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邂逅


 夜の香りでむせ返る歓楽街を、僕は恐る恐る歩く。四方八方から賑やかな声が聞こえてきて、その音圧に押し潰されてしまいそうだ。タバコや香水の香りが、人とすれ違う度に鼻にこびりつくので、僕はジャケットの袖でひたすら鼻をこすった。鼻がピリピリしてきた。痛い。


「お兄さん!」

「うわっ」


 おっかなびっくり道を歩いていた僕の腕を男が掴む。


「お兄さん今仕事の帰り?」

「え、あ、はい……まぁ」

「折角の金曜日なんだから日頃の疲れを癒やしていきませんか?」

「いや、僕は」

「取り敢えず一度店に来てくださいよぉ。きっとあなた好みの子が見つかりますよ」


 内緒話をするように顔を近づけてくる黒服の男。ニコニコと爽やかな笑顔を浮かべる一方で、僕の手を掴む力は強い。何が何でも店に連れていくという気力を感じ、怖くなった。


「ぼ、僕、行かなくちゃいけないところがあるんで!」


 腕を振り払い、早足で逃げる。


「あ、お兄さん、ちょっと!」


 後ろから声が聞こえる。だけど追いかけてはこなかった。人が多いおかげで、僕の姿を見失ったのだろう。良かった、と安心したのも束の間。今度は別の店の店員と目が合う。磁石のような引力で僕の方にやってくるので、僕は急いで走った。



 *


 きっかけは、妹の香奈からのとある「頼み事」。

 

 妹は現在大学生で、僕が住むマンションから少しはなれた所で一人暮らしをしている。

 夏休みのある日のことだ。香奈が僕のマンションにやってきた。時刻は午前1時。女の子が1人で出歩くには不安な時間帯だ。

 会うのはおよそ半年ぶり。久しぶりに電話がかかってきたと思えば、開口一番「明後日の夜、お兄ちゃんの家に行っていい?」だなんて言われて驚いたけど、反対する理由もないので僕は承諾した。仕事を終えて家に帰宅し、2人分の料理を作る。そう言えば何時にやって来るのか聞いてないなと思いつつ、最初は特に疑問を持たずに香奈が来るのを待っていた。だけど、いつまで経ってもインターホンは鳴らない。電話をしても、留守番電話に繋がるだけだ。日付けが変わった時、流石に不安になって事件の可能性が頭に浮かんだ。警察に連絡するべきなのか、スマホを片手に悩んでしばらく経った頃、やっとインターホンが鳴った。


 香奈は玄関に入るなり、僕に頭を下げた。


「お兄ちゃんにしか頼めないことがあるの」


 面と向かって会話するのは数年ぶりだった。子供の頃はそれなりに会話をしていたけど、香奈が大きくなるにつれ喋ることは減っていた。学業に勤しんでいる間に時は流れ、僕はあまり香奈と話すこともないまま高校を卒業して一般企業に就職した。会社は実家の近くにあったけど、独り立ちを望んでいた僕は会社近くのアパートに部屋を借り、年末年始や用事がない時以外は実家に戻ることはなかった。決して仲が悪いわけではない。だけど妹に頼み事をされるのは珍しいことだった。


 僕が「頼みって何?」と聞くと、香奈は緊張の面持ちで僕に告げた。


「男装バーで働くことになったから、シフトがある日は迎えにきてほしいの」と。





 香奈の働く男装バーは歓楽街の中程にある。店自体は小さいけど、それなりに繁盛しているみたいだ。香奈から話を聞く限り、客の殆どは女性らしい。それって何だか不思議な感じがする。女の子は店員を男だと思って店に行くのだろうか。それとも、男装する女の子が好きだから店に行くのだろうか。僕には良く分からない世界だ。

 スマホを確認すると、香奈から連絡が入ってきた。今仕事を終え、着替えているらしい。店の裏口で待っていてほしいと言われたので、僕は煌びやかな店頭を素通りし、薄暗い裏口の方へと向かった。

 裏口は店の入り口の間反対にある。擦りガラス窓の隣にダクトが設置してあり、轟々と音を立てている。不思議な甘い香りが辺りに漂っている。香水のような香りとは違う。芳香剤の香りだろうか。

 店は床が高かった。そのため、裏口の前には階段が数段置かれている。コンクリート階段は土で汚れていて、あまり座り心地は良くなさそうな場所だ。

 僕がそこに着いた時、既に先客がいた。階段に腰掛けている。タバコの赤い炎が薄らと俯きがちの顔を照らした。中世的な顔立ちの青年がそこにはいた。そんな風に、僕には見えたのだ。

