届かない場所
クッキーを焼いてくれるお母さんって、いいですよね。
特別なことをしているわけじゃないのに、
それだけで「帰る場所」がそこにある感じがして。
安心して、少しだけ世界が優しくなる気がします。
リーナは、そんな母親として書いてみました。
それでは本編どうぞ!
エルド村の外れ、深い森の奥。
踏み荒らされた下草が、湿った土に張りついている。
折れた枝が無秩序に転がり、地面には掘り返された跡がいくつも残っていた。
その中を、影が動く。
小柄な体。尖った耳。
ゴブリンたちだ。
数は多い。
足音だけが、ばらばらに重なりながら、同じ方角へと流れていく。
止まる者もいれば、立ち止まらず進む者もいる。
それでも、森の先にある、エルド村を目指していた。
風が、ひとつ抜ける。
それを合図にしたかのように、不穏な影が動き出した。
エルド村 リアムの家
リアムの部屋は静かだった。
窓から差し込む午後の光が、床に淡く伸びている。
使い込まれた机と、きちんと畳まれた寝具。
派手さはないが、不思議と落ち着く空気が漂っていた。
その静けさの中に、甘い匂いが混じる。
焼きたての、ほんのりと温かい香り。
鼻の奥をくすぐるそれに、テオの鼻が小さく動いた。
「……くん」
もう一度、くん、と鳴らす。
無意識に前屈みになり、口元がわずかに緩む。
気づけば、唇の端に小さな唾が滲んでいた。
その時だった。
「できたわよ」
奥の部屋から、柔らかな声がする。
リーナが姿を見せ、両手に皿を抱えて歩いてきた。
皿の上には、こんがりと焼き色のついた
クッキー。
湯気はほとんど消えているが、甘い匂いだけはまだ生きていた。
「わぁ……!」
皿を見た瞬間、エレナとテオの声が重なった。
焼き色のついたクッキーが並んでいるだけなのに、二人の目は一気に輝く。
「いただきます!」
我先にと手を伸ばし、まだ少し温もりの残るクッキーを頬張る。
「……おいしい!」
「ほんとだ! 外サクサクで、中ほろほろ!」
思わず笑みがこぼれ、次の一枚に手が伸びる。
欠片がぽろりと落ちるのも気にせず、夢中だ。
それを見て、リーナは小さく笑った。
「よかった。たくさん焼いたから、いっぱい食べてね」
そう言って、皿を机の上に置く。
甘い匂いだけを残して、リーナは部屋を出ていった。
扉が閉まると、部屋はまた静かになる。
エレナが、クッキーをかじりながらリアムを見る。
「いいなぁ、リアムのお母さん」
「優しいし、美人だし」
テオも大きくうなずく。
「しかも料理うまいとか、反則だろ」
軽い調子の言葉。
冗談みたいで、でも本音が混じっていた。
「……いや」
リアムが、ぽつりと言った。
「怒ると、結構怖いぞ」
エレナとテオが同時に顔を上げる。
「え、そうなの?」
「全然そんな感じしないけど」
半信半疑の視線に、リアムは少しだけ真面目な顔になる。
「本当だって。
もう、背筋がゾッと――」
言い切る前だった。
――ドンッ!
一階の方から、鈍く重い音が響く。
一度ではない。
ドン、ドン、ドンドンドン!
玄関の扉を叩く、乱暴なノック音。
さっきまで部屋を満たしていた甘い匂いが、一瞬で遠のいた気がした。
リアムがドアノブに手をかけ、そっと扉を開ける。
軋む音を殺すように、わずかに隙間を作ると
階下から、声が聞こえてきた。
リーナと、ガイアス。
それに、聞き慣れない村人の、切迫した声。
「……お前ら、ここで待ってろ」
リアムは小声で言い、エレナとテオを部屋に残す。
二人がうなずいたのを確認してから、階段へ向かった。
一段、また一段。
足音を立てないよう、壁に手をつきながら降りる。
声が、はっきりと届く。
「森の方からです……ゴブリンが……」
村人の声は震えていた。
「たまたま森に入ってた奴が、怪我をして逃げ帰ってきまして……向こうで、集まってたって……しかも、追ってきてるみたいで……」
一瞬、間があった。
「……分かった」
低く、落ち着いた声。ガイアスだ。
「自警団に報告する。俺は森に行く。村に来る前に叩く!リーナは、村人と子供たちは避難所へ」
「……ええ、分かったわ」
短いやり取り。
迷いのない判断。
リアムは、階段の途中で立ち止まっていた。
胸の奥が、ざわつく。
理由は分からない。
ただ、さっきまでの優しい匂いが、遠くに感じ、
嫌な予感が、はっきりと形を持って、胸に広がっていく。
リアムは、無意識に拳を握りしめていた。
リアムは階段を引き返し、部屋の扉を閉めた。
「……どうしたの?」
エレナが不安そうに聞く。
テオも、さっきまでの笑顔が消えていた。
リアムは一度息を吸ってから、言う。
「ゴブリンが……ここに向かってるって」
二人の表情が、はっきりと強張った。
「……」
「……」
言葉は出ない。
ただ、恐怖だけが伝わる。
「行こう」
リアムはすぐに続けた。
「避難所に」
エレナとテオは、こくりと頷く。
迷いはなかった。
三人で部屋を出た、その時だった。
廊下の先から、リーナが歩いてくる。
ちょうど、リアムの部屋へ向かうところだった。
視線が合う。
リーナは、リアムの顔を見ただけで察した。
「……聞いたのね」
リアムは、黙って頷く。
「避難所に行くわ」
リーナはきっぱりと言った。
「私はそのあと、村の入口にいて、来たゴブリンを、そこで止めるわ」
「分かった」
リアムは即座に返す。
「じゃあ、僕がエレナとテオを守るよ」
その言葉に、リーナは一瞬だけ目を見開いた。
――強い眼差し。
六歳の子供のものとは、思えなかった。
リーナは何も言わず、リアムを抱きしめた。
ぎゅっと、少し強く。
「……無理だけはしないでね」
耳元で、静かに囁く。
それ以上は、言わなかった。
言えなかった。
いつかリアムが、自分の手の届かない場所へ行ってしまいそうな気配を感じて――
それが、怖かった。
続く
ゴブリンが村に向かってくる、
それだけのことなのに、やっぱり怖いですよね。
戦える大人がいても、
判断が正しくても、
「何も起きない保証」はどこにもない。
そんな空気を、今回は描きました。
次回はいよいよ、
ガイアスとリーナの戦闘シーンになります。
村を守る側の強さと覚悟を、しっかり書くつもりです。
次回もお楽しみに




