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俺の告白は、間違った君に届いた

 いつもと変わらない登校のはずだった。

 なのに――なぜか、やけに視線を感じる。

 別に俺はイケメンってわけじゃない。せいぜい「普通よりちょっとマシ」くらいだと思う。

 それなのに注目されている理由は、はっきりしている。

 俺の隣を歩いている彼女――

 島崎まひる。

 2年B組に所属する、いわゆる「高嶺の花」だ。

 整った顔立ちに、長くて艶のある黒髪。そして、どこか人を射抜くような赤い瞳。

 その視線に見つめられれば、思わず一歩引いてしまうほどの威圧感がある。

 ……少なくとも、周りの評価はそんな感じだ。

 でも。

 こうして隣で一緒に歩いていると分かる。

 彼女は、そんな噂とは少し違う。

 むしろ、驚くほど優しくて、繊細で……少しだけ、臆病だ。

 まるで――守ってあげたくなるような女の子。

 けれど。

 この関係は、全部――

 ただの勘違いだ。

 

 俺、高宮アキは。

 今、彼女に対して、とんでもない嘘をついている。

 こんなにも真っ直ぐに俺の腕を取ってくる彼女に対して。

 罪悪感で、胸が痛くなる。

 だけど――

「ごめん、全部勘違いなんだ」

 なんて、簡単に言える状況じゃなかった。

 

 すべての始まりは、二年生になったばかりの頃。

 

 俺は、ようやく決心したんだ。

 同じクラスの女子――花柳ミフルに、自分の気持ちを伝えるって。

 入学した頃から、ずっと気になっていた。

 だから、ちゃんと自分の気持ちと向き合って――

 ラブレターを書いた。

 

 下駄箱に手紙を入れて、

 放課後、人の少ない場所で待ち合わせを指定した。

 野球部が練習しているグラウンドの近く。

 あまり人が来ない、小さな広場。

 

 だけど。

 待っても、待っても――彼女は来なかった。

 

「……やっぱり、来ないか」

--

30分が過ぎた頃、俺は諦めかけていた。

 そもそも、ちゃんと手紙は届いていたのか?

 宛名も書かずに「放課後、いつもの場所で待っています」なんて書いた自分の詰めの甘さを、今さらになって後悔する。

 そんな不安ばかりが、頭の中をぐるぐると巡っていた。

 

 地面に映る自分の影をぼんやりと見つめていた、その時。

 

 もう一つの影が、隣に重なった。

 

 ドクン、と心臓が跳ねる。

 

 顔を上げた先にいたのは――

 

「……え?」

 

 まったく予想していなかった人物。

 

 島崎まひるだった。

 

 どこか落ち着かない様子で、ほんのりと頬を赤らめている。

 あの「氷の女王」と噂される彼女が、今は指先をそわそわと動かしながら、俺の顔をまともに見られずにいた。

 

 そして、意を決したように口を開く。

 

「高宮くん。ちゃんと来たよ……あなたが呼んでくれたから」

 

「……は?」

 

 いや、待て。

 俺、彼女を呼んだ覚えなんて――

 

 思考が追いつかない。

 

 まさか、下駄箱の場所を間違えたのか?

 花柳の隣は……そうだ、島崎の場所だった。

 

 何が起きているのか理解できないまま、

 とりあえず訂正しようと口を開く。

 

「えっと、島崎。その手紙なんだけど、本当は――」

 

 その瞬間。

 

 ぎゅっ、と。

 

 熱を帯びた小さな手が、俺の右手を包み込んだ。

 

「っ……!」

 

 驚いて顔を上げると、

 彼女の瞳は潤んでいて――それでいて、まっすぐな熱を宿していた。

 

 距離が近い。

 甘い香りと、かすかに震える息遣いが伝わってくる。

 

「手紙、読んだよ……。すごく勇気がいったよね。こんな私を誘うなんて」

 

 震える声。

 だけど、その中に確かな想いが込められている。

 

 その瞳を見た瞬間、言葉が喉に張り付いた。

 

 ――違う、なんて言えない。

 

 今ここで否定すれば、

 彼女の心は、きっと簡単に壊れてしまう。

 

「すごく……まっすぐで、綺麗な気持ちだった」

 

