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単純な電車

作者: つなかん

 「はぁ」

 小さなため息を吐き出すと、同時に白いモヤの様なものが目の前に現れ、数秒もしないうちに消えてしまった。ふと、上を見てみるとどんよりとした雲がところせましと視界を覆う。

 人間は、『頭上を見る』という行為は中々しないものらしいが、物事が行き詰まったとき、悩み事があるとき、そして今の様に何をするともない手持ちぶさたな時間にふと頭上を見てしまう。俺の癖だ。

 辺りを見渡すと、様々な人物が目に映る。短いスカートを履き、PHSをいじっている学生。女の子は余り身体を冷やさない方が良いと思うのだが、俺の様なオヤジが彼女にそんなことを言ったら最後、きっと彼女はその小さな機械に向けられている端正な顔に怒りの表情を張り付け、俺を変質者呼ばわりするだろう。

「寒いな」

 冷たい風が撫でる様に俺の頬を通り過ぎて行った。前方の女子高生の、細いルーズソックスに包まれた足が羨ましく見えた。スカートこそ短いが、足はきっと温かいに違いない。

 視線を少し横にずらすと、みすぼらしい服に身を包んだ、段ボールで形成された家に住んでいるオッサンが見えた。きっと、俺よりも寒い思いをしていることだろう。

 そいつを見ていると、俺は学生時代、かなり頭の良かった奴に久し振りに会ったところ、借金まみれになっていたことを思い出した。人生は何が起こるか分からない。俺の様なサラリーマンという地位がどれだけの犠牲の上に成り立っているのかということが身に染みる。

 毎日同じ時間に起き、毎日仕事をし、家に帰っても誰もいない。テレビに話し掛けてしまう様な俺でも、まだ恵まれている方なのだ。

 もうすぐ電車が来るという内容が、妙に耳に響くアナウンスを介して聞こえる。

 前方の女子高生は、今度は鞄から音楽プレーヤーを取り出した。

 ゴォーっという音と共に目に染みるオレンジ色が、駅に到着した。女子高生の短いスカートが、僅かに捲れる。

 さぁて、行きの電車は寝ていこう。


 朝の電車は往々にして混雑している。今日の様な通勤時間なら時々ではなく、ほぼ毎日押し合いへし合いといった状況だろう。

 しかし、今日は違った。こんなにも雨が降りそうな天気なのだから、いつもより混んでいたとしても何ら疑問は抱かないだろうに。

 そんな事が一瞬頭を掠めたが、俺は気にせず座席に腰を下ろした。前方に座っている先ほどの女子高生を見ると、今日の電車が混雑していないことに感謝した。痴漢とやらに間違えられたら、たまったものではない。最近は、両手を上げて吊革に捕まることを心掛けているのだ。

 長い間電車の中で揺られるこの時間。俺は様々な事を思案する。

 例えば、電車というものはとても奇妙な乗り物だ。知らない人間同士が同じシートの座席に座る。それも、とても近い距離に。財布を盗める、あるいはナイフで殺せる、またあるいは恋人の様に肩に頭を乗せることができる。そんな距離に人々は腰を下ろす。

 また、俺はこんなことも考える。

 俺には、彼女がいる。二つ歳上だ。そろそろ結婚も考える年齢だろう。

 実は、鞄の中には給料三ヶ月分の指輪が入っている。先日購入したものだ。彼女は喜んでくれるだろうか? いや、きっと喜んでくれるはずだ。何せ今日の俺はツイている。

 電車が空いているというだけで、こんな風に楽しい気持ちになれるとは意外だった。

 俺は、一通りそんなことを考えた後、ゆっくりと瞼を閉じた。いつもの様に立ちながら眠るよりずっと心地良い。電車の揺れがまた眠気を助長させる。

 ――寝過ごさない様に気を付けてなければ。いつもなら絶対にしない、そんな心配までしてしまうほど、気分が良かった。


 今日は本当にツイている。仕事が予想よりもずっと早く終わったのだ。きっと今日はそういう日なのだろう。

 俺は、彼女と待ち合わせているレストランにいる。今流行っている隠れ家の様な雰囲気の店だ。オレンジ色の証明が薄暗い店内を照らしだし、どこかの映画のワンシーンと言われても違和感が無い。

