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君の隣は、私じゃなかった

◇ 島崎まひる視点 ◇


 物事には、順序がある。


 私はずっと、そう信じて生きてきた。


 努力をすれば結果がついてくる。準備をすれば本番で崩れない。感情に流されなければ、判断を誤らない。それが、島崎まひるという人間の生き方だった。


 父も母も、私に多くを強制しなかった。門限も、習い事も、進路も――「まひるが決めなさい」と言い続けた。自由を与えられた子供が堕落するのは、意志がないからだと、幼い頃から理解していた。だから私は自分で決めた。勉強をすること。体を鍛えること。感情ではなく、論理で動くこと。


 その結果として、賞状が増えた。表彰台に立つ回数が増えた。周りの大人たちが「島崎さんは素晴らしい」と言うようになった。


 嬉しかった。でも、それだけだった。


 愛情というものは、知識として知っていた。本で読んだ。映画で見た。クラスメイトが誰かを好きになって、泣いたり笑ったりするのを、ずっと横で観察していた。感情の動き方も、その理由も、論理的に理解できる。


 ただ――自分がそれを感じたことは、なかった。


 誰かを見て、胸が痛くなったことも。

 誰かのことを、眠れないほど考えたことも。


 一度も、なかった。


 ……あの日までは。


――


 高校一年の秋。


 私はいつも通り、図書室の奥の席に座っていた。窓際から二番目、棚の影になって人から見えにくい場所。あそこが私の指定席だった。


 放課後の図書室は静かだ。司書の先生がページをめくる音と、外のグラウンドから遠く聞こえる運動部の声だけが、空気の中に溶けている。私はその静けさが好きだった。


 だから、隣の椅子が引かれた音がした時、少し驚いた。


 顔を上げると、見知らぬ男子生徒が、当然のように座ろうとしていた。


「……ここ、誰かいますか」


 もう座る体勢になってから聞くのか、と思ったが、声には悪意がなかった。ただ少し、不器用なだけだった。


「いません」


 そう答えると、彼は「ありがとうございます」と言って、参考書を開いた。


 それだけだった。最初は。


 でも彼は、五分と経たないうちに口を開いた。


「この問題、解き方が二通りあるんですけど、どっちが試験で使いやすいと思いますか」


 突然すぎる問いかけだった。私は一瞬、自分に向けられた言葉なのかと確認してから答えた。


「……見せてください」


 彼はノートをこちらに向けた。私はそれを見て、すぐに答えた。


「右側。左は途中式が長くなって時間をロスする」


「やっぱりそうですよね。ありがとうございます」


 彼はそう言って、また問題に向き直った。


 私も教科書に目を戻した。


 でも、なぜか。

 その日はいつもより、時間が早く過ぎた気がした。


――


 それから、彼はたびたびあの席に来た。


 毎日ではない。週に二回か、三回か。来る日も来ない日も、特に約束はなかった。ただ、気づいたら隣に座っていた。


 話す内容はいつも、勉強のことだった。問題の解き方、参考書の選び方、試験範囲の優先順位。それ以上でも、それ以下でもなかった。


 でも、おかしなことに。


 彼が来ない日は、図書室がいつもより静かに感じた。


