第三章 火を入れなかった理由
夜が、静かに更けていった。
《灰炉の工房》には、火の音がない。
風箱も動かず、金床も冷えたままだ。
それでもリオは、いつもと同じ時間まで工房に残っていた。
作業台の上には、紙束。
金属片の性質を書き留めた記録だ。
魔力を流したときの反応。
流す量を変えたときの違い。
止めたとき、素材がどう戻るか。
――付与は、足すことじゃない。
――通す“道”を作ることだ。
炭筆を置き、リオは目を閉じた。
「……まだ、早い」
声に出して言うと、不思議と迷いが消えた。
そのときだった。
控えめなノック音が、工房に響いた。
こんな時間に来る人はいない。
依頼なら、明日に回される。
「……はい」
扉を開けると、そこに立っていたのは若い冒険者だった。
人族の男性。外套の袖が裂け、肩口の鎧には焦げ跡がある。
「すみません……」
声が震えている。
「町で、修理屋がいると聞いて」
リオは一瞬、炉を見た。
火は入っていない。
「どうしました」
「付与装備を……試して」
男は視線を落とした。
「剣が、壊れました」
工房の中へ通し、剣を預かる。
刃は途中で歪み、芯が焼き切れていた。
魔力を通しすぎた痕跡が、はっきりと残っている。
――典型的な失敗。
「火属性、ですね」
「はい……一振りだけ、強くなればって」
男は拳を握った。
「仲間を、守りたかった」
その言葉に、リオはすぐには返せなかった。
直せない。
この剣は、もう戻らない。
「……これは、直りません」
男の肩が、わずかに落ちた。
「でも」
リオは続けた。
「あなたが生きて戻った理由は、分かります」
男が顔を上げる。
「魔力が暴走する前に、剣が壊れた。
もし、持ちこたえていたら……」
「……俺が?」
「はい」
男は息を呑んだ。
リオは、剣を丁寧に布に包んだ。
「今日は、炉を使いません」
「え……?」
「これ以上、手を加えると、判断を誤ります」
男は困惑したまま、リオを見る。
「でも、何もせずに返すわけじゃありません」
リオは棚から、小さな金属片を取り出した。
――あのとき、使わないと決めた素材。
「これは、持って行ってください」
「……いいんですか?」
「次に何かを選ぶとき、思い出してください」
リオは、真っ直ぐに言った。
「“火を入れない”という選択も、あります」
男は深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
彼が去ったあと、工房は再び静かになった。
オルドが、奥から出てくる。
「直さなかったな」
「はい」
「作らなかった」
「はい」
オルドは少しだけ、口元を緩めた。
「それでいい」
その言葉が、今日は一番重かった。
リオは炉の前に立つ。
石は冷たい。
だが、その奥には――
確かに、熱を入れる準備が整っている。
今日は、火を入れなかった。
だからこそ、
次に火を入れるとき、間違えない。
その確信だけが、胸に残った。