 ほどよい緊張感で、無意識に背筋をピンと伸ばしてしまう。

 俺のポケットの中には指輪が入っている。その重さ、箱の形が、これから俺が何をしようとしているかを客観的かつ冷静に判断している様な気がして、何となく嫌な気分だ。

「ごめん、待った?」

 彼女だ。くるくると癖のついた髪を一つにくくっている。薄く化粧された顔は綺麗な笑顔で、またさらに美しく見えた。堀の深い外人の様な顔、初めて会ったときは本当にハーフか何かかと思ったほどだ。スカートから見えるスラリと伸びた足は、朝の女子高生のそれよりもずっと綺麗で艶かしい。

 彼女を見ると、一瞬でその場が輝いて見える。決して誇張などではない。目にフィルターでもかけたかの様に、周りの風景が、一トーン明るく見えるのだ。

「いや、今来たところ」

 俺は、お決まりの台詞を彼女へ返した。この台詞は、いつも彼女が言っているのに。そう考えるとなんだか可笑しく思えた。

 彼女は、あの美しい笑顔のまま、俺の向かいの椅子に座った。そういった何気ない動作も、なぜか目で追ってしまう。それほどまでに優雅な動きだった。

「そっか、良かった。何頼もうか?」

 この台詞も、俺がいつも彼女に投げ掛けている言葉だ。何だか今日は色々といつもと違う日だ。

 そう思い、俺は少しだけ口の端を歪めて笑った。きっと彼女の様な綺麗な笑顔でなく、あまり見れたものではない顔になっていることだろう。彼女は、メニューに目を通しながら、そんな俺にチラリと目をやった。

「どうしたの? 何か良いことあった?」

 彼女の顔は、美しい笑顔から子供のように可愛らしい、何か面白がっているような表情に変化した。目を大きく見開き、薄い唇の端を綺麗に上げ、首を傾げている。

 俺は、一瞬で彼女の顔がここまで幼い表情に変わるということを始めて知った。

「いや、今日は電車で座れたし、君にも会えたし、とても良い日だと思って」

 俺は『君にも会えた』という一言を強調して彼女に伝えた。これからプロポーズしようという人間が、直前に相手を怒らせてしまうというのは、あまり褒められたものではない。

 俺の何気ない一言が、彼女を怒らせてしまったということも過去に数回あった。女心というものは、とても複雑なのだ。言葉は慎重に選んでしかるべきだろう。

 彼女と違い、笑顔をつくるのが苦手な俺だが、極力気持ち悪いと思われない様に少しだけ微笑んで見せた。彼女は、俺の気持ちが分かったかの様に、また笑顔を俺に向けてくれた。

 しかし、彼女は俺の気の利いた一言には触れず、『電車で座れた』という内容に食いついてきた。

「そうなんだ。あっ、そうだ。今日は人身事故があったから、みんなタクシーとか使ったんじゃない?」

 そういえば、今日は珍しく課長が遅刻していた。俺が乗ったのは下り電車だからあまり影響が無かったのかも知れない。いつもより空いていたのは、そういった理由があったのか。

「でもさ、人身事故ってかなり迷惑だよね。私もそれで何回か遅刻したことあるし。どうせ自殺するなら、樹海とかでやれば良いのに」

 彼女はたまに、こんなひどいことを言う。しかし、話を聞いているとその意見も正しいのではないか、と思うこともある。俺は、人の意見を聞かない様な子供ではないのだ。

 俺は、水の入ったグラスを持ち、喉を潤している彼女を見つめた。細くて長い指。欧米人の様に白い肌、反論しようと頭の中で考えていた言葉が、どこかで迷子になってしまった様だ。彼女は、少しだけ首を上に持ち上げ、器用にグラスの水を口につけていた。この瞬間を絵でも写真でも構わないから、形として残したい。そう思った。

 もう既に、俺の家には何枚もの彼女の写真がある。美しい笑顔、少し困った顔、怒った顔、泣いた顔、全てアルバムにしまってある。もちろんそれは彼女には秘密だ。よってカメラ目線ではない写真がほとんどなのだが、俺はそれを残念に思いつつも、彼女に知られては大変なことになるであろうと考え、アルバムをめくっては、なんともいえない焦燥感というものにかられるのだ。

 ゴクリ、と彼女が水を飲み込むたび、俺の耳には、自分の心臓の音の様にその音が響く。視線はもちろん彼女の喉元から離すことが出来ない。うっすらと見える血管が、ひどく神秘的なものに見えた。

