プロローグ・2
ストレスを発散させたり、悩みを忘れるために没頭できるような趣味を私はもたない。意識して何かを長続きさせることは得意ではなく、衝動的に触れたくなれば軽く楽しむ程度である。
強いて言えば、朝早い時間から湯船に身を沈みこませているこの瞬間こそが最も心が安らぐときだろうか。
白い肌にこびり付いた血痕や見知らぬ獲物の慟哭も、すべて洗い流してくれる。
狩りの夜明けにはそれが日課となっており、そうでなくとも大抵はこれが私の一日の始まりとなる。
そうでなくとも、というのはつまるところ私は眠るという行為を忌避しているのだ。健全な肉体には然るべき睡眠が必要であることは確認するまでもないが、それでも私は眠りにつくことを嫌い・・・いや、もはや怖れているといっても過言ではないかもしれない。
私の置かれている環境故なのかは断言しかねるが、なんにせよそれを安らげるためのこの行為ともいえた。
『おはよう、メイ。調子はどうだ』
低い男声のようで、それでいて自然的ではない、機械的な音声が耳に届く。
「おはよう、沖村さん。間違えてビデオ通話にしないでね、怒るからね」
風呂場から躍り出た瞬間に合わせたように繋がれた音声通話に応じながら、私は身体の隅々まで水滴を拭っていく。張り付いた金髪をヘアピンで固定、さっと部屋着を纏う。
「今朝は早いね、どうかしたの」
『左腕の様子が気になった。無理はするなと言ったのに、君が構わず仕事を強請るものだからな』
「大丈夫、もう痛みはないよ。骨は折れてなかったし、沖村さんの対応のおかげだ」
見せてやりたいなぁと思いつつ左腕を高く掲げる。
『それならよかったが、あまりこのようなことは私も避けたいところでな。セクター・ナインから君を庇うにも限界がある』
「いつもありがとっ!今度会ったときは私に御馳走させてよ」
音声が聞こえるように耳を澄ませつつ、ヘアピンを外した頭髪にドライヤーの風を吹きかけていく。長い金髪を持ち上げ、根元から水分を一網打尽にしていく様子を鏡越しに見ながらいつも通り、あの話を切り出す。
「それで、次の標的は誰?私はいつでもいけるよ」
『話を聞いていたのか、メイ。これ以上は――』
「わかってる、沖村さん。私の無茶に付き合わせちゃってることや、沖村さんの立場もあることは」
ドライヤーの電源を切り、顔を見られない彼に届けばいいなと、鏡の前で笑顔を作る。
はっきりいって、私には死ぬまでこの家に籠っていることが最善の選択といえた。私が〝彼ら〟を殺害する特殊な肉体をもち、それは私の〝血縁上の父親〟に由来する――同時にそれは、私がこの世界にあるべき存在ではない証左にほかならない。
私自身、呪われたこの遺伝子を疎ましく思った経験は数知れない。
「でもね――」
だからこそ、せめて私だけは笑顔を絶やしたくない。助けてもらっといて幸薄そうにしてたら、それこそ彼を困らせてしまうに違いないよ。
「この力は、私にしかないんだ。みんなは私のこと怖がっているんだろうけど、そんななかでここまで育ててくれた沖村さんには本当に感謝してるし、あなたの声に応えたい――でもこれは私と実の父の問題だ、私が斎藤帳の負の遺産を駆逐したそのとき、ちゃんと私も死なないと」
できる限り、朗らかな口調で覚悟を口にした。沖村から否定的な声は上がらない。きっと、幾度となく聞かされているうちに彼も諦めるようになったのだろう。
暫しの静寂を挟んでようやく、沖村が反応を示した。
『メイを信じて止めはしない。だが自身を軽んじるその在り方は褒められたものではない』
「沖村さんに救われた命なんだから、軽視なんてできるわけないじゃん。これが私にできる恩返しだよ、沖村さんもわかってるくせに・・・他に用がないなら、切るね」
洗面台に横たわる液晶に手を伸ばし、沖村の返事を待たずに通話を終了させる。
この手の会話を彼と交わすことは初めてではないが、せっかく身体を温めたばかりで指先が冷えたように感じる。
お腹空いたなぁ・・・と独り言ち、表情の強張りから避けるように鏡から視線を逸らした。