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2.縁談の試合

 アベラティオの提案から約一か月後。

 リータルドは学園内の試合場にいた。魔法での模擬戦闘も行えるそこは、広いグランドを観客席が取り囲むという、闘技場のような作りになっていた。

 リータルドは学園の運動着を身に着けていた。長袖の上着にくるぶしまで届くスラックス。厚手の生地に貴族特有の優雅さは無い。肩に校章が刺繍されていなければ学園公式の服には見えないかもしれない。

 実戦形式の訓練で使用される服装だ。腰には一振りの剣を佩いている。

 

 周囲の観客席はそれなりに埋まっている。みな注目しているようだった。

 

 観客席がざわめいが増した。男爵令嬢キィンネイラ・ファイエスドゥーグが入場したのだ。

 肩まで届くブラウンの髪は、今は編まれてシニョンにまとめられている。身にまとうのはリータルドと同様の、校章入りの運動着。

 腰には左右一本ずつ短剣を装備している。明らかに近接戦闘を意図した装いだった。

 彼女な周囲の観客の多さも、そこから向けられれる奇異の視線もまるで気にすることなく、堂々と歩いた。そして試合場の中央、リータルドの元までやってきた。


「お待たせしましたですワン。わたしは男爵令嬢キィンネイラ・ファイエスドゥーグですワン。このたびは縁談のお申し出、大変うれしく思っていますですワン」

「私は男爵リータルド・ラニングハード。よろしくお願いします」


 お互いに貴族のマナーに則った挨拶を交わした。

 

 ファイエスドゥーグ男爵家は縁談の顔合わせの場所に学園の試合場を提案した。そして試合でもってお互いの力を示すことを希望した。

 

 これは獣人の貴族、ファイエスドゥーグ男爵家にはある風習によるものだ。婚約を結ぶにあたり、どちらの力が上かはっきりさせなくてはならないというのだ。

 犬と言うものは上下関係に敏感だ。上と決めた相手には従順で忠節を尽くす一方、下と見た相手には横暴に振舞う。犬の獣人であるファイエスドゥーグ男爵家はその性質をもっているらしい。

 

 この提案をうけたとき時、リータルドはファイエスドゥーグ男爵家がこれまで人間の貴族を迎え入れられることができかった理由を察した。

 顔合わせで試合をするなど、大抵の貴族は野蛮と感じて忌避することだろう。万が一敗北でもしたら、獣人族相手に一生頭が上がらないことになる。獣人族を嫁にしたい貴族がいても、事前の話し合いの段階で退いていたに違いない。

 リータルドとしても、本音を言えばこんな風習に付き合いたくはなかった。だが婚約破棄の策略のため、拒否するという選択肢は無かったのだった。


「まず確認させていただきますですワン。『献身の護符』は装備されてますか?」

「ああ、もちろんつけている」

 

 リータルドは首から下げた『献身の護符』見せた。キィンネイラも同じものを首から下げている。

 

 『献身の護符』とは装着者が受けたダメージを肩代わりしてくれる魔道具だ。おおむね装備者の最大体力に等しいダメージまで肩代わりし、それを越えると派手な光を放って砕ける。

 この『献身の護符』が破壊された時点で試合は終了となる。もっとも、勝負がそこまでずれこむことは稀だ。学園の試合で命がけで戦う者などおらず、大抵はどちらかが降参して終わる。


「ルールは一点を除いて学園公式ルール通りですワン。魔法と真剣の使用は可能。『献身の護符』が砕けるか、降参したら負け。ただし、開始位置はは学園既定の『30メートル離れた位置』ではなく、『10メートル離れた位置』で行いますですワン」

「ああ、承知している」


 学園での実戦形式の試合とは、原則として魔法の撃ち合いとなる。近すぎれば自分の魔法の余波を受ける危険があるため、最低30メートルは離れた地点から試合を開始するのが一般的だった。

 