 彼女が水を飲み終え、グラスをテーブルに置いた音で、俺は正気に戻った。一瞬で先ほど迷子になっていた言葉が戻ってくる。

「でも、近所に樹海が無い人だっているかもしれないじゃないか。家族に迷惑を掛けたくて、人身事故を起こす人だっているかもしれない」

 そうだ、俺なら彼女に何も思われることなく忘れられる存在になるくらいなら、人身事故を起こして、彼女を会社に遅刻させる原因になったほうがマシだと思う。現に彼女はこうして俺に、会社に遅刻したことを話しているのだ。少なくとも忘れられるという心配はない。

 俺がそう言うと、彼女は少し訝しんだ目で俺を見た。

 そんな目で俺を見ないで欲しい、さっきの様に美しい笑顔を向けて欲しい。そんな思いで俺の頭はいっぱいになった。

「ふーん、そう思うんだ。でも、家族に迷惑を掛けるためっていうのは盲点だったかも」

 彼女はそう言いながらも、少し不満そうな、怒ったような表情を崩さなかった。

 何を言ったらよいのだろう? 何を言ったら彼女は満足するのだろう? 彼女はどんな言葉を求めているのだろう?

 そんな疑問が、俺の頭の中をぐるぐると回った。あの笑顔を向けてもらうために何か言葉を捻り出さなくてはならない。

「で、でも君に迷惑を掛けるのはお門違いというものだよ。自宅で死ねば良いんだよ、そういう人は」

 ふぅ、これできっと彼女は満足してくれるはずだ。『自宅で死ねば良い』といった様な解決策を提示しないと、彼女は満足しないことを俺は知っている。

 予想通り、彼女は怒った顔を、眉のひそめ具合、目の大きさ、口角を上げる度合い、首の傾きさえを完璧な笑顔に変え、俺の方を見た。

 嬉しい。そんな単純な感情しか湧いてこなかった。しかし、その感情はとても幸福なもので、彼女の笑顔ひとつでここまで思ってしまう自分がある意味恐ろしくも感じた。

 もし、プロポーズに失敗したら……。

 そんな絶望的な未来を想像すると、とても怖かった。自分はどうなってしまうのか、ということに。

 将来の不安や、世間体などではない、彼女と別れてしまった自分は、果たして今まで通りの普通の生活を送ることが出来るのだろうか?

 今まで通りといっても、彼女の写真を隠れて撮影していることは普通ではない。そんな事は重々承知の上だ。

 そうではなく、毎日同じ時間に起き、毎日仕事をし、家に帰っても誰もいない。テレビに話し掛けてしまう。そんな俺にとっての当たり前の生活がおくることが出来るか? それがとても心配だった。

 ウエイターに注文を伝え終えると、彼女はまだ食事が運ばれてきていないというのに、水を頼んだ。『喉が渇いちゃって』目を伏せながら、少し恥ずかしそうに彼女は唇を動かした。なんて可愛らしい仕草だろう。とても愛おしく思ってしまう。


 彼女は、魚のムニエルを注文していた。透けるような色の、今にも折れてしまいそうな細く長い指で、器用にナイフとフォークを使いながら、小さく魚を切り分ける。

 俺には、彼女がフォークの先に刺さった魚を口に運ぶさまは、ほんの数秒の出来事だというのに、ビデオをスローで再生している様な、ゆったりとした動きに思えた。

 話に聞く走馬灯というものは、一瞬で今までの人生のワンシーンがスローで、頭の中を駆け巡るというものらしい。多分、この瞬間は俺が死ぬ直前に、真っ先に思い出すものになるのではないだろうか? 大学に合格したときでも、会社で昇進したときでも、好きな映画を見て、感動したときでもない、この瞬間が思い出せれば、俺はとても満足するだろう。

 ただ向かい合って食事をしているだけなのに、死ぬ直前のことを考えている。そんな自分が滑稽に思えた。

 俺は、自分の注文した肉料理をひどく不恰好に切っては、淡々と口に運んだ。きっとおいしいのであろうが、向かいの彼女を見ることで精一杯な俺には、この料理のおいしさというものが全く理解出来なかった。そう、俺には料理ではなく、彼女を理解することが出来たらそれで満足なのだ。もしそれが出来たらきっとこの世に未練を残すことなく、死んだ後も幽霊になって出てくるということもないはずだ。

 彼女は、食事の最中、話し掛けられることを嫌う。一度俺が、テレビを見ながら食事をすると言ったときには、信じられないという顔をしていた。大きく開いた口を、小さな掌で隠し、空いている左手で前髪を耳に掛けていた。

