第三章 急がないための依頼
依頼人は、名を名乗らなかった。
名を出す必要がない仕事だったからだ。
「……戻りたい」
それだけ言って、
男は深く頭を下げた。
年は三十前後。
装備は揃っているが、
どれも“使い込まれすぎて”いる。
「戦闘は、想定していますか」
リオが聞く。
「……避けたい」
即答だった。
「でも、
避けられないかもしれない」
「はい」
それで、十分だった。
⸻
現場は、谷の外縁だった。
灰還の谷ほど不安定ではない。
だが、
逃げ道が限られている。
細い尾根。
片側は断崖。
もう片側は、霧。
「……最悪の撤退地形だな」
ロウエンが、低く言う。
今回は、
ガルムとセイルはいない。
代わりに、
依頼人の仲間が二人。
リオは、
立ち会い役として同行していた。
「装備は、
“助けません”」
出発前、リオは言った。
「判断を、
遅らせるだけです」
依頼人は、頷いた。
⸻
異変は、
思ったより早く来た。
霧の向こうで、
地鳴り。
「……来る」
前衛が、声を低くする。
依頼人の手が、
無意識に前へ出る。
その瞬間――
留め具が、一度だけ鳴った。
カチ、と。
止まらない。
だが、
一瞬だけ、考える時間ができる。
「……退く!」
依頼人が叫ぶ。
早い。
リオは、何も言わなかった。
⸻
撤退は、
混乱する。
前に出るより、
判断が多い。
足場。
間合い。
仲間の位置。
留め具は、
何度も鳴らない。
一度きりだ。
それ以上は、
装備は介入しない。
だから、
判断は戻ってくる。
「……走るな!」
依頼人が叫ぶ。
仲間が、
一瞬だけ遅れ――
留め具が、
重くなる。
転ばない。
止まらない。
ただ、
急げない。
「……っ」
だが、その遅れが、
霧の中の影と距離を作った。
⸻
尾根を抜けたとき、
誰も倒れていなかった。
息は荒い。
脚は震えている。
だが――
全員、立っている。
「……戻ったな」
誰かが、呟いた。
依頼人は、
その場に座り込み、
深く息を吐いた。
「……急がなかった」
リオは、
そっと留め具を見る。
割れていない。
だが、
わずかに歪んでいる。
「……これで、
いいです」
依頼人は、
顔を上げずに言った。
「……助けられましたか」
リオは、少し考えてから答えた。
「判断を、
返しました」
⸻
工房に戻る。
夜は、もう深い。
若い鍛冶屋が、
留め具を見る。
「……壊れてない」
「はい」
リオは、静かに言う。
「でも、
使い切られました」
ミーネが、頷く。
「役目、果たしたね」
若い鍛冶屋は、
小さく笑った。
「……これ、
売れませんね」
「はい」
「でも……」
視線を上げる。
「必要な人は、
必ず来ますね」
リオは、炉を見る。
「はい」
火は、弱い。
だが――
急がないための装備は、
確かに、
人を帰した。