 黒いベストと白いシャツで身を包み、長い手足を折り畳んでいる。捲られたシャツの袖から伸びる腕は白くほっそりとしていたが、病的というほどではなかった。

 短い黒髪が、ふわふわと揺れる。

 ぽっかりと空いた穴のような深淵の双眸が、僕に向けられる。


「こっちは入り口じゃないよ」


 ざらりとした声。見た目通りの中世的な声だ。青年_____のように見えたけど恐らくは女の子だろう_____は、タバコを指で挟み、白い煙を口からこぼしながら、深く息を吐いた。

 僕はしばらくの間、その子を見ていた。僕に話しかけているのだと気がつくのにかなりの時間がかかった。


「あ、ああ、そうなんだ」


 僕は一旦、来た道を戻ろうとして足先を変えた。しかし目的を思い出したので、再びその子と向き合った。


「僕は客じゃない。妹の迎えに来たんだ」

「妹?……ふぅん」


その子は背を丸め、つまらなそうに僕を眺めた。


「誰?」

「え?」

「妹、誰」

「えっと……中邑香奈って名前なんだけど」

「本名じゃ分からない。源氏名は?」

「聞いてない」


 店の話は、僕の方からは聞かないようにしている。


「妹の迎えに来るくらい過保護なのに、名前すら知らないんだ」

「頼まれて来てるだけだから。あまり、詮索するのもどうかと思うしね」

「……ふぅん、そう」


 その子は、タバコを咥え、ゆっくりと呼吸をした。


「あのさ。ひとつ言っておきたいんだけど」

「何?」

「あまり裏口に来ない方が良いよ。あたし達は女の子に夢を売ってんの。あんたみたいな男がここにやってきて勘違いされたら困るってわけ。女は怖いからね。呪い殺されるかもよ」

「でも、僕は頼まれてここに来たんだ」

「あんたの妹、どうせ20歳超えてんでしょ。そんな奴がどうなろうとそいつの自己責任じゃないの。あんたがわざわざ来る必要なんてないよ」

「……僕はそうは思わないな」


 確かに自己責任ではあるけど、やっぱり心配なものは心配だった。


「あの子は僕の大切な妹だから、あまり危険な目に遭ってほしくないんだ」

「あんたって、本当にお節介だね」

「そんなことないと思うけど。妹のいる兄って、みんなこんな感じなんじゃないの?」

「……さあ、どうだかね」


 あたしには良く分からない。そう言って、その子は俯いた。僕はその子から少し距離を取って、建物の壁を背に立った。


 耳を劈くような笑い声も、酔っ払い達の怒声も、建物の壁と壁の間にできたこの僅かな隙間を通っていけばすぐ近くにあるというのに、不思議と辺りは静まり返っているように感じられる。ダクトの音も慣れてしまえば何も聞こえないのと同然だった。僕はその子の小さな呼吸音を耳の端で聞きながら、香奈が来るのを待っていた。スマホの画面を眺め、返信を待つ。通知は未だに来ない。ここに来て十分が過ぎようとしていた。その子は2本目のタバコに手をかけていた。


「君は、この店で働いてるの?」


 無言に耐えられなくなって尋ねると


「それ以外の何に見えるの?」と逆に問いかけられる。


「ああ、ごめん。そうだよね。ここにいるんだから」

「何で謝るの?」

「え?」

「今あんた、あたしに何か失礼なことした? だから謝ってるの?」

「あ、え、えっと……」


 言葉に詰まって黙り込むと、その子は口角を上げ、クスッと微笑んだ。


「別に責めてるわけじゃないんだから、そんなに怯えなくても良いのに」


 僕はその子と、少しだけ会話を交わした。大したことのない話だ。この辺りの空気の汚さや、酔ってしまいそうな人の多さについて。ぽつぽつと喋った後、その子は再びタバコに口をつけた。