 俺は、昨日のことの様に彼女の一挙手一投足を覚えている。俺は自分の記憶力に感謝した。

 さて、彼女に話し掛けることが出来ない俺は、肉を口に運びながら彼女をまた観察することにした。一瞬たりとも彼女から目を離したくないので、肉の形は相変わらず不恰好だ。

 彼女はパンを少しずつ手で千切っては、せっせと口へ運んでいる。もう少し大きく千切れば良いと思うのだが……。彼女が大きく口を開いて、豪快に食事をするさまを見てみたいという気もする。


 食事が終わると、ワインを飲んだ。紫色をした赤ワイン。

 彼女は水を飲んだときの様に、あの華奢な指でグラスを持ち、少しだけ首を上に持ち上げ、グラスの中のワインに口をつけた。水と違うところは、彼女はグラスの中身を飲んだ後、丁寧に口の端を拭うところだ。

 彼女が口を拭うとき、一瞬だけ彼女の爪が見える。何も装飾されていないそれは、健康的な薄いピンク色をしていた。

 よく、爪の中に空気が入り、白い三日月の様なものが出来てしまうことがある。俺はそれが嫌いだった。綺麗では無いから鑑賞に耐えない。そんな単純な理由からだった。

 しかし、単純で良いのだ。俺の感情は、頭であれこれと考える割に、ひどく単純なのだ。きっとそれは幸せなことだ。

 感情が複雑な人間がいたら、きっと引きこもりでもしない限り、通常生活をおくることは不可能に近いと思う。もっとも、引きこもった生活を通常生活と呼ぶものなのかどうかは個人の主観の問題なのだが。

 俺はまた、彼女がグラスをテーブルに置いた音で我に返った。そうだ、プロポーズするなら今しかない。一瞬だけ、断られたときの、恐ろしい未来を考えた。

 いや、きっと大丈夫だ。なんせ今日の俺は、一生のうちで一番とまではいかないだろうが運が良い。朝の占いなどは見ていないが、血液型占いも星占いも、きっと上位に食い込んでいるはずだ。ラッキーアイテムだって、もしかしたら所持しているかも知れない。

 俺はゆっくりと、ポケットの指輪を取り出した。

「あ、あの。僕と結婚してください」

 俺は、彼女に給料三ヶ月分の指輪を見せながら、カラカラの口で言ってのけた。さっきワインを飲んだばかりだというのに、どうしてこんなにも早く水分がなくなるのだろう。

 心臓が今までにないくらいの心拍数を刻んでいるのを感じる。おそるおそる彼女の方へ目をやると、彼女はひどく狼狽し、同時に悲しそうな顔をしていた。

 一体どうしたことだろう?

 ……何分経っただろう? 俺の心は、諦めの感情が渦巻いていた。

 そんなとき、おもむろに彼女が口を開いた。

「ごめんなさい」

 一言だけ、言った。


 彼女は、ずっとうつむいている。

 俺は『あんまりだ』『酷い』『裏切られた』といった感情が浮かぶものだと思い、またそれを危惧していたのだが、思いの他何も感じなかった。

 唖然、というのだろうか? まさか断られるとは思っていなかったので、思考がついてゆかないのだろう。後でじわじわと悲しみに暮れることは分かりきっている。せめて理由だけでも聞いておこう。

「どうして、ですか」

 『ですか』と言葉を発したとき、俺はこれからずっと彼女に敬語を使い続けてゆくだろう事を痛感した。

 先ほどまで汗ばんでいた掌から、スゥっと汗が引いてゆく。彼女はうつむいたまま、小さな声で語り始めた。

「私、もう結婚しているの。貴方と付き合っている間、何度も言おうと思った。でも、出来なかった。ごめんなさい」

 俺は、さっきプロポーズされた彼女の様に、ひどく狼狽し、そして悲しみの感情に支配された。

 俺はよろよろと立ち上がると、レシートを手に取った。うつむいたままの彼女に『駅まで送っていくよ』と声を掛ける。


 食事の代金は、彼女と割り勘をした。本当は、俺が全額支払うつもりだったのだが……。

 財布の中の一万円札を見て、これほどの脱力感に襲われるのは、日本中で俺しかいないだろう。

 駅までの道は、いつまで歩いても辿りつかないのではないかと思うほど、長く感じた。彼女のハイヒールの音だけが、静かな夜の街に響く。彼女は何も話さない。悪いと思っているのだろうか? こっそり彼女の方に目をやると、彼女の瞳には、うっすらと涙が溜まっていた。

