雨
いつものアラーム音で目を覚ましたが、いつもより体はだるく、頭の中もすっきりしない。
昨夜のシャファンに腹を立てたせいか、どうしていいのか分からなかったせいか、次に会ったらどう接したらいいのか、彼女を泣かせてしまった事に罪悪感があるせいか。たぶん全部含めてぐちゃぐちゃで、慣れない事態に混乱したのだろう。昨夜は結局寝付けなかった。つまりは寝不足ってやつだ。
体を起こすのが億劫で、そのままぼんやりと天井を眺めた。目を閉じれば、再び眠りの淵に落ちてしまいそうで、意識して目を開けた。
そういえば、いつもより薄暗い。窓に目を向けると、差し込む光がいつもより少なく感じる。耳を澄ませばパラパラと雨音もする。
そうか、今日は雨なのか。
ここに来て初めての雨。
濡れた緑の葉は、普段とはまた違った色合いで綺麗かもしれない。
……でも僕は雨が好きじゃない。
スコラティクス・プラネタは、雲が多い分、雨もまた多い。しかし強く振る事は少なく、シトシトと弱い雨が気まぐれに降り注ぐ。一度強い雨が降ってしまえば、雲は霧散し晴れた空が覗くのにと思う。
けれど半端な雨は灰色の雲をそのまま残す。そして、風に吹かれてどこかに流された雲は、いずれまた気まぐれに、どこかで雨を降らすのだ。
スコラティクス・プラネタの閉塞感は、きっとこんな所にもあるのかもしれない。
……いや、駄目だ。感傷に浸っても何にもならない。だから僕はここに来たのに、これではなにも変わらない。シャワーでも浴びてしっかりしよう。
僕はそう気を取り直し、勢いをつけて起き上がった。
朝食の時間ミリアさんは。いつものように厨房のカウンターの向こうに座っていた。
「おはようございます。」
「おはようフレッド。昨日シャファンは行ったかい?」
いつもの朗らかな顔に、いつもの挨拶。ただその後ろに昨夜の出来事を確認する一言が付随する。
この一言で、もやもやとしたものが胸中に再び広がる。そうだ、この人がブレスを登録しなければ、昨夜は何も起こる筈が無かったのだ。
「はい、来ましたよ……。どうして彼女のブレスを登録したんですか?」
「おやおや怖い。あんたもそうやって怒る事があるんだねぇ?」
笑っているくせに何が怖いんだ?
……いや、そんな事を考えてはいけない。一瞬過ぎった考えを、僕は慌てて否定した。
「僕は怒っているつもりはありませんよ。ただ確認したいだけです。」
「そうかい? あんたはいつも澄ましてるから、やっと本音が見られたと思ったんだがねぇ。」
思いがけない事を言われ、心外な気分がした。
いつも心穏やかに努めて、人に真摯に向き合う事。
これが僕の信条だ。
波風を立てず、人と円滑に接するために、これが僕の辿り着いた結論だ。しかし、こういう問題ははっきりさせておかないと駄目だ。
「はぐらかさないで下さい。ここではセキュリティーとか防犯意識とか、倫理観とかどうなってるんですか?」
しかし今度は彼女が、僕の言葉に心外そうに口を開く。
「どうって、シャファンは良い子だよ? あたしゃあの子を信用してるから別にねぇ、あたしはただ、彼女の背中を押してやっただけ……って、それともあんた、何か悪さでもされたのかい? それなら話は別で叱ってやらなきゃならないんだけど。」
彼女はそう言って立ち上がると、腕まくりをする仕草をして息巻いた。
何故そうなる?
