第三章 名前を残さない別れ
夜明けは、いつも静かに始まる。
空の色がゆっくりと薄まり、町を包んでいた夜の輪郭がほどけていく。行商隊の荷車が動き出す音が、石畳を通して工房まで届いた。
リオは《灰炉の工房》の前に立ち、その様子を見ていた。
炉はすでに落としてある。灰の奥に残る熱だけが、昨夜の作業の名残を伝えていた。
「……早いですね」
声をかけると、ロウィンが振り返った。
「旅は、明るくなる前が一番進みやすい」
彼はそう言って、馬具を確かめるように軽く叩いた。補強した留め具は、余計な音を立てない。
「問題なさそうだ」
「それなら、良かったです」
それ以上、言葉は続かなかった。
別れに多くを語らないのは、旅慣れた者たちの流儀だ。名前を呼び合うこともない。ただ、同じ時間を通り過ぎたという事実だけが残る。
エリナが荷車に帳簿を積み終え、リオに気づいて小さく手を振った。
「ありがとうございました」
「お気をつけて」
それだけで十分だった。
蜥蜴獣人のトゥルクが、最後に一度だけ立ち止まる。
「……直す前に止めた。あれは、いい判断だ」
短い言葉だったが、確かな評価だった。
「ありがとうございます」
トゥルクはそれ以上何も言わず、荷車の後ろへ戻った。
行商隊が町を出ていく。
振り返らない。
名前を呼ばない。
だが、確かに“通った”。
リオはしばらく、その背中を見送っていた。
「……またね、とは言わないんですね」
背後から声がした。
ミーネだった。朝の冷え込みのせいか、外套の襟を少し高くしている。
「言わないよ」
彼女は尻尾をゆらりと揺らしながら言った。
「だって、言うと約束みたいになるでしょ」
「……それは、嫌ですか」
「ううん」
ミーネは首を振る。
「約束が嫌なんじゃなくて、縛るのが嫌。旅人は、行けるところまで行くから」
リオは頷いた。
「それでも、名前は覚えています」
「うん」
ミーネは少しだけ笑った。
「リオは、そういう人だよね」
行商隊の姿が見えなくなったころ、町は完全に朝を迎えていた。新しい音、新しい足音。誰かが入ってきて、誰かが出ていく。
リオは工房へ戻り、作業台を拭いた。
昨夜使った金属片の一部が、端に残っている。補強に使わなかった、わずかに魔力を通しやすい素材だ。
リオはそれを手に取り、しばらく眺めた。
――もし、余裕があったら。
――もし、時間が許せば。
ほんの一瞬、別の選択肢が頭をよぎる。
ただ直すだけでなく、
少しだけ“加える”という選択。
今は、まだしない。
今の自分には、必要ない。
そう判断して、金属片を棚に戻した。
「……いつか、ですね」
誰に向けた言葉でもなく、リオはそう呟いた。
炉の前に立ち、灰の奥に残る熱を確かめる。
今日もまた、誰かが通り過ぎた。
そして、次に来る誰かのために――
この場所は、ここに在り続ける。




