第一話:灰炉に残る温度 第1章:工房の朝
雨は上がったばかりだった。
石造りの町リュメルは、朝になるといつも少しだけ金属の匂いがする。濡れた街道の上を荷馬車が通り、跳ねた水が壁に当たっては弾ける。その音が消えるころ、屋根の端から落ちる雫の間隔が広がっていく。
《灰炉の工房》の扉を押し開けると、湿気を含んだ冷たい空気が頬に触れた。昨夜の余熱はすでに薄く、炉は暗い。壁際に並ぶ工具は、どれも静かに眠っている。
リオ・フェルディアは、いつものように髪を後ろでまとめ、袖をまくった。革の前掛けを掛けると、身体の中のスイッチが切り替わる。ここでは、彼女の指先が言葉より先に動く。
炉の口に手をかざし、昨夜の灰の温度を確かめる。ほのかに残っている。火を起こせる“残り方”だ。
薪を組み、火種を落とす。息を吹き込み、火が酸素を吸い上げる瞬間の音に耳を澄ませる。ぱち、と小さな弾ける音が連続して、炎が育っていく。
――まだ、やれる。
その言葉を声にしないまま、リオは風箱の取っ手を掴んだ。
工房の奥から足音がした。一定のリズムで、無駄がない。振り向く前から分かる。
オルド・グレインが出てきた。背は高くない。だが、ただ立っているだけで“工房の中心”に見える人だ。年齢は六十を越えているはずなのに、背中はまっすぐで、目だけが静かに鋭い。
オルドは何も言わず、壁の釘に掛かった布を取って作業台を拭いた。雨の日の翌朝は金属が汗をかく。湿気は錆の入口になる。工房の朝は、まずそれを追い払うところから始まる。
リオは風箱を一定の速度で動かしながら、炉の中の火の色を見た。最初は淡い橙。次第に芯が白くなり、熱が集まっていく。炎は嘘をつかない。適当に扱えば機嫌を損ねるし、丁寧に向き合えば応えてくれる。
その炎の前で、リオはいつも少しだけ落ち着く。
オルドが作業台の上に、金槌を二本並べた。重さの違うものを、左右に。次に、鑿、鏨、ヤスリ、油差し。道具たちが整列していく。朝の儀式みたいだ、と初めてここに来た頃は思った。今では、整列の順番を見てオルドの機嫌が分かる。
今日は、早い。
オルドが言った。
「今日は、人が来る」
それだけだった。
リオは風箱の手を止めずに、目だけでオルドを見た。
「……誰ですか」
「言わん」
短い。いつも通りだ。
オルドはそのまま裏の棚へ行き、布で包んだ何かを取り出した。包みを解くと、薄い金属板が二枚。表面に細かな刻みが入っている。刻印用の板だ。魔法具ではない。ただ、職人が“意志”を残すためのもの。
オルドがそれを作業台に置いた。
「今日は、直す日だ」
直す日。
それは《灰炉の工房》にとって、祝福でもあり呪いでもある。
リオは風箱を止め、炉の前にしゃがんだ。火は十分に育っている。熱は、準備ができている。問題は、こちら側――人のほうだ。
リオは立ち上がり、壁の棚から油布を取った。工具の柄を順番に拭いていく。こういう作業は、何度やっても飽きない。手のひらに馴染む木の感触が、今日も確かに自分のものだと教えてくれる。
工房の扉の外では、町が少しずつ目を覚ましていく。遠くで誰かが笑う声。水を汲む桶の音。ギルドの鐘はまだ鳴っていない。
リオはふと、自分の指先を見た。
細い傷がいくつもある。火傷の跡、刃で切った跡、金属片が刺さった跡。最初は痛かった。今は、痛みより先に“学び”が残る。
――失敗した場所だ。
それでも手は、今日も止まっていない。
オルドが、工房の隅の椅子に腰を下ろした。朝の光が窓から差し込み、彼の白い髪を薄く照らす。
「リオ」
呼ばれた。珍しい。名前で呼ばれるのは、だいたい何かが起きる前だ。
リオは顔を上げた。
「今日来るのはな」
オルドは一拍置いて、口の端をほんの少しだけ上げた。
「面倒な奴だ」
それを言ったきり、オルドはそれ以上を語らなかった。
リオは笑いそうになって、笑わなかった。こういう言い方をするとき、オルドはどこか楽しんでいる。
面倒な客。面倒な依頼。
面倒な“直し方”。
リオは炉の火を見た。火は、ただ燃えている。人の事情など知らない顔で。
だからこそ、こちらはきちんと向き合わなければならない。
工房の外で、足音が近づいた。
濡れた石畳を踏む、重い音。靴ではない。爪の音が混じる。人族ではない足取り。
リオは自然に背筋を伸ばした。油布を置き、扉の方を向く。
次に開く扉の向こうから、今日の物語が入ってくる。




