負けられない理由
闘技場には、まだ熱が残っていた。
つい先ほどまで行われていた戦い――
レオン・ヴァルディス=アークライトの、あまりに一方的な勝利。
観覧席のざわめきは、完全には収まっていない。
誰もが、あの一瞬を反芻するように、視線を闘技場の中央へと漂わせていた。
「……見えなかったよな?」
「三ヒット……一瞬だった……」
小さな囁きが、波のように広がっていく。
その空気を――
案内人の声が、切り裂いた。
「――続いて」
名簿をめくる、乾いた音。
「リアム・アーデンウッド」
「――対」
「シャルロット・ド・ベルナール」
二つの名前が、闘技場に響く。
一瞬、空気が止まった。
リアムは、はっと顔を上げる。
その視線の先で、シャルロットもまた、静かにこちらを見ていた。
目が合う。
ほんの一瞬。
けれど、どちらも視線を逸らさない。
シャルロットが、ふわりと微笑んだ。
「お互い、頑張りましょうね」
穏やかな声。
貴族らしい、柔らかな言い回し。
リアムは一瞬だけ戸惑い、
それから小さく頷いた。
「う、うん……」
そのままシャルロットは闘技場の舞台へと向かう。
――だが。
数歩進んだところで、足を止める。
くるりと振り返り、
いたずらっぽく目を細めた。
「あっ、そうですの」
その声に、リアムの肩がびくりと跳ねる。
「もし――」
一拍、わざと間を置く。
「もし、わたくしが勝ちましたら」
にこり。
「本格的に、わたくしの伴侶になっていただきますわ」
一瞬、世界が静止した。
「なっ……!?」
リアムが、思わず声を上げる。
顔が、見る見るうちに赤くなる。
「な、なに言って――!」
だが、シャルロットは動じない。
楽しそうに微笑みながら、
ゆっくりと前を向き直る。
「ふふ」
「楽しみですわ」
その一言だけを残し、
何事もなかったかのように、所定の位置へと歩いていった。
――その背中を見送った、直後。
「……リ〜〜ア〜〜ム〜〜?」
背筋が、びくりと跳ねた。
「!?」
リアムは、まるで雷に打たれたように固まり、
ゆっくりと、ぎこちなく振り返る。
そこにいたのは――
エレナだった。
にこり、ともしていない。
笑顔でもない。
その全身から、
ゆらりと、赤い炎のオーラが立ち上っている。
理解するより早く、
エレナが一歩、前に出た。
「ぜっっったい!」
声が、闘技場に響く。
「勝ってよね!」
さらに一歩。
「何があっても!」
「どんな手を使ってでも!!」
その視線は、完全に逃げ場を塞いでいた。
リアムは、反射的に背筋を伸ばす。
「は、はい!!」
条件反射だった。
リアムは半ば逃げるように踵を返し――
「……っ」
急ぎ足で、
ほとんど駆けるように闘技場の中央へ向かった。
武器棚の前で、足を止める。
並ぶのは、支給用の木製武器。
剣、槍、短剣。
リアムは、一瞬だけ迷い――
木剣を手に取った。
軽い。
だが、手に馴染む。
少し遅れて、
シャルロットも武器棚へ向かう。
迷いはなかった。
彼女が選んだのも、同じく木製の剣。
二人は、それぞれ所定の位置へと戻る。
距離を取って、向き合う。
足元に、淡い光が広がった。
結界が、静かに展開される。
闘技場のざわめきが、すっと引いた。
審判が、二人を見渡し、声を張る。
「――それでは」
「始め!」
リアムは、即座に構えた。
剣を正面に。
呼吸を整え、重心を落とす。
(……集中しろ)
視線は、ただ一人――
シャルロットに向けられている。
シャルロットは、余裕のある立ち姿のまま、微笑んだ。
「ふふ……」
そして、静かに告げる。
「すぐに、終わらせますわ」
シャルロットが、剣を軽く掲げた。
「――《アクア・エクステンド》」
その声と同時に、
木剣の刃が、じわりと濡れる。
水だ。
表面に膜のようにまとわりついたかと思うと、
次の瞬間、形を失った。
刃の輪郭が崩れ、
液体が、剣先からとろりと溢れ出す。
だが、落ちない。
水は剣に従うように、
細く、鋭く、刃の延長として留まっていた。
「……っ」
リアムの喉が鳴る。
(なに……あれ……)
シャルロットは、にこりと微笑む。
そして――
軽く、剣を振った。
その瞬間。
びゅっ、と音を立てて、
水が伸びた。
直線ではない。
しなるように、鞭のように、
刃先が、リアムの間合いを越えて迫る。
「――っ!!」
反射的に、リアムは身を引いた。
ギリギリ。
頬をかすめて、水の刃が通り過ぎる。
風圧だけが、遅れて叩きつけられた。
(……伸びる!?)