 それは――

 本来、花柳に向けた言葉だったはずなのに。

 

「正直、びっくりした。でも……読んだあと、ずっと鼓動が止まらなくて」

 

 彼女は、さらに俺の手を強く握る。

 

「だから――」

 

 一瞬の沈黙。

 

 そして。

 

 覚悟を決めたように、彼女は言った。

 

「私を……あなたの彼女にして」

 

「……え?」

 

 沈黙が、永遠みたいに続いた。

俺が何も言えないでいると、島崎は一度だけ、ぎゅっと目を閉じた。

まるで、自分に言い聞かせるように。

拒絶される覚悟を、今この瞬間に固めているみたいに。

その横顔が、あまりにも――

 

「……好き。大好きだよ、高宮アキ」

 

 耳元で囁かれたその声は、

 泣きそうなくらい、優しかった。

 

 ――その一言で。

 

 俺はようやく理解した。

 

 これは、ただの勘違いなんかじゃない。

 

 運命が仕組んだ、最悪で――最高の間違いだった。



翌朝、俺は靴箱の前で一瞬だけ足を止めた。

昨日と同じ場所なのに、もう二度と同じ場所には戻れない気がして。

――深呼吸を一つして、教室へ向かった。



島崎が廊下の向こうへ消えていくのを見届けた後、俺は鉛のように重い足取りで教室へと向かった。

 脳内では『君を選んであげる』という彼女の言葉が、狂った鐘の音のようにリフレインしている。

 だが、2年A組の教室に一歩足を踏み入れた瞬間、空気が一変した。

 消毒液と閉塞感に満ちたはずの教室が、甘いベリーと、ある種の華やかな香料の香りに塗り替えられる。この香りを纏えるのは、学園内でただ一人だ。

「ア・キ・くん! おっはよー!」

 俺の足が教室の床を捉える前に、目の前に白銀の旋風が舞い降りた。

 花柳みふる。

 クラスの『雪解けの嵐』とも称される少女が、そこにはいた。

 雲一つない青空よりも純粋な白銀の髪が、ポニーテールの中で躍動し、光を反射してキラキラと輝いている。そして、その瞳。スターダスト・ブルーとでも言うべき星屑を散りばめたような青い瞳が、至近距離から俺を射抜く。

 校則ギリギリ――いや、アウト気味に短くされたスカートに、着崩したパーカー。首元には黒いチョーカーが揺れている。

(ああ、クソ……! 今日も今日とて眩しすぎるだろ! なんだその殺傷能力抜群の笑顔は。アイドルが教室に降臨したのか? 不純と純真が奇跡的なバランスで同居してやがる……!)