僕は彼女の管理意識に一言申し入れたいわけなのだが、彼女の答えはシャファンに対する信用である。
「いえ、驚かされはしましたが、悪さはされていませんよ。」
「……そうかい? ならいいんだけどさ、人間、素直に正直に、楽しく暮らしてた方が良いのさ。」
彼女の言う事は唐突で、質問に直接答えたものでも無く、僕にはさっぱり意味が判らない。
「で、シャファンは何て言ってた?」
おまけに彼女は、興味津々にカウンターから乗り出してくる。
「何で訊くんですか?」
「そりゃ、手を貸してやったんだ。顛末を知ったっていいだろう?」
それはシャファン本人に訊いてくれ。とも思うが、彼女にまたあの台詞を言わせるのが何故か嫌で、諦めて口を開いた。
「……自分を買わないかって。」
「なんだいそりゃ!?」
「知りませんよ。こっちが訊きたいくらいなんですから。」
そんなに素っ頓狂な声を出されても、あいにく答えは持っていない。彼女の声で、食堂にいた他の客と、スタッフとして働いているミリアさんの娘夫婦が、好奇の目をこちらをに向けた。
「あぁ……まぁ、うん。なるほど……まったくあの子は、不器用を通り越して器用な子だね!」
僕には何が何だかさっぱり分からないのに、彼女は一人で納得して大きな声で笑い出した。本当に何なんだ??? おまけに、複数の視線はまだこちらに向けられたままで、僕は居心地が悪くて仕方が無い。
「まぁ、そう気を悪くしないでおくれ。シャファンが良い子だってのは、あたしが保障するから大丈夫だよ。」
僕は豪快に笑う女将に返す言葉が無かった。
昨夜のシャファンの行動はやっぱり謎のままで、ミリアさんの言ってる意味も分からない。
しかし、彼女が口にした『あの子を信用してるから別にねぇ』『シャファンが良い子だってのは、あたしが保障するから大丈夫だよ』という事がどれだけ大きな意味を持つのかは、さすがに解る。
人から信用を得るには時間と誠意がいる。
おそらくシャファンについては、小さな頃から知っているからなのかもしれない。でも、今迄それが揺らいだ事が無いような印象を受けた。
彼女の信用、良い子、昨夜の言動……よく分からない。
食後のコーヒーを飲みながらふと気付いたのだが、いつの間にか食べ終わっていた。皿に取ったクロワッサンと、スクランブルエッグ、ツナのサラダにヨーグルト。全部きちんと食べた形跡はあるのだが、味はおろか食べた事すら記憶が朧だ。
……それほどまでに、僕は昨夜と今朝の事を考えていたらしい。
朝食の後コテージに戻ると、全ての窓を開け放った。
よく分からない事で頭の中が占められている今、せめて部屋の中くらいはすっきりさせたかった。寝起きのままの鬱々とした空気を、全部入れ替えてしまいたかった。
雨はそう強くはないが、朝早くから振り続けているのだろう、気温はいつもより低い。吹き込む風は湿り気を帯び、少しばかり冷やりとする。
肌を撫でていくその空気が、少しだけ僕の気分をシャキッと引き締めた。
雨の降り込まない窓だけを開けたまま、雨音をBGM代わりにして、これまでに採集した成分スキャナのデータを整理した。
雨は好きではないが、思わぬ時間が出来た……と、考えれば良いのかもしれない。
ヤハクと一緒に散策をして、スキャナに取り込んでいたデータの数は相当な量になっていた。珍しい植物ばかりで嬉しい反面、この作業量はなかなかに骨が折れそうだ。ヤハクに逐一名前を聞いて、名称欄に入力しておいたのがせめてもの救いだなと、思わず苦笑が漏れる。
とは言え、これは半分以上僕の趣味だ。別に課せられた指名でも、仕事でもない。面倒だからと止めてしまっても、どこからも苦情は来ないし、特別困るような人もいない。
しかし……さすがに好きでやってる趣味まで、投げ出してしまうのは面白くない。
まずはスキャナのデータを端末に転送した。それからそのデータを、リスト形式のフォーマット入れ込むツールで指定して実行すると、瞬時に膨大なページ数のリストファイルが出来上がった。ここまでは勝手にやってくれる。
だが、ここからが本当の僕の仕事だ。
1つ1つ画像を確認しながら、未登録の項目を埋めていく。
採取日時、場所の座標、温度、湿度、そして構成する成分の組成は、全てリストに記載されている。後、残るのは備考欄。そこに、覚えている限りのヤハクから聞いた事を入力していった。そして、思い出せない事がある度に、もっと早くやれば良かった……と、悔しく思った。
作業を始めてどれだけ経ったのか、さすがに疲れて背伸びをすると、雨音は聞こえなくなっていた。端末の端に表示された時刻を見ると、16時半になろうとしている。
……またやった、集中し過ぎた。
昼は随分と前に過ぎ、見事に昼食の機会を逃してしまった。一度溜息を吐いて、体と頭の緊張をほぐすと、意識したせいか、やたらとお腹がすいたような気がする。ちらりとセット・バランス7が頭を過ぎったが、それと同時に、もう少しマシな食品を口にしたいとも思った。
外が明るい事に気付き、腰を伸ばしながらテラスに向かい外を覗くと、灰色の雲はどこかに消え、気持ちよさそうに澄んだ青い空が広がっていた。おまけに、そこには雨上がりのプリズム。美しい宝石のような光の弧が、見事に空を飾っていた。
僕は少し嬉しくなって、風をはらんで浮かび上がるカーテンを捕まえて除け、濡れたテラスに出ると、部屋履きのサンダルが水を跳ね、足に冷やりとした雫が当たる。そして僕は考えた。どうせ濡れるのなら裸足でいいか。と、その場で脱いで部屋の中に揃えて置き、そして手すりの所まで行き、改めて虹を眺めた。
昔の人は、その虹の根に宝があると夢想したらしい。
もしも虹を掴まえる事が出来たなら……なんて、考えた事も無い自分は夢が足りない人間だろうか?
『夢想』だと、簡単に言ってしまえる自分は、つまらない人間なのではないだろうか?
もし…もしも、逃げる虹を掴まえる事が出来たなら?
そこまで考えて、その先が出てこなかった。出来もしない事を考えるのは得意ではないのかもしれない。ただ……僕の新薬開発の仕事も、あの虹のように手の届かないものでなければいい。と、一瞬考えてしまい、ゾッとした。
その縁起でもない考えを、頭を振って必死に追い払う。出来ると思っていなければ、この仕事はやってられないんだ。