失望
その日の夜にはヤハクから「熱が下がった」というメールが届いていたが、僕は「明後日訪ねるよ」という返事を返した。さすがに病み上がりの彼を、いきなり連れ回すような事は出来ない。
逆に不満の声が戻って来たが、ぶり返されても申し訳ない。
「病み上がりはしっかり休んだ方がいいよ」と送っておいた。
その夜の随分と遅くなった頃になって、異変が起きた。
僕はもう寝ていたのだが、扉の開くような音に起こされたのだ。足音を忍ばせた何者かが、僕のいるベッドに上がり込んで来た所で、僕は完全に目が覚めた。だが、相手が強盗かもしれないと、息を殺してじっと様子を窺う。
チェックインの段階で、僕の認証ブレスがここの鍵になっているはずだ。しかしそれを破るシステムがあるのか? はたまたマスターキーの女将のブレスが悪用されたのか?
疑うのは嫌だが、もしもそうならここの人間とは倫理観が一致しそうに無い。
……僕はどうなる?
仕事の邪魔にならないように縛り上げられるのか、考えたくも無いが殺されるのか? 騒げば最悪の事態に転がる確率が、跳ね上がるのは間違い無い。
だから僕は目を閉じて、動かないように相手の動きに全神経を集中させた。
何者かは僕に跨り、温かい感触が頬に触れた。それは明らかに手の平のもので、以外に小さく柔らかい。そしてその手は、何度も何度も僕の頬を撫でる。
……強盗ではなさそうだが、これはこれで意味が解らない。
正体を求める欲求に負けてそっと目を開けると、それは髪の長い女性で、外から入り込む薄明かりの中目を凝らすと、シャファンが僕の頬を撫でていた。
これは……益々謎が増えた。
「あ、あの……君は何をしているんだい? いや、そもそも、どうして君がここにいるんだ?」
「ミリアさんに頼んで、私のブレスも登録してもらったの。」
「何故?」
「あなたに用があるから。」
「何の用なんだい? わざわざこんな夜中に、そんな事までして忍んで来なくても、昼間に声をかけてくれればいいだろう? 昼は昼で何がしたいのか分からなかったけど。それより、今のこの行動は一体何……」
「ねえ、私を買ってくれない!?」
抱いている疑問をまとめて全部ぶつけていると、シャファンはとんでもない事を言ってくれた。
……何だそれは?
「シャファン? 僕はあいにく人身売買なんて危ない仕事には、縁が無いんだ。」
聞き間違いであって欲しいと、一度はとぼけた。
「そうじゃない。……私を抱いて欲しい。」
けれど、僕の期待はあっさりと打ち砕かれた。聞き間違いではなかった事にガッカリして、静かな怒りが込み上げてくる。
そういう事を生業にする人がいるのは理解している。しかし僕は、それを非難するつもりも、資格も持ち合わせていない。それぞれ事情を抱えての選択の結果だ。だが、友達の姉である彼女には、そんな事をして欲しく無い。
……何故、彼女はそんな事を言うんだ?
「どうして?」
「私はここから出たいの! でも、それにはたくさんお金が必要で……。」
彼女は矛盾する。
自分で言っていた事と、この行動が結びつかない。僕はその事に激しい不快感を覚えた。
苛烈な目で僕を見て、媚びを売るのは嫌だと言ったのは何だったんだ?
「でも私にはそんな額を稼ぐ方法なんか、他にありはしないもの……それに、」
彼女の吐き気のするような言い訳に、僕は無性に苛ついた。
もう、これ以上は聞きたく無い。
「君は、いつもそんな事をしてるの?」
「違う!」
自分でも驚くほどの冷たい声に、彼女は声を張り上げて否定する。
「私はそんな女じゃ無いわ!!……今までこんな事した事なんか無いわよ。でも、あなたなら……。」
「僕はいいカモかい?」
「そんなつもりじゃ、」
「シャファン……馬鹿な事は止めてくれないかな?」
僕は体を起こして、シャファンを正面から見た。
「君がしようとした事は、君が馬鹿にしているここの人達と変わらないんじゃないか?」
「ちが……」
「何が違うんだい? 誰の入れ知恵かは知らないけど……幻滅させないでくれないかな? そんなに自分を貶めるような事はしない方がいいよ。絶対に君のためにはならないからね。」
「そうじゃないの……。」
そう言いながら涙を零した彼女に、ぎくりとした。さすがに言い過ぎたかと、内心慌てた。一度深呼吸して気分を切り替え、今度はできるだけ優しく話しかけた。
「いいや。こんな遅くに、女の子がうろつくもんじゃないよ。ほら、送って行くから帰ろう。」
小さな子供をあやすように頭を撫でると、彼女は無言で頷く。泣いているとはいえ、彼女がこれほど素直なのには驚いた。
「でも、そのためには、着替えないといけないから、少し向こうを向いててくれないかな?」
そう言うと彼女は、小さな声で「ごめんなさい」と呟いて、慌て後ろを向いた。
……不思議だ。あんなに大胆な事をしでかす割には純情で、僕は彼女に、とてもアンバランスな印象を抱いた。
Tシャツにトランクスのままで寝ていた僕は、イスに掛けておいたズボンを手探りで履いて、声をかける。
「もういいよ。じゃあ帰ろうか?」
朱色に輝く月の光で、夜の景色は仄明るい。細い道をライトで照らしながら、二人ともただ黙って歩いた。
結局、彼女の家に着くまで、僕たちの間に一切の会話は無かった。