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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
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砂場の神さまたち

作者: 立木十八

 一児の親ともなると、以前にはまるで分からなかったことも、少しずつだが分かるようになってくる。今までは恋人だった女性が、ある日を境に妻となり、また子供が産まれた途端に母親となる様を、間近で見てきたせいもあるからだろうか。しかし、分別がついたせいで分からなくなってきたことも、またある。小学校に上がって間もない我が子を叱る時などは、自分が子供の時分に同じ様なことで叱られたこともすっかり忘れて、ついつい声を荒げてしまうのだ。当然、子供は怖くて泣き出すのだが、こちらとしてはそのせいで余計に腹立ちが増す。黙れ泣き止めとばかりに頭をひとつひっぱたいたところを、妻にとがめられ、そのままでは居心地も悪く、散歩に出ると言い残し、サンダル履きで外に出た。

 何が原因でこうなったのか。子供が泥んこ遊びでもしたらしく、真っ黒になって帰ってきたのがはじまりだった。新築の家を、泥まみれの体で、無頓着に汚すその様を見て、妻に任せておけばいいのに、自分で注意をしたのが運の尽きだった。それでも子供には子供なりの言い分があるらしく、私の注意などはどこ吹く風でどんどんと体の汚れを部屋中になすりつけていく。先日受けた健康診断の結果が思わしくなく、以来酒もタバコも断っていたせいもあってか、怒りっぽくなっていたのだろう。理由はどうあれ、相手は子供である、やはり私が悪かったのだ。

 大人げないことをした、と反省しながら、散歩ついでに近所の公園へ行き、暗くなった園内を眺めてみる。そうしていると大人になって分からなくなってしまったことも、少しは思い出せるような気がして。


 私も子供の頃は砂場遊びが大好きで、野球やら鬼ごっこやらに興じる友達を後目に、黙々と巨大建築物を造り上げてはひとり悦に入り、泥まみれで帰っては、そのたびに叱られたものだった。それでも懲りずに、次の日にはスコップとバケツを持って嬉々として公園に行き、砂場で泥をこねていた。

 大きな山を盛って、そこに穴を掘り、トンネルを通して道路を整備する。周りには水路を掘り、汲んできた水を引き入れ、板きれで橋を架け、四角や三角の簡素な民家を並べ、街並みを造り上げる。そうやってひとつの街を完成させると、必ずその最後に造るものがあった。

 街を見渡す山の頂上に、人の顔を模した像を造るのだ。それは街のシンボルでもあり守り神でもあった。モアイ像を思わせるそれを私は守護神さまと呼んで、ひとりで勝手にあがめたてまつっていた。

 今になって思えば、その時の私は、それを単なる遊びとしてではなく、ある種の信仰に基づいた仕事と解釈していたようである。神の天地創造は、まだ終わっておらず、その仕事の一端を自分が担っているのだ。そういう高邁な思いこみによって、砂場遊びをしていたようなのだ。

 そんな私の熱中ぶりを面白がって、それに一緒に付き合って遊んでくれる子も少なくはなかった。やはり子供は人が面白そうに遊んでいると、そこに集まってくる。

 そういうわけで、私の街は、協力者が増えたこともあって、徐々にその規模を拡大していき、ついには砂場の全域にわたった。それぞれが定められた区画を担当し、河川を整備し道路を拡張し、おのおのの区画にそれらを繋げていく。街が発展していく光景を見ながら、私はとても満たされた思いを感じていた。山頂から街を見下ろす守護神像も、同じ気持ちだろうと思いながら。

 だが、面白くないのは、公園の他の場所で野球やサッカーをやっていた子供達であった。我々はもちろん砂場を自国の領域と定め、他にその支配地域を拡大するようなことはしなかった。しかし人材を砂場にとられてしまった彼らは、競技人数に事欠くようになっていたのだ。自然と、その人的資源を保有している我々砂場派への圧力は増していった。

 砂場へは、我々の作業している最中に、何度もボールが投げ込まれ、山や家が崩された。彼らはそのボールを謝りながらも拾いに来るのだが、その度に、我々が細心の注意を払って崩さないように歩いている砂場を、まるでそこになにもないかのように踏み荒らしていくのだ。