 その理由を、私はずっと分析しようとしなかった。分析すれば、答えが出る。答えが出れば、向き合わなければならない。


 だから、考えないようにしていた。


 名前も聞かなかった。聞けばもっと、意識してしまう気がして。


 彼も聞いてこなかった。

 それが、少しだけ――寂しかった。


――


 二年生になって、クラス替えがあった。


 四月の最初のホームルームで、先生が一年間の成績優秀者を発表した。名前が読み上げられるたびに、クラスに拍手が起きる。


 私の名前も、呼ばれた。


 でもその時、私の耳に飛び込んできたのは、別の名前だった。


 高宮アキ。


 その名前が読まれた瞬間、私の胸の中で何かがひっかかった。


 高宮アキ。

 高宮、アキ。


 ……あの人だ。


 図書室で隣に座っていた、名前を知らなかった人。二年間、ずっと名前を知らないままだと思っていた人の名前を、こんな形で知ることになるとは思っていなかった。


 私は自分の胸に手を当てた。


 鼓動が、少しだけ速かった。


 ――これが、始まりだったのだと思う。


◇   ◇   ◇


 昼休みのチャイムが鳴った時、私はすでに2年A組の廊下に立っていた。


 教室の中を、入り口から確認する。


 高宮くんはいた。自分の席で、弁当を開きながら――


 隣に、花柳さんが座っていた。


 あの子のことは知っている。クラスの誰もが知っている。白銀の髪と、人を引き込む笑顔。花柳みふる。高宮くんと同じクラスの、いわゆる「派手な子」。


 二人は、何かノートを広げながら話していた。


 高宮くんが、何かを書いている。

 花柳さんが、それを覗き込んで笑っている。


 私は、その光景を三秒見ていた。


 胸の中で、小さな何かが音を立てた。


 ――でも。


 私はずっと、やると決めたことはやってきた。


 扉を開いた。


◇ 高宮アキ視点 ◇


「アキくん」


 その声が耳に届いた瞬間、俺の背筋が伸びた。


 振り返ると――島崎まひるが、教室の入り口に立っていた。


 クラスの空気が、ざわりと動く。2年B組の氷の女王が、なぜここに。その無言の疑問が、教室中に広がるのが分かった。


 まひるはそれを気にする様子もなく、まっすぐに俺を見ていた。


「……少し、話せる?」


 俺は一瞬、言葉を失った。


 隣では、みふるがシャープペンシルを持ったまま動きを止めている。


「あ、ええと……」


「それと」


 まひるは少しだけ視線をずらして、みふるを見た。


「……こんにちは。初めまして」


 その声は穏やかだったが、どこか温度が低かった。


 みふるは一秒固まってから、いつもの笑顔を浮かべた。


「あはは、初めまして! 花柳みふるです。アキくんとは――」


「友達、ですよね」


 まひるは先に言った。


 みふるの笑顔が、わずかに止まる。


「……まあ、そうだけど?」


「私は高宮くんの彼女です」


 まひるは、そう言った。


 教室の温度が、一度下がった気がした。


「交際関係というのは」とまひるは続けた。「相手の時間と優先順位に一定の影響を持ちます。もちろん友人関係を否定するつもりはありませんが、昼食の時間は本来、パートナーと共有されることが多い時間帯で――」


