第3章:依頼の持ち込み
《灰炉の工房》の前に立つその背中は、町の喧騒から少しだけ切り離されて見えた。
灰色の外套に覆われた体躯は大きく、肩幅が広い。風に揺れる毛並みは手入れが行き届いていて、濡れた空気の中でも艶を失っていなかった。狼獣人――それだけで、戦場を知っていることが分かる。
「――お待たせしました」
リオの声に、影がゆっくりと振り返った。
金色の目が、まっすぐこちらを見据える。鋭いが、威圧するための視線ではない。相手を測るための、静かな眼差しだった。
「いや」
短く、それだけ言った。
声は低く、落ち着いている。感情を削ぎ落としたような口調だが、冷たいわけではない。
「俺のほうが早く着いただけだ」
狼獣人は一歩下がり、工房の扉を見上げた。
「……ここが、《灰炉》か」
「はい。修理と調整が専門です」
リオがそう答えると、彼は一瞬だけ目を細めた。
「新品は作らない?」
「作りません。直せるものを直します」
その言葉を聞いて、狼獣人は小さく息を吐いた。
「それでいい」
彼は外套を開き、腰に吊った剣を外した。
金属が擦れる音が、静かな朝の工房前に響く。剣は長年使われてきたものらしく、鞘には細かな傷が無数に刻まれていた。だが、雑に扱われてきた様子はない。必要な手入れは、きちんとされている。
剣を受け取った瞬間、リオは違和感を覚えた。
重い。
重さそのものではない。重心の位置が、微妙にずれている。刃先に視線を走らせると、欠けは小さい。見た目だけなら、まだ使える。
――でも。
「中、見てもいいですか」
「ああ」
狼獣人は迷いなく頷いた。
工房の中に入ると、オルドがすでに作業台の前に立っていた。二人のやり取りを聞いていたのか、聞いていなかったのか分からない顔で、ただ視線だけを向けてくる。
リオは剣を作業台に置き、布を敷いた。光の角度を変えながら、刃の反り、柄との接合部、鍔の裏を確認する。
「……使い続けましたね」
「仕事だからな」
狼獣人は簡潔に答えた。
「次の依頼も、間がない」
「いつ出発ですか」
「明日の朝」
リオの指が、一瞬だけ止まった。
明日。
時間がない。完全な修復は難しい。だが、何もしないわけにもいかない。
リオは柄を外し、内部を覗いた。金属疲労の痕跡が、はっきりと見える。刃の芯が、限界に近い。
――これを“直した”と言ってしまえば、嘘になる。
「正直に言います」
リオは顔を上げた。
「この剣、元の形では直せません」
狼獣人は、表情を変えなかった。
「そうか」
それだけだった。
驚きも、怒りもない。覚悟していた反応だ。
「でも」
リオは続けた。
「別の形なら、使えます。剣としてではなく……防具を補強する刃片としてなら」
狼獣人の目が、わずかに細くなる。
「振れなくなるな」
「はい」
「それでも、生き残る確率は上がる」
リオの言葉に、少し間が空いた。
工房の中で、炉の火が静かに鳴っている。オルドは何も言わない。ただ、リオの手元を見ている。
狼獣人は、しばらく黙っていた。
やがて、低く息を吐く。
「……名前を聞いていなかった」
「リオ・フェルディアです」
「ガルム・ヴァイスだ」
彼はそう名乗り、剣に手を置いた。
「俺は前に出る。だが、無茶はしない」
リオは、その言葉を噛みしめるように頷いた。
「やります」
そう言った瞬間、オルドが初めて口を開いた。
「時間は食うぞ」
「承知しています」
「失敗もある」
「それでも、やります」
オルドはそれ以上何も言わず、工具を一つ、作業台の上に置いた。
許可でも命令でもない。
ただ、任せるという合図。
ガルムはそれを見て、ほんの少しだけ口角を上げた。
「頼む」
短い言葉だった。
だが、それは剣を預ける言葉であり、命を預ける言葉でもあった。
リオは剣を手に取り、炉の前へ向かう。
灰炉の火が、ゆっくりと勢いを増していく。
今日もまた、直す一日が始まった。




