第三章 谷は答えをくれない
谷の入口は、拍子抜けするほど静かだった。
風は弱く、霧も薄い。
視界はある。
だが――距離感だけが、少し狂っている。
「……嫌な静けさだ」
ガルムが低く唸る。
「音が、遅れて来る」
セイルが、足を止めた。
「足音も、反響がずれる」
ロウエンは、地図を見ずに言う。
「ここから先、
戻る判断は早めにな」
「はい」
リオは、短く答えた。
⸻
一歩、谷へ踏み込む。
その瞬間、
誰もが“違い”を感じた。
力が、前に行かない。
身体を動かしているのに、
感触が、半拍遅れる。
「……強化、入ってねぇ」
ガルムが、手袋を外して舌打ちする。
「入れてないのに、
入ってた感じが抜けた」
セイルは、眉を寄せる。
「魔力が、留まらない」
「流れてる?」
「違う」
セイルは、首を振った。
「消えてる」
ロウエンが、低く言う。
「……だから、
“溜める装備”が事故る」
誰も否定しなかった。
⸻
谷の中腹で、
岩肌が露出している場所に出る。
そこにあったのは、
鈍い灰色の鉱脈。
光らない。
主張しない。
だが、
崩れそうで、崩れない。
「……灰流鉄」
リオが、そっと触れる。
冷たくない。
温度が、分からない。
叩けば取れる。
だが、
叩きすぎると、
自分の手に返ってくる。
「……面倒な素材だな」
ガルムが、距離を取る。
「力任せが、通らねぇ」
「通らせない素材です」
リオは、短く言った。
⸻
そのときだった。
セイルが、片手を上げる。
「……止まれ」
全員が、即座に止まる。
霧の奥で、
何かが“ずれた”。
音ではない。
影でもない。
地形が、わずかに動いた。
「……崩落?」
ロウエンが、即座に判断する。
「いや……」
セイルが、目を細める。
「歩幅が、変わった」
リオは、地面を見る。
石の並びが、
ほんの少しだけ、
“進みにくい”方向へずれている。
「……答えない、ですね」
「何だ?」
ガルムが、苛立ちを滲ませる。
「この谷は、
“ここまで”とか
“危険だ”って言わねぇのか」
リオは、首を振った。
「言いません」
しゃがみ込み、
地面に指を当てる。
「選ばせるだけです」
⸻
進めば、取れる。
戻れば、何も得られない。
だが、
どこまで進めば“取りすぎ”かは、
誰にも分からない。
「……採集は、ここまでにします」
リオが、静かに言った。
ガルムが、目を見開く。
「は?
まだ浅ぇぞ!」
「はい」
「奥に、
もっといい鉱脈が――」
「あるでしょう」
リオは、遮らずに言う。
「でも」
一拍。
「戻るときに、
同じ道がある保証がありません」
沈黙。
セイルが、ふっと息を吐く。
「……賢い」
ロウエンは、即座に頷いた。
「ここで引くなら、
全員、歩いて戻れる」
ガルムは、歯を食いしばる。
「……チッ」
だが、
背を向ける。
「……分かった。
戻る」
⸻
撤退は、
戦闘より疲れる。
一歩ずつ、
確認しながら進む。
リオの靴は、
走ろうとすると重くなる。
それが、
今はありがたかった。
「……なぁ」
ガルムが、ぽつりと言う。
「この装備」
「はい」
「前に出る気、
削がれるな」
「はい」
「……嫌いじゃねぇ」
その言葉に、
誰も笑わなかった。
谷を抜けると、
霧が少しだけ薄くなる。
空気が、戻る。
「……生きて戻ったな」
ロウエンが、静かに言う。
「はい」
リオは、灰流鉄の欠片を見つめる。
量は、少ない。
だが――
十分だった。
谷は、何も教えてくれなかった。
けれど、
“いつ引くか”だけは、
確かに試してきた。
リオは、静かに呟く。
「……この素材は」
灰流鉄を、布に包む。
「前に出ないために、
必要な重さです」
誰も、否定しなかった。
谷は、答えない。
だが――
生きて戻った者だけが、
正解を持ち帰る。