 内心の絶叫は止まらない。俺のオタク的な崇拝心とパニックが混ざり合い、思考回路はショート寸前だ。

「ねえねえ、なんかヤバい噂聞いたんだけど!」

 みふるはぐいっと顔を近づけてくる。パーソナルスペースなんて言葉、彼女の辞書には存在しないらしい。瞼に乗せられた微かなラメと、潤んだ唇の質感が嫌でも視界に入る。

「アキくんがあの『氷の女王』――島崎さんと付き合ってるってマジ!? ねえ、悪い冗談だって言ってよー!」


そう言いながらも、みふるの指先がパーカーの袖をほんの少しだけ、引っ張っていた。

笑っているのに、その手だけが笑っていない。

……俺は、その仕草を知っている。緊張している時の、彼女の癖だ。


 俺は唾を飲み込み、背中に冷や汗が流れるのを感じた。

「あー……うん。まあ、俺も付き合ってることには驚いてるっていうか……正直、実感がなくて」

 みふるは動きを止めた。小首を傾げるその仕草は、心臓に悪いほど愛らしい。

「へー……『俺も』、ねぇ?」

 彼女の声が少しだけ低くなる。星屑の瞳が細められ、俺の顔の微かな動きを探るように見つめてきた。

「変なこと言うね、アキくん。自分から告白したんなら、オッケーもらって一番喜んでるはずでしょ?」

 その瞬間。俺の脳裏に、去年の冬の記憶が鮮明に蘇った。

 あれは十一月の放課後。忘れ物を取りに教室へ戻った時のことだ。

 夕焼けが教室を血のようなオレンジ色に染めていた。誰もいないと思っていたそこには、彼女がいた。

 いつもの『派手なギャル』の仮面を脱ぎ捨て、乱れた髪も気にせず、必死に机に向かうみふる。

 彼女は物理の参考書を睨みつけ、解答欄が破れそうなほど強く消しゴムを動かしていた。その唇は悔しさに震え、頬にはたった一筋、拭いきれなかった涙の跡が光っていた。

『……そこは力の方程式を立てるんだよ』

 俺が声をかけると、彼女は飛び上がるほど驚いてノートを隠した。けれど、相手が俺だと分かると、今まで誰にも見せたことのないような、脆くて、儚い表情を浮かべたんだ。

 

 周りからは「適当に生きてる」と思われている彼女が、裏では誰よりもボロボロになりながら努力している。そのギャップを知った時、俺の心は一瞬で持っていかれた。

「……アキくん? おーい、地球に帰ってこーい!」

 みふるが目の前で手を振り、俺を現実に引き戻す。

(不公平だろ……。こっちはお前のその『努力』を知ってるから、こんなに狂わされてるってのに……!)

 俺は必死に『ただのクラスメイト』の仮面を被り直し、曖昧な笑みを浮かべた。

「ごめん、ちょっとぼーっとしてた。……色々と、展開が早すぎてさ」

 みふるは視線を外さない。その青い瞳の奥で、彼女は何を考えているのか。俺の「驚き」の裏側に隠された、ドロドロとした違和感を嗅ぎ取ろうとしているようだった。


数日前の出来事を思い返してみる。

 間違いなく、俺は彼女――花柳みふるの靴箱に、魂を込めたラブレターを入れたはずだ。それなのに、どうして結果が島崎まひるとの交際(仮)にすり替わっているのか。

 教室を見渡せば、クラスメイトたちの視線と耳障りな囁きが俺に突き刺さる。『あの地味な高宮が、氷の女王と?』。そんな無言の圧力が痛い。

(……やめてくれ。俺だって、こんなはずじゃなかったんだ。一番驚いているのは、世界で俺一人なんだよ!)

 内心でそう叫んでいると、再びみふるが俺のパーソナルスペースを強襲してきた。

「ねえ、アキくん……」

 その声、そしてその表情。やめてくれ。そんな捨てられた子犬のような、誰かの助けを待つ小動物みたいな顔で俺を見ないでくれ! 俺の理性が、音を立てて崩壊しそうになる。

「……何かな、みふる」

「あのアキくんに彼女ができちゃったなら……もう、放課後に勉強教えてもらうの、無理だよね? だからさ、もしよかったら、アキくんのノート貸してくれないかな……?」


声のトーンは、いつものみふるだった。

でも、目が――ほんの一瞬だけ、俺の顔を探るように動いた。

まるで、俺の答えによって何かを決めようとしているかのように。

(……お前、本当に「ノート」が欲しいだけなのか?)

俺には分からない。分からないまま、答えを出すしかなかった。


 冗談じゃない! 断固として拒否だ!

 俺にとって、放課後の勉強会は単なる学習の時間じゃない。一日の終わりに『みふる成分』を摂取するための、欠かすことのできない神聖な儀式なんだ。彼女の隣で、そのシャンプーの香りを嗅ぎ、一生懸命にペンを動かす横顔を見る。その供給が途絶えたら、俺の心臓は明日を待たずに停止してしまうだろう。

「……いいや、みふる。島崎さんのことは気にする必要はないよ。俺がちゃんと調整するから。今まで通り、俺が君に教える」

 口から出た言葉は力強いものだったが、同時に胸の奥で鋭い痛みが走った。

 島崎まひる。俺に腕を絡め、あんなにも真っ直ぐな瞳で『大好き』と囁いてくれた彼女。その純粋さを裏切っているような罪悪感が、じわじわと俺を蝕んでいく。

「えっ、本当!? アキくん、マジで!? やったぁ!」

 みふるの顔が、パッと花が咲いたように明るくなる。

 ダメだ、やっぱり。この笑顔を守るためなら、俺はどんな泥を被ってもいいとさえ思えてしまう。

 花柳みふるは、一見すれば不真面目なギャルだ。実際、授業中は上の空だし、代数は赤点ギリギリ。けれど、定期試験が近づけば、彼女は人が変わったように机にかじりつく。その努力の跡を、俺だけは知っている。

「いいか、みふる。……島崎さんとのことが、俺たちの『関係』を壊す理由にはしたくないんだ。俺は、今まで通りの距離にいたい」

(……しまっ、た!)