着地と同時に、背中に冷たい汗が流れる。
さっきまでの距離感が、
まったく当てにならない。
シャルロットは、剣を元の位置に戻しながら、楽しそうに言った。
「ふふ……」
「避けられましたのね」
水の刃は、再び剣へと戻り、
何事もなかったかのように静まる。
シャルロットは、もう一度、剣を振った。
先ほどよりも、わずかに速く。
水の刃が、再び伸びる。
リアムは、今度は逃げなかった。
「――っ!」
木剣を構え、正面から受け止める。
ガキン――
……ではなかった。
水の刃は、弾かれない。
剣に絡みつく。
ぬるり、と。
刃を伝い、柄へと流れ落ちるように、
水が、リアムの剣そのものを包み込んだ。
「なっ……!?」
反射的に、振り払う。
だが――
取れない。
水は剣から離れず、
まるで意思を持つかのように、しがみついてくる。
その瞬間。
シャルロットが、微笑んだ。
「捕まえましたわ」
軽やかな声。
次の瞬間、
シャルロットは剣を――上へ、振り上げた。
水が、引く。
剣に絡みついた水が、
一気に力を持ち、引き上げる。
「うわぁぁぁ!!」
リアムの身体が、浮いた。
抵抗する暇もなく、
そのまま、宙へと放り投げられる。
「――っ!」
次の瞬間。
シャルロットは、迷いなく剣を振り下ろした。
水が、叩きつける。
ドンッ!!
鈍い衝撃。
リアムの身体が、地面に叩きつけられる。
「……っ、う……」
息が、詰まる。
一瞬、視界が白く弾けた。
観覧席が、ざわめく。
「……終わったな」
「あの平民」
冷たい声。
「相手が悪すぎるだろ」
「シャルロット様に当たるとか、ついてなさすぎ」
その中で――
「リアム!!」
エレナの声が、はっきりと響いた。
叫び。
だが、闘技場の中央で、
シャルロットはすでに次の一手を見据えていた。
剣先から、水が、静かに滴る。
余裕のある立ち姿。
「……まだ、終わりませんわよ?」
その言葉と同時に、
シャルロットは剣を――振り回した。
円を描くように、
大きく、迷いなく。
水が、渦を巻く。
絡みついた水の刃が、
リアムの剣を中心に、遠心力を生む。
「うわっ……!?」
身体が、引っ張られる。
足が浮き、
次の瞬間、リアムの身体は――回転させられた。
ぐるり。
ぐるり。
視界が、流れる。
「くそ……っ!」
歯を食いしばる。
剣を振り払おうとするが、
水は離れない。
(取れない……!)
シャルロットは、くすりと笑う。
そのまま、さらに剣を振り回す。
「っ……!」
回転が、加速する。
「……なら」
回転の中で、
リアムの目が、鋭くなる。
「――これだ!」
次の瞬間。
リアムは、剣を離した。
水の拘束から、意図的に身を放る。
「なっ……!?」
シャルロットの目が、わずかに見開かれる。
リアムの身体が、
勢いよく弾き飛ばされた。
「自分から飛ばされたぞ!?」
「正気かよ……!」
嘲笑が、広がる。
だが――
宙を舞いながら、
リアムは、深く息を吸った。
(落ち着け……)
「――《ウインド》!」
風が、爆ぜる。
身体の周囲に渦を巻き、
飛ばされた勢いを、削ぎ落とす。
速度が、落ちる。
止まる――
いや。
「……行け!」
風向きを、変える。
リアムの身体は、
落下ではなく――前進した。
一直線に、
シャルロットの元へ。
「!?」
シャルロットが、即座に構え直す。
その瞬間。
リアムは、空中で両手を広げた。
「――《ウインド・ボール》!」
圧縮された風が、
三つ。
弾丸のように、生成される。
「……っ!」
シャルロットが、口元を吊り上げる。
「甘いですわ!」
剣を振る。
一つ目――かわす。
二つ目――流す。
三つ目――弾く。
「この程度で――」
そう言いかけて、
シャルロットの言葉が止まった。
――視界に、リアムがいない。
「……?」
次の瞬間。
背後。
「――ここだ!!」
声。
振り向く暇もない。
ドンッ!!
