……するつもりだったのだが、思いもかけない事に懐かしい写真を眺めている。
もう8年も前のまだ幼い僕達。施設内の中庭での昼食の光景。いつの間にか友人に撮られていて、後でからかわれながら渡された写真だ。
ストレージにアクセスするためネットワークにログインすると、メールの到着を知らせる短い音が鳴った。またDMかな? そう思いつつも受信箱を開くと予想外の名前で驚いた。そして何故このタイミングなのかと頬が引きつる。
距離を考えればこれが送信されたのは3日は前で、おまけに確認したのが今だというだけでしかない。別に何を遠慮するという間柄でも無いはずなのだが……何となく心臓に悪い。
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ハイ、フレッド。
サマーグリーンはどう?
ちゃんと楽しんでる?
君は真面目だから、どうせ、ずーっと植物の採集でもしてるんでしょう?
そこはあなたにとって楽園みたいなものだものね。
ねぇ、ほら正解でしょう?
スキャナ持って行ったって聞いたんだから。
休みなんだから休む!
そのくらい普通にしなさい!
じゃぁ、またね。
もちろん、お土産は忘れないように。
*-*-* フリージア *-*-*
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はい、正解です。まるで見られていたかのような文面に苦笑した。
……さすがに彼女には適わない。
今は友人の一人になってしまった『フリージア・松下・リックマン』苦い思い出と直結した、かつての彼女の名前だ。
僕がここまで植物にのめり込んだのは彼女の影響に他ならない。彼女が植物好きだったとか詳しかったというのではなく、そう、どちらかと言えば逆だろうな。
僕と同じく抗体を持つ彼女も、同じ施設で机を並べた学友の一人だ。黒いストレートの髪を持つ彼女は、ジャポネの血のせいか実際よりも幼く見える。しかし、頭の中身はずば抜けていた。施設内でも1、2を争うほどの才女で、僕なんかじゃまるで歯が立たない。そんな存在だった。けれどそんな彼女が格好良くて、ライバルという関係にはあるものの、実は内心憧れていた。
いつだっただろう? 教室に残った数人で他愛の無い話をしていた時、名前に関する話題が上った。きとんとした由来があるとか、実はふざけた由来だとか、中には親の初恋の人の名前だったらしいとか。思わず笑ってしまうような流れの中、彼女は突然流れを止めた。「松の下のフリージアって、おかしいわよね。松とフリージアって並んで生えてるイメージ無いもの。だから私は、自分の名前が嫌いなの。」と自嘲気味に言った。そんなに真面目な顔して言われたら、笑うに笑えない。そして残念ながら、この時の僕は「松」という木を知らなかった。「フリージア」も花の名である事は知っていたが、姿は合致しなかった。彼女の言った意味が正確には理解出来ず、ただ困っていると「気にしないで。」と彼女は柔らかく微笑んだ。
自信を否定する言葉を口にする彼女に、どんな言葉をかけるのが正解だったのだろう? 僕は、彼女にそう言わせてしまった事をとても情けなく思った。そして、僕が本当に彼女の事を意識したのはその時からだ。
それから僕は必死に勉強した。そしてやたら無駄に詳しくなった頃「そんなに植物が好き? 物好きね、何でそこまで?」と、彼女に呆れられた。でもそのおかげで、僕達は付き合う事になったのだから、彼女も相当物好きだと思う。
けれど、僕達はそう長い間『恋人』という関係ではいられなかった。
互いの立場、そして周囲の利害の対象にされた関係は、僕達には耐えられなかった。
ひょっとしたらあの時の僕は、彼女の事を本当に愛していた訳ではなかったのかもしれない。同じ境遇の同じ場所で学ぶ彼女。秀でた知性に憧れて、彼女も僕を認めてくれた。けれどそれは、一種互いの傷を舐め合うような行為であったのかもしれない。
周りの大人が僕達の事をやたらと歓迎してくれた。
そう、違和感を覚えるほどに。親や友人、仲の良い先生はまだしも、そう接点の無い先生や、施設に出入りしている政府の人達にまでだ。
あの時は必死に否定したかったのだが、やはりどう考えても僕達は実験体として見られていたのだろう。あの人達は、免疫を持つ僕達の次の世代に興味があったのだと思う。
実験で使うモルモット。彼らも僕達もそう変わりはしない。そういう事なのだとあの時に思い知らされた。
違和感は次第に不信感に変わり、彼女との関係にも徐々に亀裂が入った。
どんな障害を乗り越えてでも。なんて格好良い事はあの時の僕には言えなかった。そんな覚悟も根性も無かったんだ。何となくよそよそしい態度をとり始めた彼女と、彼女が嫌いになった訳ではない僕は、とてもちぐはぐな状態ながらも、必死にどうにかしようとした。今思えば、まだ「好き」だったのかどうかも怪しい。
僕は彼女が好きである理由を挙げ、必死に好きである事にこだわっていた。でも、それはきっと間違っていたんだ。
やがて、モルモットである事に耐えられなくなった彼女から。とうとう別れを告げられた。そのギリギリまで思い詰めたような姿に、さすがに追い縋ろうなんて気は起こらなかった。ここまでか。と、そう思っただけだ。
僕にもっと覚悟があれば。あるいは、もっと早くに諦めていれば、あんなに彼女を苦しめる事はなかったのかもしれない。
彼女とは『友達』という関係に戻った事で、関係は以前よりスムーズになった。
今彼女も、チームは違うが同じ会社に勤めている。休み時間に時々顔を会わす事もあるが話は普通に出来る。そしてちゃんと笑ってくれる。終わる前のあの辛そうな笑顔ではない。
あの頃は愛しいと思っていたはずなのだが、今の関係の方がとてもシックリすると感じているという事は、僕はそれほど彼女の事が好きではなかったのかもしれない。
意地……だったのだろうか?
自分達の境遇への不満や、選ばれた僕を手放しに喜んだ両親達への憤り。そして何者かであった自分を誇りに思っていた、幼かったの自分の浅はかさ。
もしそうであるのなら、とても彼女に申し訳なく思う。
無論、彼女と過ごした日々が楽しくなかった訳ではない。だが、締め付けられるような息苦しさを感じていたのも事実だ。
今はどうだろう? あの時とは違うと言い切れるだろうか?
モニタに映る当時の自分達から目を離し、ベッドへと向けた。僕はもうあと三日ほどしかここには居ない。戻るべき場所、いや戻らなければならない場所がある。享受しただけ返還すべき責任を負わされている。そしてここが彼女の場所だ。そう、僕と彼女との間には純然たる距離が存在する。一時の感情で思いを告げる事も、受け入れる事もさすがに出来ない。もうあの時みたいな子供ではない。まだ知り合って日も浅い。彼女の事を思えば、距離を置くのが正解なのだとは思う。
実際の所どうなのだろう? 僕は本当に彼女の事が好きなのだろうか? 今胸にある彼女を手に入れたいという思いは、障害をものともしないほどの思いなのだろうか? 僕にその覚悟があるだろうか?
穏やかに規則正しく上下する布団を眺めながら、僕はそう自らに問いかけた。