第三章 それでも残った依頼
夜明け前の工房は、音が少ない。
鳥の声もまだ遠く、
街が目を覚ます前の時間。
《灰炉の工房》の扉が、控えめに叩かれた。
一度。
間を置いて、もう一度。
強くはない。
急かす気配もない。
リオは、すぐに扉を開けた。
そこに立っていたのは――
小柄な人影だった。
深くフードを被り、
顔はよく見えない。
だが、手に抱えた布包みだけが、
やけに重そうに見える。
「……あの」
かすれた声。
「依頼は、受けていないって……
聞きました」
「はい」
リオは、正直に答えた。
人影は、一瞬だけ俯く。
それから、小さく息を吸った。
「それでも……
ここしか、思いつかなくて」
リオは、少しだけ間を置いた。
「……話だけなら」
そう言って、道を空ける。
工房の中は、まだ冷えている。
炉には火が入っていない。
人影は、作業台の前で立ち止まり、
布包みを、そっと置いた。
ほどくと――
中から現れたのは、
ひどく歪んだ脚当てだった。
金属は割れていない。
だが、関節部が潰れ、
無理に動かせば、確実に壊れる。
「……直りますか」
声が、わずかに震える。
リオは、脚当てを手に取った。
重さを確かめ、
歪みの方向を見る。
――直せる。
技術的には。
だが、それだけではない。
「……使ったのは、誰ですか」
「兄です」
フードの奥で、息を詰める気配。
「帰ってきました。
……片脚を引きずって」
沈黙。
「英雄じゃありません」
その言葉は、
自分に言い聞かせるようだった。
「有名でも、強くもない。
でも……戻ってきた」
リオは、静かに頷いた。
「灰炉式は、
使っていません」
「はい。
使えませんでした」
人影は、顔を上げる。
「だから……
止められなかった」
その言葉は、責めではなかった。
ただの事実だった。
リオは、脚当てを作業台に戻す。
「……これは」
一度、言葉を切る。
「直すだけなら、できます」
人影の肩が、わずかに揺れる。
「でも」
リオは、続けた。
「同じ形に戻せば、
同じ使い方をして、
次は戻れません」
沈黙。
人影は、しばらくして、
小さく言った。
「……それでも」
顔を上げる。
「兄は、
また行こうとしています」
リオの指が、止まった。
「止めたい、ですか」
「……はい」
かすれた声。
「戦えなくしてほしい、
とは言いません」
「……はい」
「でも……
帰れる形に、してほしい」
その言葉は、
王都の依頼より、
英雄の話より――
ずっと重かった。
リオは、深く息を吸う。
そして、ゆっくりと答える。
⸻
「これは、
新しい装備を作る依頼ではありません」
人影は、息を呑む。
「兄の戦い方を、
変える依頼です」
「……できますか」
「できます」
即答だった。
「ただし」
リオは、はっきり言う。
「兄本人が、
ここに来てください」
人影の目が、見開かれる。
「……本人が」
「はい」
「逃げ道を作るには、
逃げたくない理由を
直接、聞く必要があります」
しばらくして、
人影は、深く頭を下げた。
「……連れてきます」
扉を閉める前、
振り返って言う。
「……ありがとうございます」
リオは、首を振った。
「まだ、受けていません」
人影は、少しだけ笑った。
「……それでも」
扉が閉まる。
工房に、静けさが戻る。
ミーネが、奥から出てきた。
「……今の、
伝説級より重くなかった?」
「はい」
リオは、迷わず答えた。
「だから――」
炉の前に立つ。
「これは、作ります」
ミーネが、ゆっくりと頷く。
「理由、聞いていい?」
リオは、静かに言った。
「英雄じゃない人が、
帰る話だからです」
火は、まだ入れない。
だが――
この依頼は、
待たせない。
灰炉の温度が、
静かに上がり始めていた。