 獣人族は魔法は一切使えない。獣人族が人間に奴隷として虐げられてきたのはこのためだった。

 いかに身体能力に優れていても、遠距離から広範囲に繰り出される様々な魔法に対してはあまりに不利だった。近づけば人間に勝てるが、近づくまでに負ける。それが獣人と人間との戦いだった。

 

 遠距離からの開始では、キィンネイラの勝ち目はほとんどなくなる。そのためのルール変更だった。

 

「ああそれと……試合の前にひとつ確認していいか?」

「なんですワン?」

「その『ですワン』というのは、いったい何なんだ?」

「ああ……人間族の殿方は耳慣れない言葉遣いかもしれないですワン。これは獣人族の令嬢の、礼儀作法に則った由緒正しい言葉遣いなのですワン」


 キィンネイラはニッコリ笑ってそう告げた。

 その顔にはこちらをからかう様子はまるでなかった。

 ふざけているのなら文句の一つも言いたいところだった。だが獣人族の文化だと言うのなら、追求するつもりはない。仮にもこれから婚約関係を結ぶ相手である。相手の家の風習は尊重すべきことだと、リータルドは考えた。

 

 そして二人は10メートルの距離を置いて向かい合う。開始位置には予め印がつけてある。距離に間違いはないはずだった。

 リータルドは剣を構える。キィンネイラは二本の短剣を両手に構え、姿勢を低くした。

 

 審判の教師が空に向け、炎の玉を打ち上げる。

 炎の玉が炸裂音を響かせてはじけた。試合開始の合図だ。

 

 キィンネイラは一息で距離を詰めてきた。獣人族の身体能力なら、10メートルの距離など無いに等しい。この速さなら正規の30メートルの距離があっても、対応できる生徒はそう多くないだろう。魔法の発動する前には短剣の間合いに入ってしまうに違いない。

 

 だが、リータルドはそもそも魔法で迎撃しようとは考えていなかった。彼が頼みにするのは、その手に構えた剣なのである。

 キィンネイラは速いが、対応できないほどではない。短剣に対し、剣の方がリーチに勝る。迎撃は十分可能と思われた。

 

 剣の間合いに入るや否や、キィンネイラは背を向けた。そして繰り出してきたのは、恐ろしく鋭い後ろ蹴りだった。柄元で受け、自ら後ろに飛んで衝撃を逃がす。速度を十分に乗せたその蹴りはキィンネイラの小柄な身体からは想像もつかないほど重い一撃だった。まともに喰らえば骨折は免れなかっただろう。『献身の護符』で耐えきれたかもしれないが、体勢を崩せば追撃から逃れられない。


 間髪入れずキィンネイラが肉薄してくる。一撃で勝負を決めかねない蹴りは、短剣の間合いに入るための前振りに過ぎなかった。

 

 左右からナイフが繰り出される。無数の斬撃は、一人の人間に繰り出したものとは思えないほど途切れない。そのどれもが鋭く速い。一撃でも喰らえばそのまま畳みかけられたことだろう。

 だがリータルドはそのすべてに対応していた。襲い来る無数の斬撃を、あるいは受け、あるいは弾き、あるいは受け流した。姿勢を崩すことなく全て凌ぎ切っていた。

 しかし、防戦一方だ。反撃はできなかった。キィンネイラの連撃は、それほどの激しさだったのだ。リータルドは焦ることなく機を窺った。

 

 攻撃の中、一瞬生じた間。リータルドはすかさず蹴りを放った。死角から放った前蹴りは、しかし空を切った。キィンネイラは自ら後ろに跳び、蹴りはおろか剣すら届かない距離まで離れたのだ。卓越した反応速度と判断力だった。

 だが、これで仕切り直すことができた。リータルドは呼吸を整え、剣を構え直した。キィンネイラは手の中でくるくると短剣をまわすと、再び構え直した。しかしすぐには攻撃してこなかった。その顔には心底楽し気な笑みが浮かんでいた。

