13
視察団が来てから、一週間が経った。
数字にすれば、たったそれだけ。
けれど体感としては、もっと長い。
理由は単純だった。
学園のあちこちで、「小さな異変」が起き始めていたからだ。
最初に違和感を覚えたのは、食堂だった。
「……またか」
ルナが、食事のトレイを持ったまま不機嫌そうに呟いた。
普段なら学生たちが自由に座り、談笑している窓際の特等席。
そこには今、視察団の一行が陣取り、持ち込んだ酒を昼間から呷っている。
もちろん、規則では校内での飲酒は厳禁だ。
だが、外交特権という盾の前では、教師たちでさえ苦い顔をして通り過ぎるしかない。
「これのどこが教育交流なんだろうね」
「ああ。ただ、うちの生徒にとってはいい反面教師だと言えるかもな」
シリルが視線を逸らしながら、低く吐き捨てた。
彼らの周囲には、誰も近づかせないような威圧感が漂っている。
通りかかる学生を品定めするように眺め、時には聞こえるような声で「しけた顔のやつばかりだ」だとか「女が上に立つと規律も緩む」などと嘲笑を並べる。
それは、明確な「侵食」だった。
異変は食堂だけにとどまらない。
彼らに随行している騎士が、強引に学生たちに「稽古」をつけ始めたという話もある。
あくまで『技術指導』という名目だが、実際には圧倒的な実力差で学生を打ち負かし、地面を這わせ、プライドを叩き折るための嫌がらせだ。
図書室では、彼らが貴重な古書や歴史資料を無造作に持ち出し、あちこちにページを折ったまま、あるいはワインのシミをつけたまま放置しているという報告も入っている。
「……エレナ様はなんて?」
わたしの問いに、アメリアが悲しそうに首を振った。
「すべて『承知しています』とだけ……」
踏みにじられる学園の風紀。そして、学生たちの混乱や不満。
それらすべての苦情を受け止め、飲み込んでいるのは、他ならぬエレナだろう。
わたしも歯がゆい思いをしているが、エレナはそれ以上に苦しんでいるに違いない。
「どう考えても、わざとやってるよね。学園の空気を悪くして、生徒会の……っていうか、会長の統治能力に疑問を持たせるために」
頷きはせずとも、ルナの言葉には誰もが同意するところだった。
ジュリアンが送り込んだというこの視察団の目的は、調査などではない。
エレナが大切に守ってきたこの学園の秩序を、内側からボロボロに崩していくことなのだ。
「エレナ様が言えば彼らも多少は言うことをききますけど、毎回エレナ様を呼び出すわけにもいきませんし……」
「……それも作戦のうちだろう。御しきれていない、という印象を周囲に植え付けるためのね」
「どうにかできないだろうか」
エレナがはっきりと「関わるな」と言っている以上は、何もできない。
――いや、それは嘘だ。
助けを求められていたとしても、わたしたちにできることは何もないのかもしれない。
「……」
その日の夕方。
生徒会室の扉が、控えめに叩かれた。
「失礼します……」
入ってきたのは、一年生の女子生徒だった。
目が赤い。
「どうされましたか?」
アメリアが立ち上がる。
「あの……来客棟の近くで……」
言葉が途切れる。
勇気を振り絞るように、彼女は続けた。
「視察団の人に、道をふさがれて……『通行許可を見せろ』って言われて……」
「通行許可?」
ルナが眉を上げる。
「なんだそれは」
「『賓客エリアだから立ち入りには許可が必要だ』って……」
来客棟周辺は、生徒立ち入り禁止区域ではない。
「私、怖くて……」
シリルが静かに拳を握り、エレナを見る。
「……エレナ」
エレナは、すでに分かっている顔だった。
「報告、ありがとうございます。アメリアさん、彼女を送ってあげてください」
「は、はい」
エレナの言葉に、アメリアが席を立ち、女生徒を伴って生徒会を出ていく。
それを見届けた直後、ルナは立ち上がるとエレナに詰め寄った。
「会長! 彼らのやっていることはあまりにも人の道に反しています! 学内の規則だけじゃない、法にだって――」
「いいえ。彼らのやっていることは合法ですわ」
エレナが、はっきりと否定した。
「なっ……!」
ルナが言葉を失う。
「来客棟はいわば、視察団の拠点。事実上、治外法権エリアにあたります」
淡々と、事実だけを告げる声。
「つまり、わたくしたちの要請を受け入れる筋合いはないのです」
それに、シリルが口を挟んだ。
「来客棟以外での不法行為はどうだ? それなら罰することもできるんじゃないのか?」
「それも、ノーです」
エレナは首を振る。
「外交特権がある以上、罰することはできない……決め手にはなりませんわ」
「だったら……」
シリルの声が低くなる。
「半年の間、耐え忍ぶしかないということなのか……?」
エレナは、一瞬だけ視線を伏せた。
「……この話はやめにしましょう」
顔を上げ、きっぱりと告げる。
「何度もいいますが、これはわたくしの責務であり、貴方たちが何かできるものではありません」
沈黙が落ちる。
「……貴方たちの懸念も理解しています。ですが、くれぐれも、早まった行動はお控えくださいね」
エレナは、突き放すようにそれだけ言うと、生徒会の業務に戻った。
誰も、すぐには返す言葉を見つけられなかった。
翌日。
今度は、もっと露骨だった。
「ねえ、これやってみなよ」
裏庭にて。
視察団のひとりが、うちの生徒を捕まえ、そう言った。
掌に小さな袋を載せている。
中には、乾燥した葉。
