第三十章 草のまくらと、夏空にほどける想い
てのひら市の翌日。
村の広場に残るテントの影を見ながら、みのりはひと息ついた。
賑わいが去ったあとに訪れる、静かな朝。空にはまだ夏の光がたっぷりと残っていた。
「ミノリ〜! 昨日の残りのパン、もらっていい?」
ティオの声に振り返ると、ニコと二人でバスケットを抱えながら駆け寄ってきた。
「いいけど、それ、おやつにするんじゃなくてお昼にしてよ?」
「わかってるってば〜」と、ティオは半分ふざけた声で笑った。
ニコが申し訳なさそうに頭を下げるのも、もうおなじみの光景だ。
広場の隅では、ルーシャとティッタが花冠を作っていた。
「昨日の市、ほんとに楽しかったね」
「うん。リースさん、ちょっとこわそうな人かと思ったけど、あの草の染料の話、すごかった!」
「エルドおにいちゃん、また長く行っちゃうのかな」
「……また、戻ってくるって言ってたよ」
ティッタがぽつりと答える。
一方、工房の裏では、エルナが草を丁寧に干していた。
そのそばで、ユリスがうとうとと舟をこいでいる。
「昨日はしゃぎすぎたのね」
みのりがやさしく声をかけると、エルナは小さく笑った。
「……ユリス、最近よく眠るようになったんです。ミノリさんがくれた草の枕、すごく気に入ってて」
「あれは、ちょっと香りを調合したのよ。穏やかになる草をいくつかブレンドして、ふかふかに詰めたの」
「……おかあさんがいた頃みたいに、ユリスが安心して眠ってるのを見ると、ちょっと泣きそうになります」
みのりは何も言わずに、そっとエルナの手を取った。
「あなたがそうして、大事に見守ってるからよ」
エルナはその言葉に、少しだけ目を伏せて頷いた。
午後になると、リースが再び工房に顔を見せた。
「この村に根付いている“作り手”の気配、なかなかに興味深い」
「ええ、私もこの土地に助けられているんです。ここに来てから、ずっと」
みのりの言葉に、リースは軽く頷く。
「エルドには、感謝しています。旅の間も折に触れて、ミノリさんのことをよく話していましたよ」
「……そうですか」
少しだけ目を細めて、みのりは笑った。
リースが工房に残していったのは、草の繊維に似た、けれど透明感を帯びた一房の糸だった。
「古代の“水絹”と呼ばれた素材を再現した試作品です。……もし手に合うようであれば、使ってみてください」
みのりはそっとそれを手に取り、陽の光にかざした。
糸は光を受けて、まるで水面のようにきらめいた。
その日の夕暮れ。
エルドは再び旅立つ準備をしながら、工房の前に立っていた。
「……行ってきます」
「行ってらっしゃい。またね」
みのりが手を振ると、エルドは少し口を引き結んで頷いた。
そして、ふと振り返る。
「そうだ……あの枕の草、途中の市場で“眠り草”って名前で評判になってましたよ」
「ふふ、じゃあ“ティル村印”ってつけないとね」
ふたりの笑い声が、夕焼けの道にのびていった。
その夜、村のあちこちに、草の香りがやさしく漂っていた。
子どもたちは静かに眠り、大人たちも疲れを癒やす夜。
みのりは窓辺で、リースから預かった水絹の糸をそっと撫でた。
この土地で、自分の手で、なにかを織って、編んでいくこと。
ひと針ずつでも──それが、明日へ続いていくのなら。