 こういった一種の恫喝に近い行為もあってか、我々のうちの何人かは、子供らしいボール遊びへと戻っていった。

 残された数人の砂場派は、まさしく使命感に燃える選ばれた者達であった。

 ボール遊びとは違って、我々は、めいめいの造り上げた区画に勝敗や優劣の差を求めなかった。それぞれが神より与えられた使命を全うしているのである、そこになんの差があろうか、というわけだ。我々は、ひとつの国を造り上げるために、大いに心を砕いていた。そこには遊びの結果得られるようなものとは、すでに性質の違う楽しさがあった。もうすでに仕事をする喜びを、そこに感じていたのだ。

 もちろん実際には砂場遊びなど、仕事でもなんでもない。時間をかけて造り上げた壮大な街並も次の日にはなくなっている。まさしく砂上の楼閣で、なんの成果も残らないし、誰に見せるわけでもない。我々は、ただ自分達の満足のためだけに、砂場遊びをしていた。

 そういう我々の様子を面白くないと感じる子供達は、やはりいた。彼らにしてみれば、ちまちました砂場遊びなどは、なにが面白いのかまるで分からない。自分達の得意な遊びであれば、その中で負かして馬鹿にすることもできようが、我々に対してはそれもできない。我々がさも楽しそうに砂場遊びをしているのを見て、自分達のしている遊びに対する不安が日に日に高まりもしただろう。そういった不満や恐れは、それを与える対象への攻撃へと発展する。子供として非常に自然な行為だとは思うが、その攻撃を受けるほうはたまったものではなかった。

 彼らは、我々が国土建設をしている砂場で、走り幅跳びをし始めた。我々に対するなんの断りもなしにだ。確かに、公園はみなのものである。誰がどこでどう遊ぼうがそれは勝手だろう。しかし砂場で先に遊んでいたのは我々なのだ、それこそ来る日も来る日もこの砂場で遊んでいたのである。それを後からやってきて、走り幅跳びをしながら、我々の建築群を踏みつぶしていくのだ。

 当然、我々は怒りを感じた。これは明白な侵略行為であるからだ。しかし、ことを荒立てては彼らの思うつぼなのである。彼らはただ単に、我々をへこませたかっただけなのだ。自分達にとって得意な遊びで我々を負かしたかっただけなのである。ことを荒立てれば、それが野球やサッカーから、より直接的なケンカに変わるというだけの話である。人数的に、我々に勝ち目は当然ない。もとより暴力的手段での解決などは望んでいなかった。我々は平穏にして静謐な砂場遊びを取り戻したかっただけなのである。

 我々は仕方なしに耐えた。迫害を甘んじて受け容れる聖職者のように。いつか審判の日がやって来て、全てに正当な判決が下されるであろうという希望を胸に。

 そんな思いをよそに、その嫌がらせは激しさを増していったが、我々には確固として揺るぎない信念がある。彼らが薄ら笑いを浮かべながら走り幅跳びをする、その脇の方で、小さな国造りは再開された。いつかは彼らが、その単純な遊技に飽きてくれるであろうことを祈りながら。

 だが、走り幅跳びは続けられ、それは段々と幅跳びではなくなっていった。子供の能力であるから、その跳び幅には自然と限界がある。何度か飛べば、誰が得意なのかも分かってくる。そんな同じことの比べ合いには飽きたのだろう、そのうち、飛んでいる最中に体を捻ったり、空中でポーズを決めたりして、その姿勢の格好良さを比べるのが、その種目における優劣の判断基準となった。そのせいで我々は、その身を、より危険にさらされるようになった。

 単純な距離の長短を競う幅跳びであれば、その競技者の跳ぶ軌道は直線的であるからして、競技範囲もある程度の予測ができ、我々はそこを避けて遊ぶことができた。しかし競技の主旨が変わってしまったのである。競技者はより格好良く跳ぼうと、妙な角度をつけたり、空中で一回転したりと、どこへ着地するか分からないのだ。競技の範囲は変則的なものとなり、砂場の全域がその対象となっていた。

 我々には何が面白いのかさっぱり分からなかったが、彼らは楽しい様子である。今のはどうだとか、さっきの方がどうだとか、口で言い合っては勝ち負けを決めているようだった。