日に透けた袋の中で、茶褐色に変色した葉がカサリと不気味な音を立てる。
「何ですか、これ?」
「何って、ハーブだよ。気分が軽くなる」
いやいや。
――それは、どう考えても一線を越えている。
「ちょっと何考えているんですか!?」
わたしは声を上げながら、ふたりの間に割って入る。
「え? なんで?」
視察団の男は、わざとらしく首を傾げた。
「そんなの……許されるはずないでしょう!?」
思わず語気が強くなる。
「うちの国じゃ合法だし。こっちでも禁止はされていないはずだぜ?」
男は肩をすくめ、悪びれもせず言い放った。
合法なら何をしてもいいわけではない。
しかし、彼らはその言葉ひとつで簡単に線を踏み越える。
「嗜好品であっても、学校という場にふさわしくないことに変わりありません! これは没収させていただきます!」
わたしは袋を指でつまみ上げる。
瞬間、男の目つきが変わった。
「……おいおい、返せよ。そりゃあこっちじゃ安くない代物なんだ」
それまでのヘラヘラとした余裕が消え、底冷えのするような、ひどく排他的な光が宿った。
「……お断りします」
「女が調子に乗るなよ」
わたしは、袋を握りしめたまま一歩も引かない。
すると、男が大きな一歩を踏み出し、わたしの手首を乱暴に掴んだ。
「俺たちがここで何をしようが、お前らの国の法律じゃ裁けない」
耳元で、低く囁くような声。
「ましてや、お前みたいな下っ端が賓客の持ち物を盗むなんてなぁ……立派な国際問題だぜ?」
みしり、と手首が鳴る。
「何が“没収”だよ。偉そうに」
下卑た笑いと共に、もう片方の手がわたしの肩に伸びる。
周囲にいた生徒たちは、男の放つ殺気と『外交問題』という言葉の重圧に怯え、足を止めてしまっている。
嘘!?
まさか、力ずくで!?
まさか、衆人環視の中でこんな強引な手に出てくるなんて。
正論をぶつければ引き下がるはずだなんて、私はなんて甘い考えをしていたんだろう。
自分の軽率さを呪う間もなく、どろりとした下劣な視線がわたしを絡めとった。
「やめ――」
「その手を離せ」
低く、冷えた声。
次の瞬間、掴まれていた腕が解放された。
「……っ!?」
男の体が、後ろへ引き剥がされる。
振り返ると、そこにいたのは――シリルだった。
片手で相手の腕を掴み、もう一方の手は相手の胸元に添えられている。
静かな怒気が、全身から滲み出ていた。
「シリル!」
シリルはわたしの前に立ち、盾となるように背中を見せる。
その肩幅が、今はひどく頼もしく見えた。
「なんだ、お前は……!」
男は荒い息を吐きながら叫ぶ。
「俺は隣国からの賓客だぞ! 無礼を働けば、」
「賓客だろうと王様だろうと、許されないことはある」
シリルの声は低く、しかしはっきりしていた。
「あと、自分が賓客だというなら、らしい振る舞いをしたらどうだ?」
「なんだと?」
男が睨み返す。
「ちょっと咎められたくらいで女に手を出すのが、賓客の振る舞いなのか?」
シリルは一歩も引かない。
「……チッ、覚えてろよ」
しばしの睨み合いの後、分が悪いと思ったか、男は悔し紛れにそう吐き捨てる。
「名前を伝えておいた方がいいか?」
「いらねえよ!」
男は背を向け、足早にその場を去っていった。
静寂が戻った裏庭で、シリルは深く溜息をつき、ようやくわたしの方を向いた。
「怪我はないか、ノネット?」
「うん、大丈夫……ありがとう、シリル。助かったよ」
「ああ」
緊張が解け、力が抜けそうになるわたしの肩を、シリルが大きな手で支える。
「ご、ごめんシリル」
わたしが小さく頭を下げると、彼はすぐに首を振った。
「構わない」
それきり、言葉が途切れた。
「……」
沈黙が落ちる。
シリルは視線を逸らしたまま、何かを考え込んでいるようだった。
「どうしたの……?」
何か思いつめたように、シリルは怖い顔をしていた。
「言うか迷ったが、言わせてくれ」
「う、うん?」
わたしが身構えると、シリルは真剣な表情でこちらを見た。
「いくら正しいことであっても、あんな無謀なことはやめるんだ」
思わず目を瞬かせる。
「……無謀?」
「ああ」
彼は短く頷いた。
「あいつらは、まともな道理が通じる相手じゃない」
拳が、無意識に握られている。
「それが、君のいいところだと理解はしている」
一瞬、言葉を選ぶように視線を伏せてから。
「だけど、たまたま俺が通りかからなければ、君に何をされていたか……」
そこで、言葉が詰まった。
「……俺でなくてもいい」
シリルは再び顔を上げる。
「ルナやアメリア、教師でもいい」
声に、わずかな震えが混じる。
「何か行動を起こすなら、せめて保険を用意しておくんだ」
強く言い聞かせるように。
「余計なお世話だと思うかもしれない……でも、お願いだ」
その声は少し怒っているようにも、ひどく心配しているようにも聞こえた。
彼の言うことはもっともだった。
だけど、自分の不甲斐なさが同時にすごく悔しかった。
「……ごめん」
ようやく絞り出せたのは、そんな短い謝罪だけだった。
――数日のうちに噂は広がり始めた。
来客棟の周囲で、見慣れない物が出回っている。
夜になると、妙に騒がしい。
近づくと、追い払われる。
生徒会には、相談が増えた。
「怖い」
「不公平だ」
「あの人たちは何をしてもいいんですか?」
生徒たちの不安や不満は至極まっとうで、そして、ピークに達している。
このままで、いいはずがない。




