17
来客棟の一室。
エレオノールが内密に用意したその部屋で、ギョーム・ド・ベルネは優雅に「獲物」の到来を待っていた。
天井の高い応接室には、深い赤の絨毯が敷き詰められ、夕暮れの陽光が窓から差し込み、室内に長い、影のような静寂を落としている。
彼は窓際に立ち、指先でクリスタルグラスをゆっくりと揺らしていた。
深紅の液体が波打つたび、高価なヴィンテージワインの香りが立ちのぼる。
「……くくっ」
喉の奥で、嘲笑が漏れた。
生徒会からの緊急連絡の内容は、すでに腹心を通じて耳に入っている。
長々ともったいぶった敬語を並べてはいたが、要するにそれは、追い詰められた鼠の必死な懇願だ。
“王家始まって以来の才媛”とまで称えられた第一王女、エレオノール。
その彼女が、自ら頭を下げて密会を申し込んできた。
それだけで、この勝負は「チェック」だった。
「どんなものかと思って来てみれば」
肩をすくめ、ワインを一口。
第二王子ジュリアンから「好きにやれ」と言われてこの学園へ乗り込んだが、拍子抜けもいいところだ。
勇ましく、口では小賢しいことを言っていたものの、実際に自分を脅かす策などひとつも持っていない。
所詮は持ち上げられるだけの、本当の社交界を知らぬお飾り王族。
自分のような、知恵者と比べること自体が酷というものだ。
――などとギョームが内心考えていると、扉を叩く音が響いた。
「どうぞ」
扉が静かに開き、エレオノールが姿を現す。
背筋は相変わらず伸びている。だが、あの毅然とした威圧感はどこにもない。
青白い肌、そして目元には隠しようのない疲労の色が浮かんでいた。
「お時間をいただき……ありがとうございます」
彼女は絞り出すような声で、丁寧に一礼する。
ギョームはあえて立ち上がらず、椅子に深く腰を下ろした。
脚を組み、征服者の余裕を持って微笑む。
「いやいや、構いませんとも。こうして直々に“お願い”に来てくださったのですからね」
その口調は穏やかだが、その視線は足元の虫を眺めるように冷淡だった。
「さて。単刀直入に、要件を聞かせていただきましょうか……王女殿下?」
エレオノールは一瞬だけ言葉を探すように視線を彷徨わせ、やがて、深く頭を下げた。
「……どうか、お慈悲をいただけないでしょうか」
「慈悲、ですか」
ギョームはグラスを置き、指を組んで身を乗り出す。
「それで、なんの件でしょう? いやはや、察しが悪いもので申し訳ない」
ギョームはわざとらしく目を細めた。
「わたくしの……生徒会のメンバーが、先日のお茶会で行ったとされる行為についてです……どうか、学園への正式報告を取り下げていただきたく存じます」
「ああ! あの件ですか!」
屈辱を煽るように笑みを浮かべる。
「まさか、模範たるべき生徒会の方々が、あのような卑劣な振る舞いをされるとは。学園の品位に関わる問題だ……正直、私も心を痛めておりますよ」
そして、白々しいため息をひとつ。
「ですが、そこまで困り果てておられるのなら――わたくしも鬼ではありません。ひとつだけ“助言”を差し上げましょう」
「助言、ですか……?」
「ええ。第二王子――ジュリアン殿下に、直接取り成していただくのです。兄妹の仲なのでしょう? 彼にすがれば、きっとすべて丸く収まる」
その言葉を投げつけた瞬間、エレオノールの肩が目に見えて震えた。
学園内の問題を自力で解決できず、王族の縁故にすがって揉み消す。
それも、王位を競い合っている相手に、だ。
その瞬間、“王家始まって以来の才媛”という彼女の誇りは、永遠に地に落ちる。
死ぬよりも辛い屈辱のはずだ。
しばしの沈黙が、重く部屋を支配した。
エレオノールは視線を伏せ、震える指先を握りしめている。
「……そう、ですね」
その声は、泣き出しそうなほどにかすれていた。
「正直に申し上げます。わたくし、自身の無力さを……痛感いたしました。これ以上、抗う術を持ち合わせておりません」
深く、深く、彼女は腰を折った。
王族としての矜持をすべて捨て去ったかのような、無様な姿。
その瞬間、ギョームの喉の奥から、こらえきれない愉悦が噴き出した。
「……っ、ふ、くくく……はははは!」
押し殺した笑いは、やがて品のない爆笑へと変わる。
――最初から、この女はいけすかなかった。
高潔な血筋、誰もが称える知性、揺るぎない誇り。
それらすべてを背負った頂点の女が、こうして自分の前で這いつくばっている。
これほど愉快な光景が、この世にあるだろうか。
「……何を、笑っておられるのですか?」
エレオノールが顔を上げる。その瞳には、悔しさと困惑が入り混じっていた。
「失礼。あまりにも……あまりにも貴女の“愚かさ”がおかしくてね!」
ギョームは勝ち誇ったようにワイングラスを傾ける。
「ど、どういうことですか! わたくしは真剣に……」
「……では、教えて差し上げましょう、殿下! それが、敗北した貴女への私からの慈悲だ」
彼は饒舌に語り出した。もはや隠す必要などない。
「茶器には細工を施し、弱みを握って、騒ぎ立てる……私がやったのはそれだけだ! なのにあなたたちは勝手に自滅してくれた! 実に、実に単純な策ですよ!」
ギョームは愉快、愉快と小さく漏らす。
「そんな……っ。では、やはり……我々を騙したのですか!?」
エレオノールの瞳に、烈火のような怒りが宿るのをギョームは見る。
