第三章 古いマフラーと、失くしたぬくもり
朝の空気が、少し冷たく感じられた。
ティル村の朝は早い。家畜の鳴き声と、薪を割る音が遠くから聞こえてくる。みのりは手に持った湯飲みに顔を寄せて、ふうっとひと息ついた。
「今日はちょっと、肌寒いなぁ」
ふと、昨日の手仕事教室のことを思い出す。ルーシャが一生懸命編んだ、ちょっと歪んだ桜の花。おばあさんが笑いながらも大事そうに胸元につけてくれたのが、嬉しかった。
「今日も、なにか作れるといいな」
そんなことを考えながら、庭の掃除をしようと外に出たそのとき。
「……おい」
ぶっきらぼうな声がした。
振り向くと、日焼けした顔に無精ひげのついた、がっしりとした男が立っていた。茶色の作業着を着たその人は、村の木工職人――ガラルさんだった。
噂には聞いていた。不愛想だけど腕は確かで、村のほとんどの家具は彼の作ったものらしい。
「これ、……直せるか」
彼が無言で差し出したのは、くたびれたマフラーだった。
淡い緑色。両端がすりきれ、片側には小さな穴も空いている。毛糸はもう何度も洗われたのか、柔らかく、手触りはとても優しい。
「……このマフラー、誰が編んだんですか?」
みのりが尋ねると、ガラルはわずかに視線を逸らした。
「……かみさん、だ。昔のな」
その言葉に、みのりの胸がきゅっとなる。
「もう、いないんですね」
ガラルはゆっくりと、黙ってうなずいた。
「冬になると、身体が冷える。けど、買い直すのは、なんか……違う気がしてな」
「……大事にされてたんですね、このマフラー」
「まあな。ぶかぶかで、ちょっとチクチクして、色も似合わんって言われたけど……」
みのりは、笑った。
「だったら、ほどいたり編み直したりしません。“お直し”します。
このマフラーの想いを、ちゃんと残せるように」
そう言うと、ガラルの眉が少しだけ上がった。
「……できるのか?」
「得意なんです、ダーニング。穴をかがる、布の手当てみたいなものです」
みのりはそっとマフラーを受け取り、撫でるように広げた。
端の傷みには新しい糸を添えて、穴は色味の近い毛糸で織り込むように補修する。
“目立たせずに、でもきれいに”。
それは、ただ元に戻すのではなく――思い出に新しい命を加える作業だった。
***
陽が傾きかけたころ、みのりは丁寧にお直しを終えたマフラーを、ガラルに差し出した。
「お待たせしました。ちょっとだけ、端に刺しゅうも足しちゃいました」
「刺しゅう……?」
見れば、マフラーの端に、ほんの小さな桜の花びらのような模様がひとつ。
「穴が開いていたところに、奥さんのぬくもりに、少しだけ今の季節を足してみたくて。
……うるさかったら、ほどきますけど」
「……いや」
ガラルはしばらく無言でマフラーを見つめたあと、そっと首に巻いた。
「……あったけぇな」
そして、ぽつりとつぶやく。
「ありがとな。……あんたのやってること、すげぇよ」
みのりは、ちょっとだけ頬を染めて笑った。
「編むのが好きなんです。誰かの心が、ちょっとでもほぐれたらいいなって」
春の風が、ふたりの間を通り抜ける。
マフラーの桜模様が、やわらかく揺れた。