 

「お見事ですワン。この学園の並の生徒なら、今ので100回は斬られていたはずですワン」

「それはこっちのセリフだ。獣人族が身体能力に優れているのは知っていたが、想像以上だよ」


 リータルドは実戦によって鍛えられた戦士だった。

 

 リータルドの男爵家は貴族として裕福ではない。護衛の騎士団を常設することも難しい。獣や魔物で被害が出ても、そう気軽に高ランク冒険者を呼ぶことはできない。

 平民のほとんどが魔法を使えない。それほどの魔力は無いし、扱うだけの技術や知識もない。

 そんな平民より、魔法を使える貴族の方がずっと強い。だから領地を守る義務のため、領主自ら戦う必要があったのだ。

 

 リータルドは幼い頃から実践的な剣術と魔法を教え込まれた。そして10歳になる頃には獣や魔物を狩る手伝いをするようになった。

 獣の群れに一人で立ち向かったことは幾度もあった。そうして磨き上げた実戦剣術だからこそ、あの怒涛の連撃をしのぎ切ることができたのである。

 

 リータルドから見て、これまでのキィンネイラの速さは野生の狼以上。決して勝てない相手とは思わない。だが、獣人族の令嬢がこの程度であるはずがなかった。

 

「気に入らないですワン。あなたはまだ全力を出していないですね?」

「それはそっちも同じことだろう」


 言い返すと、キィンネイラは笑みを深めた。口の端から鋭い犬歯が見えた。令嬢の浮かべる表情ではない。獣が牙をむく顔だ

 リータルドも負けじと野性的な笑みを返した。

 

「全力で来てほしいですワン! 本気の力を隠したまま負ける殿方なんて、婚約者にしたくないですワン!」

「それは困ったな……」


 リータルドは本当に困っていた。

 そもそも彼には勝つ必要など無かった。婚約破棄をする前提の婚約だ。負けて頭が上がらなったとしてもそれはわずかな間のことに過ぎない。貧乏男爵の子息として屈辱に耐えるのは慣れている。むしろそうした状況の方が、婚約破棄するには都合がいいくらいだ。

 それにキィンネイラは伯爵子息アベラティオの想い人だ。いくら『献身の護符』があるとは言え、あまり傷つけるわけにもいかなかった。

 だが、婚約そのものが成立しないのでは困る。

 

 もう一つ、リータルドには全力を出してくない理由があった。攻撃魔法が苦手な彼が、野山で獣や魔物相手に培ったのは、泥臭い戦い方だ。他の貴族に見られれば蔑まれるだろうと思っていた。彼は学園内の実技においても、本来の戦いをやったことはない。

 

 だが、そんな甘いことを言っていられない。次はきっと本気だ。剣だけでは凌ぎきれないとリータルドは悟った。

 キィンネイラの尻尾がピンと立った。

 

「本気で来ないのなら、終わらせますですワン!」


 再びキィンネイラが踏み込んでくる。先ほどより速い。リータルドは迷わなかった。すぐさま使い慣れた魔法を発動させた。

 

「『冷淡な外套(コールド・コート)』」


 ささやきと共に、リータルドの周囲に白い靄が立ち込めた。それに触れまいとキィンネイラは慌てて立ち止まる。動きを止めた彼女に対し、リータルドは踏み込んで突きを放った。

 突きを素早く躱すと、キィンネイラはすぐさま反撃に転じた。またしても小さな台風のような凄まじい連撃が繰り出される。

 だが先ほどと同じ展開にはならなかった。防御に回るばかりだったリータルドが、徐々に余裕を持ちはじめ、やがて反撃まで繰り出すようになってきたのだ。

 本気を出すと言っていたはずなのに、キィンネイラの動きはさきほどよりも遅くなっているのだ。

 たまらずキィンネイラは距離を取る。リータルドが追いすがる。獣人族として抜群の素早さを発揮していた彼女が、しかし追撃を降り切れない。

 リータルドの振り下ろした斬撃を、キィンネイラは二本の短剣で受け止めた。

 