 言い終えた瞬間に、血の気が引いた。今の言い方じゃ、まるで俺たちがただの友人以上の、もっと深い……それこそ不倫や二股でもしているかのようなニュアンスに聞こえてしまう!

「……っ!」

 みふるの表情が凍りついた。驚きと困惑が混ざったような、何とも言えない顔。

 心臓が耳元で鳴っている。早く、早く修正しなきゃ取り返しのつかないことになるぞ、俺!

「あ、いや! 今のは変な意味じゃなくて! つまり、せっかくここまで勉強の習慣がついたんだから、恋人ができたからって放り出すのは無責任だと思ってさ! わ、分かるだろ!?」

 必死の弁明。我ながら情けないほど声が震えている。すると、みふるはフッと表情を緩め、いつもの小悪魔的な笑みを浮かべた。

「あはは! もう、びっくりしたじゃんアキくん。何カッコつけてるの?」

 彼女は俺の肩をポンと叩くと、悪戯っぽく囁いた。

「大丈夫だって。アキくんの親友のこのみふる様が、ずっとそばにいてあげるから。……もし、あの『氷の女王』に捨てられちゃっても、私が慰めてあげるしね!」

(……ああ。もう、このまま世界の終わりまで二人だけで行けたらいいのに!)

「……そうか。それを聞いて安心したよ。じゃあ、いつもの時間に」

「おっけー! 約束だよ、アキくん!」

 みふるは満足そうに、軽やかな足取りで自分の席へと戻っていった。

 俺は大きく息を吐き出し、乱れた鼓動を鎮めるために深く、深く呼吸する。

 大丈夫だ。まだ何も壊れていない。

 ここから先は、もっと平穏に、慎重に立ち回ればいいだけだ。

 ……なんて、心にもないことを自分に言い聞かせる。

(……まだ一時間目すら始まってないのに、この疲労感は何なんだよ。島崎さんの愛が重すぎるのか、それとも俺の煩悩が深すぎるのか……)

 俺の波乱に満ちた二年生生活は、まだ幕を開けたばかりだった。


授業中、先生が黒板に数式を書き連ねている間、俺の思考はまったく別の場所を漂っていた。

 島崎まひる。

 なぜ、彼女は俺のことを好きなんだ。

 考えれば考えるほど、答えが出ない。

 俺たちに、そんなに接点があっただろうか。挨拶程度なら、クラスが違うんだからほとんどない。廊下ですれ違ったことはあるかもしれないが、それだけだ。

 それなのに、あんなにも真っ直ぐな「好き」を向けてくる。

 (……もしかして、ずっと前から俺のことを見ていた?)

 その考えが浮かんだ瞬間、自分でも驚くほど鼓動が跳ねた。

 いや、待て。何を浮かれているんだ俺は。

 問題はそこじゃない。問題は、俺が彼女に嘘をついているという事実だ。

 このまま続けば、必ず傷つける。あの潤んだ瞳を、俺のせいで壊すことになる。

 それだけは――

「高宮」

 低い声が、俺の思考を断ち切った。

 顔を上げると、先生が俺の机の前に仁王立ちしていた。クラス中の視線が一点に集中している。

「……授業中です」

「す、すみません」

 素直に謝って、シャープペンシルを握り直す。

 (……島崎さんのことを考えている場合じゃなかった)

 でも、この罪悪感の重さは、授業が終わっても消えそうになかった。

――

 昼休みのチャイムが鳴った瞬間、クラスに解放感が広がる。

 俺は弁当箱を取り出しながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。

 (……まあ、今日は静かに過ごそう)