「ちょ、ちょっと待って」


 みふるが、困惑した顔で俺を見た。


「アキくん、今この人なんて言った?」


「……俺にも若干よく分からなかった」


「彼女が昼ごはんを一緒に食べたいと言っています」


 まひるが、端的にまとめた。


 俺は立ち上がった。このままでは収拾がつかない。


「みふる、問題の続きは放課後に」


「え、ちょっと待ってよまだ――」


「行くぞ」


 俺はまひるの隣に並んで、教室を出た。


 廊下に出る直前、みふるの声が背中に届いた。


「……まだ終わってないんですけど!」


 俺は振り返らずに言った。


「放課後な」


 少しの間があって。


 みふるは小さな声で、誰に言うでもなく呟いた。


「……もうとっくに、分かってたんだけどな」


 その声は、廊下には届かなかった。


◇   ◇   ◇


 校舎の裏手に、小さな中庭がある。


 授業中は人が来ない。昼休みも、食堂や屋上に人が流れるせいで、ここはいつも空いている。まひるが迷わずこの場所に向かったのは、彼女がすでに知っていたからだろう。


 ベンチに並んで座ると、まひるは弁当箱を膝の上に置いて、少しだけ俯いた。


「……怒ってる?」


 俺が聞くと、まひるは首を横に振った。


「怒ってない。ただ」


 彼女は顔を上げて、俺を見た。


「……一緒に食べたかった」


 その言葉は、驚くほど真っ直ぐだった。


 言い訳も、遠回しもない。ただ、そう思っていたから、そう言った。それだけの言葉。


 俺は何も言えなくて、視線を弁当箱に落とした。


「花柳さんとは、仲いいの」


「……友達だよ。勉強を教えてる」


「そう」


 まひるは少し考えてから、言った。


「彼女、代数が苦手なの?」


「なんで知ってるんだ」


「さっきノートが見えた」


 俺は苦笑した。


「……よく見てるな」


「見てしまった、の間違い」


 まひるはそう言って、弁当箱を開けた。中身は丁寧に詰められていた。手作りだと、一目で分かる。


 しばらく、二人で黙って食べた。


 沈黙が、不思議と苦じゃなかった。


「ねえ、高宮くん」


「なに」


「……私と付き合い始めてから、何か変わった?」


 俺は箸を止めた。


 変わった、かどうか。


 正直に言えば、変わった。登校の時に視線を感じる。クラスの空気が変わった。みふるに余計なことを言いかけた。罪悪感が、ずっと胸の中にある。


 でも、それをそのまま言える状況じゃない。


「……まあ、少し」


「どんな風に」


「人に見られるようになった」


 まひるは少し考えてから、静かに笑った。


「それは私のせいだね」


「悪い意味じゃない」


「分かってる」


 彼女はそう言って、空を見上げた。


 横顔に、柔らかい光が当たっている。


「私はね」とまひるは言った。「高宮くんと付き合い始めてから、毎朝少しだけ、早く目が覚めるようになった」


「……それは」


「嬉しいから、だと思う」


 まひるは、そう言いながら少しだけ頬を染めた。


 俺は、その横顔から目が離せなかった。


 ――何だ、これ。


 胸の中で、何かが揺れている。これは罪悪感じゃない。もっと別の、うまく名前のつけられない何かだ。


 (……俺は、みふるが好きだ)


 そう自分に言い聞かせる。


 (それは変わらない)


 変わらない、はずだ。


「ねえ」


 まひるが、また口を開いた。


「高校に入って最初の頃、図書室よく行ってた?」


 俺は、動きを止めた。


「……なんで」


「ちょっと気になっただけ」


 まひるは、俺の顔を見ずに言った。でも、その口元には何かをこらえるような、小さな笑みが浮かんでいた。


「私ね、一年生の時に図書室でよく会ってた人がいて」


「……へえ」


「名前を聞けなかったんだけど」


 まひるは弁当箱の蓋を閉めて、こちらを向いた。


 赤い瞳が、まひるの赤い瞳が、まっすぐに俺を見る。

 両手で頬を支えながら、彼女は静かに言った。

「……誰だったんだろうね」

 その声は、問いかけというより、答えを知っている人間の声だった。

 俺の心臓が、一拍だけ、大きく鳴った。


 図書室。


 一年生の頃。

 記憶の奥に、ぼんやりとした輪郭が浮かんだ。放課後の静かな空間。参考書の匂い。窓から差し込む夕方の光。そして――隣に座っていた誰か。

 顔が、思い出せない。でも確かに、いた。

 一緒に問題を解いて、時々言い合いみたいになって、それでも不思議と居心地がよかった。あの時間だけは、みふるのことも、自分の感情のぐちゃぐちゃも、全部どこかに置いてこられた気がしていた。

 その人の顔を、なぜか正面から見た記憶がない。

 いや――

 俺はまひるを見た。

 黒髪。赤い瞳。静かな横顔。

(……まさか)