 いったいどうしたというのだ? 泣きたいのは俺のほうだ。俺は、彼女という生き物を最後まで理解出来ないでいた。そんな事実に押しつぶされそうだった。


 彼女と二人で駅のホームに立ったとき、俺は先ほどの彼女との会話を思い出した。

 ――彼女に忘れられるくらいなら、自殺でもした方がマシだ。

 そんな恐ろしい考えが、頭に響く。きっと彼女にとっての俺は、昔付き合っていた、食事代を出してくれたというだけの男として記憶されるだろう。そんなことが耐えられるだろうか? いや、無理だ。不可能だ。

 確かに俺は、彼女の家を知らない。だから写真を撮るときも、彼女の通勤途中がほとんどなのだ。

 しかし、彼女と結婚している男は違う。彼女のパジャマ姿、寝顔、髪を下ろした姿。それらを全て知っているのだ。

 そう考えると、世の中がひどく不公平なものに思えた。朝に見かけたホームレスも、何度となく今の俺と同じ様なことを考えたのではないだろうか?

 朝とは違う声のアナウンスが聞こえる。俺はふと、顔を上に上げた。俺よりも身長の高い彼女の顔が目に映る。

 ――彼女に忘れられたくない。

 そんな思いでいっぱいだった。しかし、彼女の目の前で自殺をしたところで、本当に彼女はその先の人生で、俺のことを誰かに話してくれることがあるのだろうか? 面白おかしく語ってくれても良い。泣きながら思い出して、後悔なんてことをしてくれたら、どんなに幸福なことだろう。

 俺は、ホームから線路を見下ろした。無機質に、そこに横たわっている線路。もし俺が、足を踏み外そうとしたら、彼女は止めてくれるだろうか?

 無理だ、出来ない。俺だって自分の命は惜しい。死ぬのはとても怖い。いざ自分が死ぬことを考えると、『死』というものが、ひどくリアルに感じられ、隣に横たわり、今にも俺を飲み込もうとしているのではないか。そんな錯覚に陥った。

 どうしたら良いのだ。どうしたら……。


 ――殺してしまおう。

 そんな恐ろしい考えが浮かんだ。

 簡単なことだ。少しだけ背中を押せば良い。彼女だって、自分を死に追いやった男のことを忘れる様なおめでたい思考回路の持ち主ではないはずだ。

 電車が段々と近付いてくる音が聞こえる。

 俺は、彼女の背中に掌を回した。

 電車に轢かれた彼女はどんな風になるのだろう? 手足は千切れ、その断面からはどす黒い血液が流れ出すのか? 内臓が飛び散り、周りの人間は嫌悪感で顔をしかめるだろうか? 緩くウェーブの掛かった髪には、べっとりと血がこびりつき、ある意味幻想的に見えるのかも知れない。

 彼女は死ぬ直前、何を思うのだろう? 俺と食事をしたことを思い出してくれるだろうか? プレゼントしたネックレスの色は覚えているだろうか? そして、またそれを思い出すのだろうか? 暖かい血液が顔を流れるとき、俺のことを恨んでくれるだろうか?

 俺は、ひとしきりそんなことを考えた。なんて利己的で自己満足な考えだろう。でも、それで構わない。恋愛なんてものは、曖昧な感情でしかないのだから。

 やっぱり、俺には殺すなんてことは出来ない。殺人犯になるのが怖かった。世間体。写真のコレクションが世間にバレてしまう。様々な理由があった。やはり俺は、とても自己愛に満ちた人間なのだ。

 彼女は、相変わらずうつむいたまま、黄色い電車に乗り込んだ。電車のドアが閉まるまで僅かな無言の時間が続く。

 電車のドアがゆっくりと閉まるとき、俺は今までとは違う、醜い感情が芽生えるのを感じた。そして、ドア越しの彼女を見ると、もう以前の様に彼女の顔を見ても美しいと感じることがなくなっているのに気付いた。

 俺の感情はひどく単純だ。

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― 新着の感想 ―
[良い点]  電車内という、ごくありふれた光景を抑えた文体で描写していて、とても読みやすかったです。 [一言]  自殺に関する恋人の醒めきった言葉に、空恐ろしいものを感じました。
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