「タバコ、いる?」

「僕は良いかな」

「ふぅん。ま、頼まれてもあげないけど」


 変わった人だ。なんというか、空中を漂ってる雲みたいな感じ。ふわふわしてて、掴みどころがない。


「そんなタバコ吸ってキツくないの?」


 足元に置かれたタバコのパッケージは明瞭とはしなかった。だけど、匂いがかなりキツい。重たいタバコなのだろうか。


「もう慣れた」

「でも、健康には良くないんじゃない? 副流煙の話なんかも聞くし」


 はあ、と。その子は深くため息を吐き、頭を掻いた。


「……あんたみたいな健康オタクのおかげで、ここの店もついに禁煙になっちまったんだよね」

「え?」

「こんな店に来てる癖に健康に気を遣うなんて、馬鹿みたい」

「ううん。そうなのかなぁ。でも、意味もなく不健康でいる意味はないと思わない?」

「とにかく、ポイ捨てしてるわけでもあるまいし、少しはほっといてほしいもんだけど」


 ここに来る時点で、皆同じ穴の狢なのだから。

 その子はそう言って、わざとらしく舌を出す。短くなったタバコを地面に押しつけ、ポケットに入れていた携帯灰皿にタバコを仕舞った。


「お兄ちゃん!」


 扉が開き、香奈が飛び出してくる。しゃがんでいたその子につまずきそうになると慌てて体を翻し、頭を下げた。


「わ、わわっ! ごめんなさい、先輩! 怪我してませんか?」


 その子は背筋を伸ばし、大人びた笑みを浮かべた。


「俺は大丈夫。ツバサこそ怪我してない?」

「だ、大丈夫っす!」


 香奈は敬礼をして、俺の元に駆け寄ってくる。


「あんたが言ってた妹って、ツバサのことだったんだ」

「ツバサって、まさか香奈のあだ名?」

「あれ、お兄ちゃんには言ってなかったっけ?」


 香奈が首を傾げると、その子は立ち上がって、香奈の頭を撫でた。女性にしては背が高い。もしかしたら本当に男なのかもしれないと一瞬思ったけど、香奈が「先輩」と言っているので、やっぱり女なんだろう。


「ツバサはそそっかしいからな。変なところで躓いたりすんなよ」

「そ、そんなことしないですって! 先輩はいっつも私のこと子供扱いするんですから!」


 香奈が頬を膨らませる。「先輩」は笑って、香奈の背中を軽く叩いた。


「ほら、お兄ちゃんが心配しないうちに早く家に帰りな」

「はーい。先輩、お疲れ様です」

「おつかれ」


 香奈が俺の手を引いた。裏路地を抜けて大通りに出るまで、俺は何度も背後を振り返った。「先輩」はずっと、小さく手を振っていた。


「ごめんね、待ったでしょ? メイク落とすのに時間がかかっちゃって」

「さっき着いたばかりだから気にしなくて良いよ」

「ここに来るまでにキャッチに捕まるんじゃないかと思ってちょっと心配だったけど、無事来れたみたいで良かった」

「キャッチ?」

「客引き。店の前に立ってて、お客さんを呼び込むんだよ」


 なるほど。僕がさっき捕まったのはキャッチだったのか。新しい言葉をひとつ覚えた。


「だからあんなに熱心だったんだ」

「やっぱり捕まったんだ」

「何度かね。でも、人が多いおかげでなんとか逃げることができたよ」

「そっか。だったら良かった」


 香奈はにしし、と笑う。


「ちょっと遠くに車停めてるから、少し歩くけど大丈夫?」

「うん」


 香奈に手を引かれたまま、人混みを歩いていく。


「私が来るまでの間、先輩と喋ってたの?」

「うん」

「先輩、すごく良い人でしょ。お客さんに対してだけじゃなくて、私達にも凄く優しくしてくれるんだよ」

「へぇ」


 タバコを咥えていた「先輩」の姿を想起する。優しい、のかな。でも悪い人ではないと思う。


「どんな話してたの?」

「大した話じゃないよ。タバコのこととか、そのくらい」

「先輩がタバコ吸ってるところ見たの?」

「え、うん。でも、それがどうかした?」

「羨ましいなぁ。私も先輩がタバコ吸うところを見たいんだけど、いつも1人でこっそり吸ってるんだよね……先輩、かっこよかったでしょ?」

「うん。凄くかっこよかったと思う」

「でしょでしょ! イツキ先輩ってね、男の人にも負けないくらいかっこいいんだよ! 背も高いし、指もスッと細長くて綺麗だし、それにあの声! ハスキーっていうのかな? 凄くかっこいいよね」


 あの人、イツキって言うんだ。


「香奈はその先輩のことが大好きなんだね」

「うん。凄く好きだよ。私がお仕事で失敗した時もフォローしてくれるし、教え方もとにかく丁寧で、分かりやすいの。お客さんにも人気だし、キャストの中でもあの人を嫌ってる人なんていないんじゃないかな」