 そんな淡い希望は、三秒で砕け散った。

「アキくーん! 一緒に食べよ!」

 白銀の旋風、再来。

 みふるはすでに自分の弁当と、なぜかノートと教科書を両腕に抱えて俺の机に向かってきていた。その笑顔には一切の遠慮がない。

「……なんでノート持ってるんだ」

「えー、だって約束したじゃん。教えてくれるって」

「それは放課後の話じゃなかったか」

「前払い」

 交渉の余地なし。俺は諦めて弁当を開けた。

 みふるは俺の隣の椅子を引き寄せて座ると、ドスン、とノートを机に置いた。開かれたページには、消しゴムのかすと、何度も書き直した痕跡が残っている。

「ねえ、これ見て。もう意味わかんない」

 指差した先の問題を覗き込む。

【問題】

 物体A(質量3kg)が、なめらかな水平面上をある初速度で動いている。摩擦係数0.2の粗い面に入ったとき、物体が止まるまでの距離を求めよ。ただし、重力加速度は9.8m/s²とし、初速度は7m/sとする。

「……みふる、これ物理だ」

「え?」

「代数じゃない。物理」

 みふるはノートとシャープペンシルを交互に見つめ、それから俺を見た。

「……代数と物理って違うの?」

 俺は三秒黙った。

「違う」

「そうなんだ」

 まったく動じない。この人は本当にすごい。

「まあいい、解いてみようか。まず摩擦力を求めるところから――」

「待って待って、摩擦力って何」

「物体が動くのを邪魔する力だよ」

「じゃあ私の人生にもかかってる? 夢に向かうのを邪魔してくるやつ」

「……それは比喩だ」

「アキくん笑ってるじゃん」

「笑ってない」

 俺は口元を引き締めて、式を書き始めた。

 摩擦力=μmg=0.2×3×9.8=5.88N

 運動方程式:ma=-5.88、a=-1.96m/s²

 v²=v₀²+2as → 0=49+2×(-1.96)×s

「ここで止まるまでの距離sを求めると――」

「ちょっと待って、なんでvがゼロになるの」

「止まるから」

「なんで止まるの」

「摩擦があるから」

「摩擦が邪魔するから止まるってこと?」

「そう」

「……なんか切ない」

 俺はペンを持つ手を止めた。

(切ない?)

「どこが」

「だって、一生懸命動いてたのに、邪魔されて止まるんでしょ。なんかかわいそう」

 みふるは頬杖をついて、ノートの数式を眺めながらそう言った。

 冗談のようで、少しだけ本気みたいな声だった。

(……こういうところなんだよな)

 俺は何も言わずに計算の続きを書いた。

 s=49÷3.92≒12.5m

「答えは約12.5メートル」

「へえ……けっこう遠くまで行けるじゃん」

「邪魔されてても、だけどな」

 みふるはその言葉を聞いて、ふっと小さく笑った。

 さっきとは違う、静かな笑い方。

「……アキくん、たまにいいこと言うよね」

「計算の話だ」

「分かってるよ」

 分かってるよ、と言いながら、彼女はもう一度ノートに目を落とした。

 その横顔が、あの十一月の夕焼けに重なる気がして――

 俺は視線を弁当箱に戻した。

(……危ない。本当に危ない)

 それから十分ほど、みふるは真剣にノートと格闘していた。たまに唸って、たまに消しゴムをかけて、たまに「ねえこれ合ってる?」と俺に見せてくる。

 静かで、穏やかな時間だった。

 俺がこの時間をどれだけ大切に思っているか、みふるは知らないだろう。

 知らなくていい、と思っている。

 だから――

「アキくん」

 聞き慣れない声が、教室の入り口から飛んできた。

 静かで、でもよく通る声。

 クラスの数人が、そちらに視線を向ける。

 俺も振り返った。

 そこに立っていたのは――

 島崎まひるだった。

 2年B組の教室は、廊下を挟んだ向かいにある。昼休みにわざわざ別のクラスに来ることは、この学校ではほとんどない。

 それでも彼女はそこにいて、まっすぐに俺を見ていた。

 その赤い瞳が、俺の隣に座るみふるを捉えた瞬間――

 ほんの一瞬だけ。

 何かが、揺れた。

「……少し、話せる?」

 教室が、静まり返った。

 俺の隣で、みふるがシャープペンシルを持つ手を止めた。


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