それが、嗜虐心をさらに搔き立てた。
「ええ、その通り! まんまと、です。高貴な皆さんは、泥の中の戦い方を知らなすぎる」
ギョームは鼻で笑った。
「非道です……! 今すぐ、その虚偽を撤回し、謝罪してください!」
「ふん、誰がするものか……いいですか、殿下。最後にひとつ、本当の教訓を差し上げましょう」
彼は顔を近づけ、冷酷に言い放った。
「“はめられる方が悪い”のだ。この世界はね」
その言葉が落ちた瞬間。
エレオノールの瞳から、激しい怒りが……ふっと消えた。
彼女は一瞬だけ視線を逸らし、机の端に置かれた“見慣れない装置”を見た。
それまで彼女を支配していた焦燥も、悔しさも、すべてが幻であったかのように消え去る。
やがて、彼女は静かに、そしてあまりにも優雅に息を吐いた。
「確認ですが、その虚偽を撤回するつもりは、ありませんか?」
「くどいぞ!」
彼女はギョームの言葉を聞いて、くすりと笑う。
「わかりました……そうですわね。“はめられる方が悪い”……全く、その通りですわ」
「……なに?」
あまりの温度変化に、ギョームは眉をひそめた。
「知っておりまして? 音は、“振動”なのだとか」
「はあ? 何を突然……」
エレオノールは、装置の横についた金属製のクランクに、しなやかな手をかけた。
「馬車が通った道に、轍が残るように……音もまた、轍を残すのだそうです」
彼女はゆっくりとクランクを回し始める。
キリ、キリと。小さな機械音が、静まり返った部屋に響く。
「その振動を、大きな筒でかき集め、鋭い針先に伝える。それを――」
彼女の指先が、装置にセットされた淡黄色の円盤をなぞる。
「蜜蝋のような、抵抗も知らずに形を譲る、柔らかな下地に刻み付けると……」
円盤が、滑らかに回転を始める。
「うーん……このあたりでしょうか」
彼女が一瞬だけ躊躇ってから、静かに針を落とす。
チリ……チリッ……という、小さな摩擦音。
次の瞬間。
『――“はめられる方が悪い”のだ。この世界はね』
蓄音機のラッパから流れてきたのは、ノイズ混じりではあるが、紛れもなく今の、ギョームの傲慢な自白だった。
部屋の空気が、一瞬で凍りついた。
「あら。わたくしったら、お見事ですわね」
それとは対照的に、エレオノールは実に楽しそうな口調で呟く。
「な……なな、何を……っ!?」
ギョームの顔から見る見ると血の気が引いていく。
持っていたグラスが絨毯の上へ音もなく落ちた。
「“レコード”と申します。音を記録し、そして再生する装置ですわ」
エレオノールは、最高の淑女の微笑みを湛えて彼を見つめた。
その瞳は、もはや獲物を見定める猛禽のそれだった。
「さて、ベルネ卿。もう一度、お聞きしますわね」
「が……っ」
「――その虚偽を撤回するつもりは、ありませんか?」
「ぐ……っ、おのれ……貴様ぁっ!!」
ギョームは我を忘れ、円盤を叩き壊そうと椅子から飛び出した。
――証拠さえ奪い取れば、まだ!
唐突にエレオノールが、パチンと高く指を鳴らした。
その瞬間、ギョームの頭上、装飾の施された重厚な梁の影から、一条の影が音もなく舞い降りた。
「――なっ!?」
天井から降ってきた理不尽な衝撃に、ギョームは悲鳴を上げる暇さえなかった。
隼のような鋭さで着地したルナは、その勢いのままギョームの背後に回り込み、彼の右腕を容赦なくねじり上げる。
顔を絨毯に叩きつけられたギョームの視界に、先ほどまで誰もいなかったはずの床へ、音もなくひらりと舞い落ちる数片の埃が見えた。
「がはっ!? 離せ、離せ貴様っ!」
床に顔を押し付けられながら、ギョームが絶叫する。
「会長……二時間はさすがに長すぎます。梁の上は埃っぽくて……」
「あら、ごめんなさい。ですが直前に出入りすれば、この男に警戒されてしまいますもの」
「貴様ら! 賓客である私にこのような真似をして、タダで済むと思っているのか! ジュリアン殿下が黙ってはいないぞ!」
「ええ、その通りです。ですから、お兄様も思わず口を閉ざしてしまうよな、素敵なプレゼントを用意してみましたの」
エレオノールは小脇から紙の束を取り出した。
「このレコードだけでも学園に提出すれば十分ですが、念には念を、ですわ……こちらに見覚えは?」
「そ、それは……っ!」
そこに並んでいたのは、彼がこれまで密かに行ってきた裏取引の写し、改竄された帳簿などーーギョームの悪行の数々の証拠であった。
「時間が足りずに、決定打となるものはありませんが……余罪を洗うには十分な端緒ですわね」
彼女は冷ややかに、そして宣告するように告げる。
今度は懐から、王家の印章が刻印された、重厚な羊皮紙を取り出した。
「本日、この瞬間をもって。ギョーム・ド・ベルネ――貴方を」
彼女は、その紙を絶望に染まった彼の目の前へと突きつけた。
「Persona non grata――『好ましからざる人物』と認定いたします」
「な……なんだと……!?」
「外交特権の即時剥奪。滞在権の無効化。そして、あらゆる公的な場での発言権の消失」
エレオノールは、氷のような冷徹さで言い切った。
「この国は、貴方を拒絶します……轍を外れた馬車がどうなるか、その身でじっくりと味わいなさい」
残り1話(後日談+α)で2章本編完結です。
まだ確定ではないですが、そのあとは幕間話を1、2話いれると思います。




