第三話 炉を使わない日 第一章 何も起こらない朝
その日は、最初から少しだけ違っていた。
工房の扉を開けても、依頼人はいない。
通りを見ても、荷車の影はない。
風の音だけが、石畳をなぞっていく。
リオはしばらく外を眺めてから、扉を閉めた。
「……今日は、来ませんね」
独り言に返事はない。
《灰炉の工房》の中は、いつもより静かだった。
炉は冷えている。
昨日まで確かにあった熱が、今はもう形を持たない。
――こういう日も、ある。
リオは前掛けを掛けなかった。
代わりに、棚の奥に手を伸ばす。
普段は触らない箱。
失敗作、試作品、用途不明の素材。
“直す仕事”では使わなかったものたち。
箱を開けると、金属の匂いが微かに立った。
「……残ってる」
以前、使わなかったあの金属片。
魔力を通しやすいが、不安定。
だから“今は使わない”と判断したもの。
リオはそれを指先で転がした。
重さも、温度も、普通だ。
だが、耳を澄ますと――
どこか落ち着かない。
「炉を使わない日、か」
そう決めていたはずなのに、
心のどこかで、火を欲しがっている。
リオは一度、深く息を吐いた。
「……今日は、観察だけ」
そう言って、金属片を作業台に置く。
叩かない。
削らない。
熱も加えない。
ただ、見る。
光の当たり方を変え、
角度を変え、
触れたときの反応を確かめる。
――直す仕事は、終わった。
――でも、ここから先は。
そこまで考えたところで、
工房の扉がノックされた。
軽い音。
迷いがある。
「……はい」
扉を開けると、そこにいたのはミーネだった。
「おはよ、リオ」
今日は、いつもの元気が少しだけ控えめだった。
「どうしたんですか」
「うーん」
ミーネは顎に指を当てる。
「依頼じゃないんだけどね。
ちょっと、聞いてほしい話があって」
炉の冷えた工房を見回し、ミーネは少し驚いた顔をした。
「珍しい。火、使ってない」
「今日は、使わない日です」
「ふーん」
ミーネは尻尾を一度揺らし、声を落とした。
「最近ね。
“付与装備”の噂、増えてる」
リオの指が、わずかに止まった。
「……付与」
「うん。
火が強くなる剣とか、
衝撃を逃がす鎧とか。
ちゃんとしたやつ」
ミーネは続ける。
「でもね、失敗も多い。
使った瞬間、壊れたって話もある」
リオは作業台の金属片を見た。
「……まだ、早いですね」
「たぶんね」
ミーネはあっさり言った。
「でも、リオなら――って名前、
ちょっとずつ出始めてるよ」
リオは驚いて、ミーネを見た。
「私、は……」
「直す人、でしょ?」
ミーネは笑った。
「でもさ。
直せる人って、
“作れる一歩手前”にいるんだよ」
その言葉が、胸の奥に残った。
ミーネが帰ったあと、
工房は再び静かになる。
リオは金属片を手に取った。
――今は、使わない。
――でも、知っておく必要はある。
そう判断して、
棚の一番手前に置き直す。
「選ばない、という選択も……選択」
そう呟き、リオは炉の前に立った。
火は入れない。
だが、灰の奥に残る温度は、まだある。
それは
“直す”だけの職人から、
“作るかもしれない”職人へ向かう、
小さな境界線だった。