風が、背中を打ち抜いた。
「っ……!?」
衝撃。
淡い光が走り――
結界のバリアが一つ、砕ける。
シャルロットの身体が、
後方へと吹き飛ばされた。
「――っ!」
着地と同時に、距離が開く。
闘技場が、一瞬、静まり返った。
「……え?」
「今の……」
誰もが、言葉を失う。
リアムは、荒い息を整える。
(……効いた)
初めて。
シャルロットの表情から、
余裕が、ほんのわずかに消えていた。
闘技場の空気が――
確実に、変わった。
その口元が、ゆっくりと吊り上がった。
「……ふふ」
低く、楽しそうな笑み。
「さすがですわ、リアム様」
視線が、真っ直ぐにリアムを捉える。
「正直……」
「ここまでとは、思っていませんでしたの」
シャルロットは、ゆっくりと剣を構え直した。
「ここから本気でいきますわよ」
次の瞬間。
――水が、立ち上がった。
人の形を、真似るように。
輪郭は揺らぎ、表情は曖昧。
完全な人型ではない。
だが、間違いなく“シャルロットに似た何か”。
「……っ!」
リアムが息を呑む。
一体、ではない。
左右に、もう一つ。
水の分身体が、同時に形成された。
《アクア・ドッペル》
二体の分身が、本体と同時に動く。
判断する暇は、ない。
正面から、分身が踏み込む。
刃が、一直線に振り下ろされる。
「――っ!!」
リアムは反射的に横へ跳んだ。
その瞬間、
もう一体が、逆側から斬りかかる。
「くっ……!」
ギリギリでかわす。
だが、足が止まる。
視界の端に――
落ちているものが見えた。
(……剣……!)
さっき手放した、自分の剣。
距離は、数メートル。
(遠い……!)
だが、考えるより先に身体が動く。
「――《ウインド》!」
風が、脚に絡みつく。
踏み込み。
一気に加速。
剣へと向かって、駆け出す。
――だが。
「させませんわ」
余裕のある声。
その言葉と同時に、
リアムの進行方向に、水が盛り上がった。
三体目。
新たな分身体が、形を成す。
「なっ……!?」
水の分身が、剣を振り上げる。
迷いのない斬撃。
「わっ……!」
リアムは、思わず声を上げ、身を捻る。
刃が、頬のすぐ横を掠める。
避けた――
だが、態勢は崩れた。
着地が、乱れる。
背後から、気配。
(――まずい!)
振り返るより早く、
別の分身が、間合いに入っていた。
三方向。
逃げ場は、ほとんどない。
観覧席が、ざわめく。
「分身……?」
「三体……!?」
「初級、だよな……?」
リアムは、歯を食いしばる。
三方向。
水の分身体。
逃げ場は、ない。
そのとき――
「リアムー!!」
エレナの声が、闘技場に響いた。
「負けたら承知しないんだからね!!」
「……っ!?」
条件反射で、肩が跳ねる。
リアムは、ゆっくりと息を吸う。
視線を、分身体へ向ける。
「――《ルクス・ブレイズ》」
掌に、光が灯る。
リアムは、両手を大きく広げた。
掌から、光が溢れる。
一直線の閃光ではない。
面で広がる、熱を帯びた光。
闘技場の空気そのものが、白く染まった。
「……っ!?」
シャルロットが、思わず声を上げる。
咄嗟に、腕で目を庇う。
「ま、眩し……っ!」
視界が、奪われる。
その瞬間――
水の分身体が、光に包まれた。
じゅっ、と音を立てて、
輪郭が崩れる。
形を保てず、
一体、また一体と――溶け落ちていった。
光が、収まる。
リアムは、すでに動いていた。
足元に落ちている剣を掴み取る。
(今だ……!)
「――《ウインド》!」
風が、脚を押す。
一気に、距離を詰める。
視界を塞がれたままのシャルロットへ――
一直線。
「……っ!?」
気配に気づいたときには、遅い。
リアムの剣が、振り抜かれる。
ドンッ!!
風を乗せた一撃が、
シャルロットの防御を叩いた。
淡い光が弾ける。
――バリアが、軋む。
「……っ!」
衝撃に、シャルロットの身体が揺れる。
一歩、後退。
確かな――ダメージ。
闘技場が、静まり返った。
リアムは、息を整えながら、剣を構える。
初めて。
この戦いで初めて――
シャルロットを押した。
続く
今回は模擬戦編、リアムとシャルロットの戦いでした。
二人とも、それぞれの立場と想いを背負った「負けられない戦い」。
勝敗だけでなく、お互いの戦い方
そこに注目してもらえたら嬉しいです。
次回、決着です。