「こ、この白いもやはいったい……!?」

「『冷淡な外套(コールド・コート)』。効果は白い靄の中にある敵対者の動きを徐々に鈍らせることだ! 時間と共に効果は積み重なり、俺の剣に受けるたびに更に加速する!」


 受け止めた剣を受け流しキィンネイラは反撃を試みようとする。だがリータルドの方が早い。次なる斬撃に、またしてもキィンネイラは防御に回らざるを得なかった。

 

 『冷淡な外套(コールド・コート)』。行動阻害系のデバフ魔法だ。その効果は冷気によって相手の動きを鈍らせること。ダメージも与えない地味な魔法だが、効果が積み重なるという強みがある。積み重なる条件は時間経過とリータルドの剣を受けこと。剣を受けると効果が多く積み重なる。防御するだけでも有効で、斬撃をまともに受ければ更に大きく効果が積み重なることになる。

 

 リータルドは領地を守るため、獣の群れを討伐しなければならないこともあった。単独で多くの獣を相手取るには、剣一本では足りなかった。しかし、彼は攻撃魔法の適性が無かった。

 そこで会得したのが相手の能力を下げるデバフ系の魔法だ。幸い、リータルドはそういった魔法に適性があった。これならば比較的少ない魔力で多くの敵を相手取ることができた。

 『冷淡な外套(コールド・コート)』は実戦で何度となく使ってきたリータルドの得意な魔法の一つだったのだ。


 

 そして攻防は逆転した。キィンネイラはなかなか攻めに転じることができず、防戦一方になっていった。こうなると短剣は不利だった。いかに身体能力が優れていようと、短剣は剣よりずっと軽い。キィンネイラ自身も小柄な令嬢であり、リータルドの方が体重はずっと上だ。戦闘において重量の差は容易に覆せるものではない。唯一状況を打破し得る素早さが、キィンネイラから奪われつつあるのだ。

 

 『冷淡な外套(コールド・コート)』の範囲外から離れて攻撃をするのが上策だが、キィンネイラは短剣しか持っていない。遠距離から短剣を投げるくらいはできるかもしれないが、それでリータルドを倒せる保証はない。たった二本しかない短剣を一本でも失えば勝ち目はさらに薄くなる。

 リータルドがデバフの効果を知らせたのは、キィンネイラの焦りを誘うためだ。近接攻撃しかできない彼女は、動きが鈍るとわかっていても抜け出せない。

 デバフの魔法と狡猾な戦法で確実に勝利する。それがリータルドの戦い方だった。

 

 戦闘は有利に展開していたが、リータルドに油断はなかった。有利でも攻め過ぎず、かと言って守りに入ることもない。ただ着実に攻め続けた。狼の群れは追い詰めると意外な反撃を見せることがある。この獣人族の令嬢に同じものを感じていたのだ。

 その予想は現実のものとなった。キィンネイラが消えた。いや、目で追えないほどの高速移動だ。『冷淡な外套(コールド・コート)』で速さを奪われながら、死力を振り絞っての動きなのだろう。人間なら魔法に頼らなくては不可能だ。獣人族ならではの驚異的な瞬発力だった。

 

 だがそれは、リータルドにとって予想の範疇だった。

 

「『悪意ある悪臭(シニスター・スメル)』」


 リータルドが次なる魔法を背後に向けてはなった。それと同時に、素早く右に向けて飛ぶ。


「ぎゃわん!?」


 悲鳴と共に、さきほどまでリータルドがいた場所をキィンネイラが通り過ぎた。彼女はそのまましばらく進むと、転んで地に伏した。

 

 『悪意ある悪臭(シニスター・スメル)』。強烈な悪臭を発生させる魔法だ。人間相手なら数秒ひるませる程度の効果しかない。だが嗅覚の鋭い獣に対しては強烈な効果を持つ。10秒程度は無力化でき、それを脱しても数分間は動きを鈍る。それは戦闘においてそれは致命的な隙となる。


