困惑の事由
翌日からは、午前のうちにあちこち散策して成分スキャナでデータを採取し、午後からはヤハクと一緒にコテージに戻り、そのデータの整理をした。
スキャナの使い方や色々なデータの読み方、持参した薬品の説明に、参考になりそうな文献へのアクセス方法等、出来る限りの範囲で彼に協力するのが主な目的なのだが、彼がいる事で僕にも十分にメリットがある。備考欄の記述が各段に増えるのだ。
こうして地道にファイルに纏める作業は、相当に骨が折れるにもかかわらず、実際の所データとしては物足りない。出来る事ならば実物をサンプルとして持って帰りたい。そうすれば社の設備を拝借して、もっと大掛かりな分析器で詳細に調べる事も出来る、そこから必要に応じて様々な物質を抽出する事も可能だろう。
しかし、そのためには検疫や諸々の法律に抵触しないように、色々な手続きを通さなければならない。
社を通じてであれば、僕は申請書を出して到着するのを待つだけだ。事務手続きや交渉は専門の誰かがやってくれる。そして僕はその事をきっと当然だと思うのだろう、いや当たり前過ぎて今まで気付きもしなかった。今回持ち出すための方法を調べ、情けない事に初めて気付いた。
『サマーグリーン』からの持ち出し申請、そして『スコラティクス・プラネタ』への持ち込み申請。研究資料としての外来種規制法の適用外申請、害虫・有害ウイルスがいない事の検査報告書、その他僕自身に関する証明等、気の遠くなるような手間がかかる事を初めて知った。
しかも量が量だ。この島の固有種の数だけそんな手続きを通そうだなんて、もはや正気の沙汰では無い。……さすがに個人でそこまでする気は無い。いや、製薬会社で新薬の開発を生業にしていても、所詮は一会社員に過ぎない。ただの個人の手続きがそう簡単に通るとも思えなかった。
だから僕は、成分スキャナでデータを採取しファイルに纏めるという所で妥協したのだ。
そんな作業を繰り返していた3日目の夜、突然鍵の開く音がして扉が開いた。
もちろんヤハクは夕方には帰しているし、彼はここの鍵を開ける事は出来ない……はずだ。
確証が持てないのは前例があるからで、おそらくはその前例の人物が、今入ってきた人物であると推測される。だから僕は別に振り向こうともせず、招かれざる客には構わず作業を続行し続けた。ここにいられる時間はもうそんなに長くない。今のこの作業をできるだけ多くこなしたい。
しかし、扉が閉まる音がして以降、いつまで経っても僕が指で叩く机の音しか聞こえない。足音もしない、移動したような気配も無い……さすがに根負けして、入り口の方を振り返る。動く気配の無い彼女は、最早不審でしかない。
「……ひょっとして、ずっとそこに立ってるつもりとか?」
「ま、まさかそんなはず無いじゃない! ただ……何か忙しそうだなって、声をかけそびれただけよ。」
予想通りの人物であるシャファンは、何故か動揺した様子で早口にまくし立て、つかつかとカウチまで歩くと、乱暴に座り込んだ。
しかし座り込んだ彼女は、またも沈黙する。
そして僕は理解に苦しむ。彼女が何をしに来たのか分からず、そうであるが故に、僕はどうしたらいいのかも分からない。もし今ここで、『入り口で立っていた事の説明が足りないよ。』……などと、率直な事を言おうものなら、また平手打ちを食らいそうので、止めておいた方が賢明だろう。
……まったく、どうして彼女はいつも不機嫌なんだろう?
とは言え、さすがにこのままでは時間が過ぎるばかりだ。
「所でシャファン……またこんな遅くに何の用なんだい?」
時刻は22時を過ぎた辺り、若い女の子が一人でうろついて良い時間とは思えない。そして前回の事もあり、さすがに警戒してしまう。もし、もう一度同じような事をされたなら、僕は完全に彼女の事を軽蔑するだろう。しかし、出来る事なら良き友であるヤハクの姉を、そんな風に思いたくは無い。
彼女が何を言い出すのか、戦々恐々とした思いで言葉を待つが、彼女は「えーと」とソワソワするばかりで、なかなかその理由についての話を切り出してはくれない。
「ひょっとして、仕事の帰り?」
店の終わる時間が何時なのか確認していないので知らないが、1つの可能性として訊いてみた。そうでもしなければ埒が明かない。
「えっ? あぁ、うん、そうなの。仕事が終わって帰りに寄ってみたの。」
しかしその答えは行動を示すだけで、理由には当たらない。そしてまた、会話は途切れる。いい加減痺れを切らした僕は、1つ溜息を落として再び端末に向かう事にした。本当にここにいられる残りの日数はもうそんなに長くない。できるだけ多くの資料を急いで纏め、帰ってからの実験に利用したいんだ。
ホログラムのモニターに視線を戻して、机の上に映し出されたキーを叩いているうちに、シャファンの事は頭の中から完全に消えた。不規則に響く指の音も気にならない、集中によるトランスじみた状況の最中、僕は不意に首を絞められ、突然現実に引き戻された。
……もちろんシャファンの仕業に他ならない。
締められたといっても苦しいほどではなく、ただ相当に驚かされただけなのだが。実は理由は他にある。
「なっ、こら、急に何をするんだ!?」
背中に当たる柔らかいものと、店での化粧の残り香なのか、ほんのり甘いそれに焦りを覚え、慌てて彼女を剥がそうとしたが、掴んだ腕の細さに僕はますます慌てた……な、何がしたいんだ彼女は一体!?
