第十九話 名前が歩き始める 第一章 返り道の噂
最初は、ただの噂だった。
「港町に、
滑らない岩場ができたらしい」
「波が高くても、
通れる道だって」
「……名前があるらしいぞ」
誰かが、笑いながら言った。
「返り道、だと」
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王都へ戻る途中、
街道の茶屋で、リオはその話を聞いた。
「……返り道?」
店主が、うなずく。
「ああ。
港の人がそう呼んでる」
「装備でも、
魔法でもない」
「場所なんだと」
リオは、湯気の立つ杯を見つめた。
胸の奥で、
何かが、静かに動いた。
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「……似た話、
聞いたことある」
ミーネが、地図を広げる。
「山越えの木橋」
「砂地の細道」
「湿地の踏み場」
指で、点を打つ。
「どれも、
“急がないと通れる”場所」
ガルムが、眉を上げる。
「……誰が作ってんだ?」
セイルが、首を振る。
「作ってない」
一拍。
「真似されてる」
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次に立ち寄った山里で、
それは確信に変わった。
谷を渡る木橋。
古く、細い。
だが、
足を置く位置だけが、
妙に整っている。
「……これ」
リオは、しゃがみ込む。
木の繊維の向き。
縄の張り。
「……返り道の考え方です」
村人が、誇らしげに言う。
「港町の話を聞いてな」
「急がなければ、
落ちない橋を作った」
「名前も、
同じだ」
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その夜。
囲炉裏を囲みながら、
リオは村人に聞かれた。
「……あんたが、
元かい?」
「いいえ」
リオは、正直に答えた。
「世界が、
先にありました」
村人は、少し考えてから笑った。
「……いい言い方だ」
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旅の途中、
砂地の集落にも立ち寄った。
足を取られる場所。
乾ききった風。
そこにも、
細い、踏み固められた線がある。
「……返り道」
子どもが、そう呼んでいた。
「走ると、
砂が怒るんだ」
その言葉に、
リオは息を呑む。
世界を、
人の言葉で説明している。
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王都に戻る頃には、
噂は、はっきりした形を持っていた。
「返り道」は、
誰の技術でもない。
誰かを縛るものでもない。
覚え方であり、
歩き方だった。
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《灰炉の工房》。
扉の前に、
見慣れない人影があった。
装備は、簡素。
だが、
地図だけは、使い込まれている。
「……リオさん、ですね」
名を呼ばれ、
リオは、少し驚いた。
「はい」
男は、深く頭を下げる。
「依頼ではありません」
一拍。
「相談です」
ミーネが、目を細める。
「……どんな?」
男は、地図を広げた。
王都から、
はるか北。
雪線の向こう。
「ここに、
返り道が、必要なんです」
リオは、地図を見る。
そこは、
まだ名前のない場所だった。
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リオは、
ゆっくり息を吸った。
「……作れますか、
じゃないですね」
男は、うなずく。
「一緒に、
探してほしい」
その言葉に、
胸が、熱くなる。
「……はい」
リオは、頷いた。
「世界が、
もう一歩先へ行くなら」
一拍。
「私も、
そこまで歩きます」
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外では、
夕暮れの風が吹いている。
港の返り道は、
もう見えない。
でも、
確かに続いている。
名前は、
歩き始めると、
止まらない。
そして――
リオの旅は、
次の世界へ
静かに、踏み出していた。