「島崎さん」

「なに?」

「図書室の、奥から二番目の席」

 まひるの口元が、わずかに動いた。

「窓際から数えて、棚の影になってるところ」

「……よく覚えてるね」

「覚えてる、というか」

 俺は額に手を当てた。

「……今、思い出した」

 沈黙。

 それからまひるは、こらえきれなくなったように、小さく笑った。声に出さない、静かな笑い方だった。

「もう」

「ごめん」

「二年間だよ?」

「ごめんなさい」

「どうしたら忘れられるの」

「本当にごめん、俺が大馬鹿だった」

 まひるは笑いながら、少しだけ目を細めた。

「……謝らなくていいよ」

 その声は、責めていなかった。

「私が覚えてれば、それでいい。高宮くんの記憶の中になくても、私の心の中にはちゃんとあるから」

 俺は言葉を失った。

 こんな言い方ができる人間が、この世にいるのか。

「でも」とまひるは続けた。「もし改めて自己紹介するなら、してほしいかも」

「……島崎まひるです、じゃ足りないか」

「名乗るのはそっちでしょ」

「高宮アキです。一年生の時に図書室で隣に座ってた大馬鹿者です」

 まひるはもう一度、今度は少しだけ声に出して笑った。

 俺は、その笑顔を初めて見た気がした。

 いや――見ていたのかもしれない。ただ、ちゃんと見ていなかっただけで。

「あのさ」と俺は言った。「俺が図書室に来てたの、なんか理由があって」

「うん」

「色々……頭の中がごちゃごちゃしてた時期で。落ち着ける場所が必要だったんだ」

 まひるは静かに聞いていた。

「だから正直、あそこで過ごした時間は俺にとって大事なものだったと思う。ちゃんと覚えてないのに、そう言うのはずるいかもしれないけど」

「ずるくない」

 まひるは即座に言った。

「私にとっても、あの時間は逃げ場だったから。おあいこだよ」

 俺は思わず聞いた。

「島崎さんが、逃げ場?」

「意外?」

「……少し」

 まひるは弁当箱の蓋を閉めながら、遠くを見るような目をした。

「あの頃、勉強も部活も全部うまくいってた。でも、それだけだった。誰かと話すとか、一緒に笑うとか、そういうことが全然なくて」

 少しの間があった。

「高宮くんと話してる時だけ、なんか普通の人間みたいな気がしてた」

 俺は何も言えなかった。

「だからね」とまひるは続けた。「二年生になって、あなたの名前を知った時、すごく嬉しかった。それと同時に、ちゃんと話しかけようって決めてた」

「……それが」

「告白、のつもりだった」

 俺は固まった。

「島崎さんも、告白しようとしてたのか」

「うん」

「俺と同じタイミングで」

「みたいだね」

 まひるは少しだけ、悪戯っぽく笑った。

「高宮くんが先だったけど」

 俺は天を仰いだ。

 何なんだこの状況は。俺がみふるへの気持ちを整理するために逃げ込んだ図書室で、気づかないうちに誰かの大切な時間になっていた。俺にとっての「感情の避難場所」が、別の誰かにとっての「人生で初めて心が動いた場所」だったなんて。

(……俺は本当に、どれだけ鈍いんだ)

