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「ノネットさん……?」
あてどなくさまよい、たどり着いた礼拝堂のベンチで顔を伏せていたわたしは、不意に名前を呼ばれてびくりと肩を揺らした。
いつの間に側にいたのか、顔を上げると、そこにはエレナが立っていた。
「うぐ……ぐすっ……」
「……何を、そんなに泣いて、」
「ずびっ……」
「ノネ――」
「ふぇえん……」
そこで、ため息混じりの声が落ちてくる。
「ああ、もう。隣、座りますわよ」
そういって、エレナは綺麗な所作でわたしの隣に腰を下ろした。
「ほら、顔を向けて」
「……はい」
両頬をとられ、強制的にエレナの方を向かされる。彼女は少し困ったように眉を寄せていた。
ハンカチをスカートから取り出すと、汚れるのもいとわず、わたしのぐしゃぐしゃの顔をやさしく拭ってくれる。
――いや、ほんとご迷惑をお掛けします。もう情緒が行方不明でして……自分でもわけがわからず。
「ひどい顔ですわね。目の下に、くっきりクマまでできて」
「……あまり、眠れてなくて」
「そうでしょうね。顔に全部書いてありますわ」
怒るでもなく、笑うでもなく。
ただ、呆れたように言われる。
「何か、心配事でも?」
「……色々です」
「色々って……まあ、そうですわよね」
昨日、一昨日のことを思い何となく察しはしたのだろう。
エレナは小さく息を吐く。
「それで?」
「それで? ……とは?」
「いっぱいいっぱいなのはわかりました。全部話せとは言いませんけど、でも、話せる形にできるなら……聞かせてみなさい」
どう話したものか。わたしは迷ってしまい、しばし無言になってしまう。
「……そうね。じゃあ、人から聞いた話とか、例え話をしてみるのはどうかしら」
それをどう受け取ったのか、エレナは話しやすいようにそう提案してくれた。
促されて、わたしは言葉を選ぶ。
「台本も、幕の流れも、結末も――すべて決まっている、有名な演目があるとしますね」
「ええ」
「誰もが知っていて、観客も“その通りに進む”ことを期待している劇」
声が、少し震える。
「でも、ある日突然、本来その役に立つはずだった役者がいなくなってしまって、代わりに別の人間がその役を演じることになるんです」
口を挟むこともなく、エレナは、わたしの“例え話”を黙って聞いている。
「代役は、台本の内容だけは知っていて……でも、動きも、間の取り方も、感情も、本来の役者とは違っていて」
喉が、きゅっと詰まる。
「それでも、公演は始まってしまっているし、途中で止めることはできないから、劇そのものは続けなきゃいけなくて」
わたしは、ぎゅっと指を握りしめた。
「そうすると……物語は、少しずつ本来のシナリオから、外れていくんです」
沈黙。
「もし、エレナ様がその代役だったとしたら――」
それから、わたしは恐る恐る問いかけた。
「決められた台本を、無理にでも守るべきだと思いますか? それとも……舞台が壊れない範囲で、代役なりの演技を探しますか?」
エレナは、少しだけ考えてから、あっさりと言った。
「わたくしなら、自分なりの演技を探しますわね」
「……どうしてですか?」
答えはすぐに返ってくる。
「それが、価値のあることだからです」
「……価値、ですか?」
「人は、同じものには、同じ価値しか見出しません。特に、それが“記号”として扱われる存在なら、なおさらですわ」
少しだけ、声音が変わる。
「わたくしは役者ではありませんから、これは、あくまで、わたくし自身の立場に置き換えた話ですけれど」
一拍。
「わたくしは、自分が置かれた立場に、信念と誇りを持っています」
そして、静かに。
「王族という記号が、わたくしを説明することはあっても、記号のためにわたくしがあるのでは意味がありません。それは――大きく、違うことですわ」
わたしは、しばらく黙り込んだ。
「……わたしには、少し難しいです」
思ったことを、わたしは口にする。
頭では分かる気がするのに、胸の奥が追いつかない。
「そう」
エレナは、それ以上踏み込まない。
「……わたし、どうしたらいいんでしょうか?」
「わたくしが、決めてしまってもいいのかしら?」
「え?」
「いえ。その舞台は、貴女にとってどれほど大切なのかと気になりましたから」
嫌味なく、ただエレナは純粋に、疑問に感じたのだろう。
「誰かの助言で決めてしまえるほどのことなら、わたくしが言うとおりにしなさいな」
そして、そのセリフもきっと純粋にわたしの事を思ってのことだと思えた。
「わたくしが相談をしなさいと言った以上、責任を持ちますわ」
でも、と続ける。
「それでいいかどうかだけは、わたくしには、判断できませんもの」
わたしは、小さく息を吐いた。
「……やっぱり、自分で考えてみます」
「そう」
嫌味のない、さらりとした声。
「他にも、悩んでいることは?」
「……ルナ様と、シリルに意味不明な八つ当たりをしてしまって……自己嫌悪中です」
「そう。じゃあ、後で一緒に謝ってあげますわ」
「どうしてエレナ様が……?」
「便宜を図ると言ったでしょう」
「……本音は?」
「本音ですわよ?」
「本当に……?」
少し間を置いて、照れたようにそっぽを向く。
「……会って2、3日の間柄ですが、貴女はもうわたくしのかわいい後輩ですもの。できるだけ力になりたいじゃありませんか……生徒会という身内でもありますし」
「エレナさまぁ……!」
「キラキラした目でわたくしを見ないでください! なんだか恥ずかしいじゃありませんの!」
「正直、ちょっとキュンとしました」
「ふざけていないで。ほら横になって、仮眠をとりなさい! 貴女はちょっと疲れているのよ!」
わたしは強引に肩を引かれ、抗う間もなく彼女の膝の上に頭を落とされた。
「まだ始業前ですよ?」
「寝ていないのでしょう。いいから」
言いながら――優しく、髪を撫でられる。
しばらくそうされて、ふとエレナが息を吐く。
「……ノネットさん」
「……はい?」
名前を呼ばれて、かろうじて返事をする。
声が少し遠く感じた。
「貴女、撫で心地がいいですね。毛並みのよい犬みたいですわよ」
「……褒めてますか、それ……?」
そう言ったはずなのに、語尾に力が入らない。
指先が髪を梳くたび、思考がふわりと散っていく。
「手遊びには丁度よいですわね」
「……おもちゃじゃ、ないです……」
抗議のつもりだったけれど、半分は息に混じって消えた。
「どちらかというと、ペットですわね」
「……それ、もっと……ひどい……」
くすっと、すぐ近くで小さな笑い声。
「全く。世話が焼けますわね」
頭を撫でる手が、さっきよりもゆっくりになるのを感じた。
「……すみ、ま……せ……」
ちゃんと言い切る前に、わたしの意識は――静かに落ちていった。