 大変なのは我々の方である。彼らは我々にはお構いなしに跳んでくる。もちろん我々の信念はそんな嫌がらせで揺らいだりはしない。戦々恐々としながらも、砂場遊びは続けられた。彼らも、我々がおびえる様を見て多少は面白がっていたが、次第に苛立たしさも増しているようだった。

 そんな状況であったから、いずれ、怪我人が出るのも当然だったのだろう。

 今はどうだか分からないが、当時の砂場には色んなゴミが埋まっていた。お菓子の包み紙やアイスの棒。古ぼけたスーパーボールや欠けたビー玉。猫の糞などは、ごろごろしており、きわめて不衛生だったと言える。そして恐ろしいことに、ガラスの破片なども埋まっていた。

 我々はそういった危険なものを、注意深く丁寧に、取り除いていたのだが、彼らは違った。彼らには砂場遊びの経験が不足していたのだ。

 彼らのうちのひとりが、勢いよく跳んで、空中で姿勢を崩し、顔から砂場に突っ込んだ。それを彼の仲間達は大笑いして眺めていたのだが、起きあがってきた彼を見て、笑いは悲鳴に変わった。おそらくガラスの破片が埋まっていたのだろう、砂だらけになった顔には、いびつな裂け目ができており、普段見たこともないぐらいの血が流れていた。

 我々は恐慌に陥った。血を見ることはまれではなかったが、なにしろそれだけの量は見慣れていない。泣き声を聞きつけた近くの大人が駆けつけ、その子を病院に連れて行ってくれた頃には、人だかりができていた。

 事情を聞く大人達に、我々砂場派は、見たままを伝えたのだが、幅跳び派のひとりはそうではなかった。

 彼にどういった思惑があったのかは分からない。我々を陥れる腹づもりがあったのか、それとも自己の責任を回避する言い逃れだったのか。どうあれ、そのひとりは、ガラスの破片が埋まっていたのを、我々による作為的なものだと大人達に説明し始めたのである。つまり、我々砂場派が、幅跳び派への嫌がらせのために砂場にガラスの破片を故意に埋めていた、というのである。

 馬鹿馬鹿しい、取るに足らない主張だと思ったが、大人達はそうは受け取らなかったようだ。そもそも大人達に、砂場派と幅跳び派との確執など分かろうはずもない。一緒に仲良く砂場で遊んでいるようにしか見えなかっただろう。それにその作り話をしたのが、近所でも活発なことで評判のよい、子供達の中でもリーダー格の男子であったのだから、話の信憑性は増した。我々はすぐさまその話を虚偽であると否定したが、もともとがおとなしく内向的で大人受けのしない子供達の、弱々しい主張である。どれだけ信じてもらえたかは分からない。

 弁解むなしく我々は悪役となり、そしてその悪意ある作り話を頭から信じたわけではないだろう大人達でさえ、砂場は危ないから別のところで遊びなさい、と我々に言いつけた。数日後、町内会ででも決められたのだろう、砂場は一面にブルーシートがかけられており、使用を禁止する旨の張り紙が付されていた。

 こうして我々の天地創造は中断を余儀なくされ、砂場派は解散の憂き目にあった。そのことで私はひどく憤慨した。しかしその怒りを誰にぶつければよいのかも分からない。どうやってその間違いを訂正し、誰に訴えればよいのかも分からなかった。

 解散した砂場派の面々のその後だが、あるものは、慣れない野球やサッカーといった遊技に戻り、またあるものは遊び場を変えたりとしたようだった。

 私は、そのどれにもまじれずに、ひとり心細い思いをしながら、公園の隅で花をちぎったり草を噛んだりと、たいして面白くもないひとり遊びを暇つぶしのようにこなしていた。胸中に、なんとも言えぬわだかまりを抱えながら。

 そんなある日だ。私は、自室にあった油粘土を取り出して、例の守護神像を手のおもむくままに造り上げていた。そして、あまった粘土でもうひとつ造ったものがあった。小さな人の形をした粘土細工である。その小さな人形は、先の砂場での事件で、虚偽の発言をした、彼を模したものであった。