「ちなみに」

 まひるが、少し首を傾けながら聞いた。

「あの頃、何がそんなにごちゃごちゃしてたの?」

 俺は一瞬、止まった。

 答えは決まっている。みふるのことだ。あの頃からずっと、花柳みふるという存在が俺の中で処理しきれなかった。

 でも、それをまひるに言える状況じゃない。

「……学校のこと、色々」

 俺は曖昧に笑った。

「勉強とか、クラスのこととか」

 まひるは俺の顔を一秒見てから、それ以上追わなかった。

「そっか」

 それだけ言って、立ち上がった。

「そろそろ戻ろうか。午後の授業、始まる」

 俺も立ち上がって、弁当箱を鞄に入れた。

 中庭を出て、廊下に向かって並んで歩く。しばらくは無言だったが、不思議と空白じゃなかった。

 角を曲がったところで――

「あの」

 声がした。

 俺とまひるは同時に足を止めた。

 廊下の壁際に、一人の女子生徒が立っていた。

 2年B組の制服。整った顔立ち。でも、その目は俺たちを値踏みするように細められていた。

 まひるが、静かに口を開いた。

「……朝凪さん」

「島崎さん」

 朝凪いろは。

 まひると同じクラスだと、後で知った。今この瞬間は、ただ「知らない女子生徒」だった。

「もうすぐチャイムだよ。こんな所にいたら遅刻する」

 いろはの声は穏やかだったが、どこか事務的だった。

「分かってる」とまひるは言った。「先に戻ってて」

「……そう」

 いろははまひるを一秒見てから、俺に視線を移した。何かを判断するような、静かな目だった。

「先戻るね」

 まひるはそう言って、廊下を歩き始めた。その足音が遠ざかっていく。

 俺も続こうとした、その時。

「ちょっといい?」

 いろはの声が、俺を引き止めた。

 俺は振り返った。

「……何?」

「島崎さんのこと」

 いろははまひるが消えた廊下の先を一度見てから、俺に向き直った。

「気をつけた方がいいよ。クラスで言われてるから」

「何が」

「あの子、人の感情で遊ぶって。仲良くなったと思ったら、興味なくなったら終わりにするって。今まで何人かそういう目に遭ってる」

 俺は、いろはの顔を見た。

 表情は真剣だった。嘘をついている顔には見えない。

 でも。

 俺の中で、何かが反応した。

 今日の昼休み、まひると過ごした時間。図書室の話。名前を知った時の話。毎朝少しだけ早く目が覚めると言った、あの声。

 あれが「遊び」に見えるか。

「それ」

 俺は静かに言った。

「誰から聞いた話?」

「クラスで――」

「島崎さんのことを、俺は直接見た。あなたの言う通りの人じゃない」

 いろはの目が、わずかに揺れた。

「あなたがそう見えてるだけかもしれない」

「そうかもしれない。でも」

 俺は一歩、歩き始めながら言った。

「俺の友達でも、俺の隣にいる人でも、ちゃんと見もしないで悪く言う人間の話は聞かない。次からは気をつけてくれ」

 それだけ言って、俺は廊下を歩き始めた。

 背後で、いろはが小さく舌打ちをした気がした。

 角を曲がったところで、まひるが立っていた。

 壁に背を預けて、腕を組んで、俺を待っていた。

「……聞いてたのか」

「全部」

 まひるの表情は読めなかった。

 でも、その赤い瞳が、いつもより少しだけ、揺れていた。

「高宮くん」

「なに」

 まひるは一瞬だけ、視線を落とした。

「……ありがとう」

 その声は、さっきより少しだけ、小さかった。


まひると並んで廊下を歩きながら、俺は隣を見た。

 さっきのいろはとのやり取りが、まだ頭の中で鳴っている。

「……ねえ、まひる」

「なに?」

「これから、大丈夫か?」

 まひるが足を止めた。

「大丈夫って、何が」

「俺と付き合ってるって知れ渡って、色々言われるだろ。さっきみたいなことが、また起きるかもしれない。お前の立場が悪くなるのは」

 言ってから、気づいた。

 俺は今、「まひる」と呼んだ。

 まひるも気づいたらしく、両頬がじわじわと赤くなっていくのが分かった。

「た、高宮くん、今」

「あ」

「今、名前で」

「……悪い、つい」

「つい、で呼ぶの?」

 まひるは顔を手で覆った。その耳まで赤くなっている。

 俺も人のことは言えない。自分の顔が熱いのが分かる。

「わ、悪かった。島崎さん」

「……もういい」

 まひるはそう言って、早足になった。

「もう教室着くから」

「待て、話が終わって――」

「また今度」

 まひるの足が、さらに速くなる。

「心配してくれてありがとう。でも私は大丈夫だから」

 それだけ言って、彼女はB組の教室に消えた。

 俺は廊下に一人残されて、しばらくそこに立っていた。

(……俺が余計なことを言ったせいだ)

 深呼吸を一つして、自分の教室に向かった。

――

 席に座って、鞄を机の横にかけた。

 チャイムまでまだ少しある。俺は窓の外を見ながら、さっきのことを頭の中で整理しようとした。

 朝凪いろは。

 まひると同じクラスで、成績は二番。それ以外は何も知らない。でも、あの目は気になった。真剣に見えて、どこか目的があるような目だった。

(あの噂は、どこから来てるんだ)

 まひるが人の感情で遊ぶ。興味がなくなったら切り捨てる。

 今日一日、まひると過ごして、俺にはそう見えなかった。図書室の話をした時の声も、いろはのことを聞いた後の「ありがとう」も、全部本物に見えた。

 でも俺の目が間違っている可能性は、ゼロじゃない。

(……それより)

 もし俺と付き合っていることで、まひるの立場が悪くなるなら。

 俺のせいで、あいつが傷つくことになるなら。

 その考えが浮かんだ瞬間、胸の奥に鈍い重さが広がった。

(俺は何をしてるんだ。嘘をついてる側の人間が、守ろうとしてどうする)