「シャファン? あのさ、何ていうか……非常に困るので離れてくれないかな?」
なかなか離れてくれない彼女に仕方なく直接お願いすると、一度強く締められてようやく離れてくれた。
「鈍感。」
喉仏の辺りを圧迫されて、思わず咳き込んでいた時に彼女はそう言った。『……何が!?』僕はそう言いたかったのだが、まともに声が出るようになる前に、
「馬鹿っ! 私、帰る!!」
そう彼女は喚いて、来た時同様……いや、更に機嫌を悪化させてここから出て行った。
……何だったんだ一体? 僕は訳が解らぬまま、しばらく呆然と閉まった扉を眺めてしまった。
翌朝、とても甘い匂いのする、アサガオに似た真っ青い合弁花をスキャンしながら、ヤハクに昨夜の出来事を話すと、盛大に大笑いしてくれた。
ちなみにこの花は、一般的なアサガオの半分程度の大きさで、逆に蔓に咲く数は倍以上なので、小さな花が大量に咲いている印象がある。葉の形は別物で厚みがあり形状も菱形状卵形である。
姉の奇行をそこまで笑わなくても……と、さすがに諌めようとしたが、
「……両方とも、どっちもどっちだ。あぁ、もう俺、腹痛い。」
笑いながらそう溢し、大袈裟に腹を抱える姿に僕は更に頭を抱えた。
「両方ともって、どうして僕まで? 僕は何もしてないぞ?」
そしてそんな僕の姿を見て、彼は更に笑う。
「やっぱり気付いてない……っていうか、それで気付くかっての! 駄目じゃん、姉ちゃん!!」
彼一人だけ何を納得しているのか……まったく解らないのだが、明らかに馬鹿にされているようで、何となく気分は良くない。
「……なぁ、君の姉さんは、一体何がしたいんだ?」
この質問にヤハクは笑うのを止め、僕をマジマジと見た。そうされると、どうにも落ち着かないので視線を明後日の方に向けた。
「不器用女に、鈍感男。俺にしてみれば面白い組み合わせだと思うんだけどな~。」
組み合わせ? 本当に何の話だ?
「……そんなに姉さん魅力無い? それとも既に意中の人でもいるの?」
「は?」
「違う? やっぱそんな風には見えないんだよな。姉ちゃんみたいに気が強いのは、やっぱ駄目? 確かに可愛げは無いけどさ。そうだな……フレッドは真面目で大人しいから、もっとおっとりしてる方がいいのかな?」
「いや……。」
「あのさ、結局フレッドのストライクゾーンって何処? どういうのが良いの?」
ここまで言われれば、さすがの僕でも理解出来た。……ただ、何故なのかは理解出来ない。
「僕の女性の趣味はどうでもいいから。……でも、シャファンがって……何で?」
「知らない。だってこういうのは理屈じゃないもん。」
この14歳の少年は、妙に悟ったような事を言う。一回りも年の離れた子供に、恋愛について諭される僕って何だ?
「好きなら好きってさ、そういうのがここの人間。気質ってやつ? 情熱的に裏表無く、断られても恨みっこ無し……まぁ、姉ちゃんは例外だけどね。」
自分で言って笑う彼に、僕は逆に慌てる。
「待て、その例外は一体どこに掛かるんだ?」
彼は一瞬笑うのを止め、言葉を反芻してまた笑い出した。
「やっぱフレッドは面白いや。」
いや、だから、笑って誤魔化さないでくれ。
「……でさ、フレッドは、姉ちゃんの事どう思ってんの?」
そして見事に話を変えられた。
「どうって、綺麗な子だと思う……けど、気が強いのは事実で、何考えてるか解らなくて、振り回されて、喧嘩っ早い……って、気を悪くしないでくれよ? 聞いてきたのは君だ。」
「別に怒らないよ、俺もそう思ってるもん。」
事も無げに答えた彼は、少し何かを考えて再び口を開いた。
「ねぇ、フレッド。もう1つ内緒の場所に連れて行ってあげる。」
「まだ他にもあんなのがあるのかい?」
思い出すだけでも鳥肌が立つ。切り取られたように残された過去の遺物『カラフル・ガーデン』もし、まだ他にそんな場所があるのなら、是非、無理を言ってでも見てみたい。しかし、彼の答えはそういったものでは無かった。
「ううん、そういうんじゃなくてさ、今度祭りがあるんだ。ここに住む者だけの秘祭ってやつ?」
「……それ、見つかると捕まったりしないよね?」
「大丈夫。別に部外者を入れるなってんじゃなくて、先祖の弔いって感じの祭りでさ、観光客呼んで大騒ぎしたくないってだけだから。」
「僕、十分観光客なんだけど。」
「大丈夫。騒がなきゃ誰がいたっていいんだって。明後日の夜だから夕方迎えに行くよ。傍若無人な姉さんの分のお詫びって事でさ。」
ヤハクの隠しきれていない含み笑いは気になるが、祭り自体はせっかくだから見てみたい。『秘祭』という言葉に、興味と共に少しばかりの恐れも抱いた。子供の頃、面白半分で読んだ、昔の人々の奇祭の記述が頭を過ぎったせいだ。
地元民以外に姿を見られないように、こっそり真夜中に行うだとか、通りすがりの旅人を攫い、生贄にして神に捧げるだとか、選ばれた少女を神に嫁がせるとか、事実かどうかなんてのは知らないが、相当にバイオレンスで非人道的な内容のオンパレードだった記憶がある。
だがここの秘祭は、きっとそんな事は無い。
……そう、僕はヤハクを信じている!
ヤハクは祭りについても、教えてはくれなかった。「一見は百聞にしかずだよ。」それだけ言って、次の木の場所へさっさと移動してしまう。
その言葉は、僕がここに来て心底実感しているので反論のしようが無い。だから、僕は彼の背中を追いながら『何でシャファンが僕なんか?』それだけを考えていた。どうしてもこれは、理解出来ない事だったからだ。