 キィンネイラは犬の獣人と聞いていた。人間よりはるかに感覚が鋭いことは、予想できていた。


 リータルドの経験上、この魔法が通用するのは一度きりだ。獣は愚かではない。魔力を感じる能力のない獣でも、二度目以降は野生の勘で回避する。獣相手にこの魔法を使うのは、絶対の窮地か最後の勝負を決めるときだけだ。そしてリータルドは、今回も判断を誤らなかった。

 

 キィンネイラは地に転がったままもがいていた。袖口で必死に鼻をこすりつけていた。よほどつらいのか涙すら零し、シッポも内側に丸まっていた。

 リータルドは同じようにして苦しむ狼を何度も見たことがあった。『悪意ある悪臭(シニスター・スメル)』は、狙い通りの効果を発揮したようだ。

 それでもキィンネイラはまだ短剣を手放していない。反撃の可能性はある。彼女の元に注意深く歩み寄ると、剣を突きつけ、告げた。

 

「俺の勝ちだ。降参しろ」

 

 いかに獣人と言えど、倒れた状態で攻撃をかわすのは容易ではない。まして今は『冷淡な外套(コールド・コート)』の効果によって動きも鈍っているのだ。もはや勝負は決していた。

 それほど有利な状況にありながら、リータルドには油断というものがまるで無かった。その構えに隙は無く、キィンネイラがどう動こうとすぐさま斬りつける意志を見せていた。

 キィンネイラはようやく鼻をこするのをやめた。しばらく剣先をじっと見つめていたが、やがて観念したように息を吐いた。

 そして声高く叫んだ。


「わたしの負けですワン!」


 敗北宣言を聞きつけ、審判は宣言した。

 

「勝者! 男爵子息リータルド・ラニングハード!」


 審判の宣言を聞き、リータルドはようやく剣を収めた。

 試合は終わった。リータルドの勝利だ。だが、歓声も拍手も上がることは無かった。それどころか、軽蔑のまなざしを向けてくる者も少なくなかった。

 貴族の試合というものはもっと華があるものだ。魔力の高さとその操作技術を競うべく、攻撃魔法が絢爛に繰り出される。生徒たちはその鮮やさに熱狂するのだ。

 

 だがこの試合は違った。リータルドの使った魔法は単純なもので、魔力も技術もさほど必要としないものだった。相手を害する冷気でじわじわと相手の速さを削ぎ、最後は悪臭で攪乱する。華々しさはかけらもなく、地味で泥臭い戦い方だった。

 

 リータルドはため息を吐いた。こうなることはわかっていた。それでもキィンネイラに勝つにはあの戦い方をするしかなかった。

 だが果たして、目的は達成できるのだろうか。リータルドの目的とは、まずは婚約することだ。 確かに勝ちはしたものの、こんな戦い方では嫌われてしまうかもしれない。婚約できなければこの勝利にはなんの意味もないのだ。今からでも伯爵子息アベラティオへの言い訳を考えるべきなのかもしれない。

 

 そんなことを考えていると、キィンネイラがまだ立ち上がっていないことに気がついた。先ほどのように地に伏してはいないものの、地面に座り顔を伏せている。あんな負け方をしてショックだったのかもしれない。

 

「……立てるか?」


 リータルドは手を差し伸べた。噛みつかれるかもしれない。そんなことを思ったが、一度差し出した手を引っ込める気にはならなかった。

 するとキィンネイラは起き上がった。しかし立ち上がらず、地べたにすわったまままっすぐにリータルドのことを見つめてきた。妙に澄んだ瞳だった。その視線には憎しみも失望もなかった。ただ憧れだけが感じられて、リータルドは戸惑った。