 それでも。

 守りたいという気持ちは、嘘じゃなかった。

「アキくーん」

 突然、視界が塞がれた。

 両手が、後ろから俺の目を覆っていた。

「っ……!」

 椅子ごと後ろに引っ張られて、俺は背もたれに倒れ込んだ。

 視界が戻ると、みふるが俺の真正面に仁王立ちしていた。頬を膨らませて、腕を組んで、しかし口元はどこか楽しそうだった。

「ねえ、どうだったの」

「……何が」

「とぼけないでよ。まひるちゃんとのデート」

「デートじゃない。昼飯を食べただけだ」

「どこで?」

「中庭」

「二人きりで?」

「……そうだけど」

 みふるは「ふーん」と言いながら、俺の机に腕を乗せて顔を近づけてきた。

「何話してたの」

「別に。色々」

「色々って何」

「普通の話だよ。何でそんなに聞くんだ」

 みふるは一瞬だけ、何か言いかけて止まった。

 それからいつもの笑顔に戻って、「べつにー」と言った。

「アキくんの彼女がどんな子か気になるじゃん。当然でしょ」

「……そうか」

「そうだよ」

 俺はみふるの顔を見た。

 笑っている。いつも通り、屈託なく笑っている。

 なのに。

 なぜ、こいつはこんなに細かいことを聞いてくるんだ。どこで食べたか。二人きりだったか。何を話したか。

 まるで――

(……いや)

 その先の考えに蓋をした。

 俺がそこまで考えるのは、都合が良すぎる。

「みふる」

「なに?」

「お前、俺に説明させようとしてるか?」

「え?」

「まるで俺が、どこに行ったか報告しなきゃいけないみたいな」

 みふるは目を丸くした。

 それから、少しだけ間があって。

「……アキくん、また変なこと言う」

「変じゃない」

「変だよ。私はただ」

 みふるはそこで止まった。

 視線が、一瞬だけ、どこか遠くに流れた。

「……友達として、心配してただけ」

「俺を?」

「あの島崎さん、なんか怖そうじゃん」

 俺は返事ができなかった。

「アキくん」

「なに」

「ちゃんと聞いてる?」

「聞いてる」

「嘘だ、また考え事してた」

 みふるが俺の額を指でつついた。

「もう。まひるちゃんのこと考えてたんでしょ」

「違う」

「じゃあ何考えてたの」

「……お前のことだよ」

 言ってから、後悔した。

 みふるが、ぴたりと動きを止めた。

 一秒。二秒。

 それからみふるは、ぱっと顔を背けて、自分の席に向かって歩き出した。

「……放課後、ちゃんと来てよね」

 声が、いつもより少しだけ低かった。

「約束、忘れないでよ」

「忘れない」

「じゃあよし」

 みふるは自分の席に座って、窓の外を向いた。

 それきり、チャイムが鳴るまで、こちらを見なかった。

 俺は前を向いて、教科書を開いた。

(……やっぱり、俺には分からない)

 花柳みふるという人間が、今何を考えているのか。

 俺のことを友達だと思っているのか。それとも。

 考えるだけ無駄だと、分かっている。

 分かっていても、止められない。

――

◇ 花柳みふる ◇

 窓の外を見ながら、私はこっそり息を吐いた。

 心臓が、まだうるさい。

 別に。べつに、大したことじゃない。アキくんが島崎さんと付き合ってるのは知ってた。昼ごはんを一緒に食べることくらい、当然ある。

 分かってる。全部、分かってる。

 でも。

 あの中庭から出てきた二人を、廊下から少しだけ見てしまった。

 並んで歩いて、島崎さんが顔を赤くして、アキくんが困った顔をしてた。

 いつもの、私との時間とは違う顔だった。

(……べつに)

 私は窓ガラスに映る自分の顔を、ちらりと見た。

 頬が、少し赤い。

 自分でも気づいてなかった。

(べつに、いいじゃん)

 アキくんに彼女ができた。それだけのことだ。私には関係ない。友達だから、心配するのは普通だ。

 普通のことだ。

 なのに。

「お前のことだよ」

 さっきのアキくんの声が、頭の中でリフレインした。

 あの一言だけ、なぜかまだ消えない。

(……消えてよ)

 私は教科書を開いて、ページに視線を落とした。

 文字が、全然頭に入ってこなかった。

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