 握った手をブンブンと振り回し、香奈は楽しげに笑う。


「私も先輩がタバコ吸ってるところ見たいんだけどな」

「頼めば?」

「駄目だった。一度お願いしてみたんだけどさ、『体に悪いから近くに来ちゃ駄目』だって。私、別に気にしてないのに」

「……ふふ」

「何笑ってんの、お兄ちゃん」

「いや、優しいんだなって思って」


 さっき僕にはあんなこと言ってたのに、何だかんだ優しいところもあるんだ。


 香奈は、自分が褒められた時のように胸を張って、自慢げに言う。


「でしょ? そういう人なんだよ、先輩は」


 人混みを抜け、薄暗い道を歩く。繁華街はあんなに眩しいのに、少し道を外れただけでこんなに暗くなるんだ。やっぱり、僕が迎えに来たのは正しかった。


「良い先輩がいるところで働けて良かったね」


 僕がそう言うと、香奈は少し目を見張って、その後、悲しそうな顔をした。


「あのさ、お兄ちゃん……ごめんね。お兄ちゃんのこと巻き込んじゃって。本当はお兄ちゃんに迷惑かけるつもりもなかったし、そもそもこんな仕事をしてるって言うつもりもなかったの。お兄ちゃんは反対するって分かってたから」


 香奈が僕の部屋にやってきた時、そして僕に頼みごとをしてきた時。僕は反対した。ただの男装バーならまだしも、ホストやキャバクラなどの建物が立ち並ぶ街のうちのひとつの店だ。たとえ健全なお店だったとしても、周りの店でどんなトラブルが起きるかも分からないし、いつそれに巻き込まれるかも分からない。だから、兄としては止めるのが正しいんだろう。

「お願い。好きな人がそのお店で働いてるの。遠くから眺めるだけで良いの。少しでも近くにいられるだけで私は幸せなの」

 そのうえ、香奈の恋した相手は夜の街で働く人だった。ますます止めなければならないだろう。だけど僕は香奈を止めることができなかった。

 香奈が真面目なのは良く知っている。同じ家で育ってきたのだ。僕以上に真面目で優秀であることも、大学でも優秀な成績をおさめていることも、時折お母さんから送られてくるメッセージで知っていた。そんな香奈ならきっと羽目を外すことはないだろうと、僕は香奈を信頼することにした。

 恋をすると、人はたったそれだけで幸せにも不幸せにもなれる。僕はできれば香奈に幸せになってほしかったし、そのために手助けをするつもりだった。


「正直に言うと、今も僕は反対だよ。僕だけじゃない。みんな反対すると思う。それだけ香奈が大切なんだよ」

「……うん」

「だけど、香奈の気持ちも僕は分かるんだ。叶わない思いだと知っていても、少しでも好きな人に近づきたいって気持ち。それは、どんなに頑張っても消すことはできないと思う。だから、いっそのこと、やれるとこまでやれば良いんじゃないかな。これもきっと、良い人生経験になるだろうし」


 香奈の敬愛する「イツキ先輩」に言わせれば、つまりは「同じ穴の狢」ということだ。僕は香奈の思いを止める権利や資格など持っていない。


「もちろん、よっぽどのことが起きたら止めるけどね。香奈もそのために僕を呼んだんだよね」


 香奈はこくりと頷いた。


 車を走らせる。


「そういえば、あの店で働いてる子は大丈夫なの? 時間もかなり遅いけど」

「みんな、私みたいに知り合いの男の人や彼氏に送ってもらってるみたいだよ。あ、でも、イツキ先輩が誰かに送り迎えしてもらってるところは見たことないな」

「そうなの?」

「あの人とシフトが何度か被ったことあるけど、いつも私より後に帰るんだよね。だからいつもどうやって帰ってるのか、良く分からないんだ」

「……それはちょっと心配だな」

「でも、たとえ1人で帰ってるとしても、先輩ならそこら辺の男なんて簡単に倒せそう。そんな感じしない?」

「それでも一応は女の子なんだよ。あまり1人にさせるのは良くないんじゃないかな」


 香奈は不安そうに目線をキョロキョロと動かす。


「ちょっと、連絡してみるね」

「うん。よろしく」


 香奈が先輩にメッセージを送った数分後、返信が来た。


「知り合いに送ってもらってるから大丈夫、だって。良かったぁ」


 香奈はほっと胸を撫で下ろし、また、別の話を始めた。


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