 私は、その時、どうかしていたのだろう。澱のように溜まった怨恨を、その人形に向かっていっぺんに吐き出した。人形の四肢を鉛筆の芯で刺し、胴体をセロハンテープの台で叩きつぶした。ぺちゃんこになったそれを、さらに折り畳み、ちぎり、原型をとどめないくらいにぐちゃぐちゃにした。しまいには、丸めたそれを守護神像の口に突っ込んで食べさせてしまった。

 しかし、そんなことで私の腹立ちが紛れることはなかった。なかったのだが、翌日に、それどころではない事件が起きた。

 例の彼が、交通事故にあったのである。

 当時、近所には工場が数多く建っており、その荷を運搬するトラックの通りも激しかった。それらに対応した道路整備もさほど進んではいなかったためか、子供にかぎらず交通事故の件数は多く、それ自体は珍しいことではなかった。

 それにしても私にとってはタイミングが悪すぎた、いや良すぎたのだろうか。彼は大型のトラックに轢かれたそうである。その後、彼がどうなったのかについては叙述を避ける。

 その事故について責任もなにもないはずの私は、激しく後悔した。造ったきりそのままにしてあった守護神像は気味が悪くなってしまい、すぐにつぶしてもとの粘土の固まりに戻した。そうしてから、もしや自分にもその害が及ぶのではと、震えたのを憶えている。人を呪わば穴ふたつ、というわけだ。それからは誰にも言いようのない恐怖と悔恨を抱えたまま、残された子供時代を過ごした。

 そのうち、ある程度の分別がついてくると、例の一件は、偶然だったという一言で片付けることもできるようになり、少しは気が楽になった。だからと言って完全に忘れることはできない。罪悪感は心の奥深くに、抜けないとげのように刺さっており、なにかの拍子にちくちくと痛みだし、私を暗い気持ちにさせるのである。

 そんな記憶のとげも、歳を重ねるごとに、小さくなっていくのだろうか、徐々に思い返すことも少なくなり、大人になった今となっては、そんなこともあったなと、やっと思い出したほどだった。

 

 そんな子供時代の思い出が、公園を眺めるうちに蘇り、やはり子供にはそれなりの苦悩や言い分があるものだと、あらためて反省させられた。

 その公園にも砂場があったので、懐かしさもあり、サンダル履きなど気にも留めずに、久しぶりに足を踏み入れた。

 暗くなった公園でなにをやっているのかと、馬鹿らしい気持ちはしたのだが、しゃがみこみ、砂をかき集め、そこにひとかたまりの山を造ってみた。その頂上に、子供の頃には何度も造った、守護神像を造り上げた。

 モアイ像のような素朴な目鼻立ちのそれを、じっと見つめていたが、やはり当時のような思いは蘇らず、なにか大事なものが消えてしまったような喪失感と、同時にまた、失うことができたという安堵感との入り交じった感情がわき上がってきた。


 家に帰り、砂遊びの汚れを落とそうと、風呂に入った。気付くと浴槽の底に少しの砂が溜まっていた。その砂粒が、先に入った我が子のものなのか、それとも今の自分のものなのかは判断がつかなかったが、自然と笑みがこぼれ、風呂からあがったら、子供にあやまらなくては、と思った。

 風呂からあがると、我が子はすでに床についていた。寝顔でも眺めようと子供部屋に入ると、ナツメ球のぼんやりした明かりの中で、壁に貼られた絵が目に入った。

 まだ我が子が幼稚園の頃に描いた「ぼくのおとうさん」という題の絵だ。クレヨンで描かれたそれは、私とは似ても似つかなかったが、我が子がはじめて描いた私の肖像である。大事にとってあり、壁に飾っていたのだ。

 大胆なタッチで描かれた、その絵を見ていると、あることに気がついた。

 黒々とクレヨンで塗りつぶされた「ぼくのおとうさん」の目には、オレンジ色の光を反射して光る画鋲が刺さっていた。

 それを見て、先日受けた検診の眼底検査の結果を思い出した。白内障のおそれがあるとかで、来週には再検査を受けなくてはならない。


 心に刺さったとげが、ちくりと痛んだ。

前の「散髪の思い出」と同じ手法を用いて書いてみましたが、また違った味わいを感じていただければ幸いです。

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