「実にお見事な戦いでしたですワン!」

「そ、そうか。あまり貴族らしくない戦い方で、君のことを失望させてしまったかと思っていたんだが……」

「そんなことないですワン! 相手の力をじわじわと削ぐ無駄のない魔法! 自分の強みを押しつける徹底したやり方! 実に実に、素晴らしかったですワン!」

「……それは褒めているのか?」

「もちろんですワン!」


 キィンネイラの表情にも声にも、皮肉は感じられなかった。ただ掛け値なしの称賛だけが感じられた。


 言われてみれば獣の戦い方というのはそういういうものだ。例えば狼なら、たった一匹の獲物を狩るのに群れで当たる。一撃で仕留めるのではなく、何匹もの波状攻撃で少しずつ獲物の力を削いで行く。獣の狩りと言うものは執拗で徹底的なものだ。

 獣人族であるキィンネイラにとっても、戦いと言うのはそういうものかもしれない。

 リータルドの戦い方は、どうやらキィンネイラの好みに合ったようだった。ホッとした。

 

 だが、どうにもむず痒いものを感じた。獣や魔物を倒して領民に感謝されることは何度もあった。だがリータルドにとって、こんな風に戦い方自体を褒められれるのは初めてだったのだ。

 

「それでは早速ですが、婚約を結びたいと思いますですワン!」

「それはありがたいが……ここで俺たちだけでやるのか?」


 貴族の婚約は家同士の契約だ。当事者同士で勝手に婚約を結ぶなど、まるで幼い子供のする結婚の誓いのようだ。

 しかしキィンネイラはニコニコと笑顔を浮かべているものの、ふざけた様子は感じられなかった。


「それが獣人族の流儀ですワン! リータルド様、片膝をつけて手のひらを出してほしいですワン!」


 リータルドは言われるままに膝をついて姿勢を下げ、右手の平をキィンネイラに向けて差し出した。

 すると彼女は、ゆるく握った拳を彼の手の上に置いた。


「これは……?」

「獣人族は爪で戦うものですワン。こうして拳を握って手に置くことは、戦闘を放棄し、信頼と服従を約束することを意味するのですワン」


 キィンネイラのそれなりに筋の通った説明を聞いても、リータルドは違和感をぬぐえない。

 だってこれはどう見ても、犬に最初に覚えさせる芸――「お手」にしか見えないのだ。


「ではリータルド様! このままわたしの頭をなでて欲しいですワン!」

「頭をなでる?」

「犬の獣人の令嬢は、信頼した者にしか頭を撫でさせないのですワン! 戦闘を放棄し、頭を撫でられる……それが婚約の証になるのですワン!」

 

 言われるままに頭をなでる。

 もっともらしいことを言われても、違和感は増すばかりだった。

 貴族の婚約とは家同士の契約だ。もっと堅苦しいものだ。あるいはもうちょっと恋愛的なものであるはずだ。婚約を経験したことのないリータルドは、漠然とそんな風に思っていた。

 

 年頃の令嬢の髪に触れるというのは、大変なことだ。貴族の令嬢は髪を大事にしており、むやみに異性に触れさせないものだ。人目のあるところで令嬢の髪に触れるというのはけっこう大胆なことのはずなのに、そういう感じがしない。むしろ和む。

 気持ちよさそうに目を細めるキィンネイラの顔と、ぱたぱたと元気に揺れるシッポ。よくわからない癒しを感じた。

 

「これにて婚約は成立ですワン! 男爵令嬢キィンネイラ・ファイエスドゥーグは、あなたのよき婚約者として尽くしますわん! どうかよろしくお願いしますですワン!」


 キィンネイラはリータルドのそっと手を離れると、両手を地に着け、深々と頭を下げた。

 その動作だけなら、丁寧で礼儀正しい所作と言える。でもそれによって出来上がった見た目は……何と言うか、よくしつけられた犬のする、「伏せ」にしか見えなかった。

 獣人族の知られざる風習に、リータルドは戸惑うばかりだった。

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