幻想痛
1
「早河さんとはあまり話したことは無いです。部屋の前で何度か顔を合わせるくらいで……会話をしたのも、僕がアパートに引っ越した時にあいさつに行ったくらいです……。
昨日の夜ですか?昨日の夜は……、部屋で大学の課題をしていました。僕、アパートの近くの大学に通っていて……。あ、さっき言いましたよね、すみません。声ですか?……すみません、ヘッドフォンをしていたので、聞こえなかったです。お役に立てず本当にすみません。え、僕がその時間に部屋にいたと証明できるものですか?僕一人暮らしなので……。あ、昨日終わらせた課題とかは……そうですよね、時間が分からないですよね。すみません、馬鹿なことを言って。
でもまさか、早河さんが殺されるなんて……今も信じられないです。しかも部屋の前で……。あの、もしかして……いや、何でもないです。すみません。
あ、もう帰っても良いんですか?ありがとうございます。
刑事さんも大変ですね。くれぐれも、体調にはお気を付けください。」
2
警察署を出た時にはすっかり日も暮れていた。時間を確認しようと携帯を開けると、バイトの出勤時間から大幅に過ぎていた。三件の不在着信も、きっと店長からだろう。今すぐかけなおすべきだが、今の状況をうまく説明する体力はもう残っていなかった。店長には申し訳ないが、明日の朝に電話しよう。
携帯を鞄に入れ、前を見ると、見覚えのある白いパーカーを着た後姿があった。
「施野」
普段なら声をかけることは無いが、今は施野と話したい気分だった。施野は振り返り、僕だと分かると「お前も今終わったんだ。」と言って足を止めてくれた。
「施野はどんな事を聞かれた?」
「早河さんと話したことがあるかとか、昨日の晩何をしていたかってことくらい。」
彼が自分と同じ質問を受けていと事に少し安堵した。
「でもまさか、うちでこんなことが起きるなんて……。」
施野は無言で頷いて歩き出した。それに続いて僕も足を動かした。
事件が起きたのは昨日の夜、同じアパートに住む早河さんがレンガで殴られて亡くなった。それも早河さんの部屋の前で。早河さんの部屋はアパートの一階の一番奥の部屋で、その隣に僕の部屋があり、その隣に施野の部屋があった。
施野は同じ大学に通っている。学部は違うが、学年も引っ越してきた時期も同じだったため、遊んだり、長話をすることは無くても、顔を合せると少し会話をしていた。施野はあまり人付き合いを必要としないのか、大学で見る彼はいつも一人で、誰かと一緒にいるところを見たことが無かった。うちのアパートは家賃が安い分、隣の部屋との壁がとても薄いので彼が帰って来る時もドアの音で分かるのだが、いつも深夜に帰ってきているようで、人を家に入れているような声も聞いたことが無かった。
「施野は昨日、何してた?」
「俺はバイト。タイムカードも切ってたから疑われずにすぐに帰れたよ。お前は?」
「部屋で課題してた……。昨日はバイトで怒られちゃって……早く帰らされたんだ。」
「そうか。」
施野はそう言ってそれ以上は何も聞いてはこなかった。そういうところが、僕にとっては居心地がよかった。
少し一緒に歩くと、施野が「バイトに遅刻しそうだから、このままバイトに行く。」と僕の顔を見て言った。
「こんな時でもちゃんとバイトに行くなんて、施野はすごいな。」
感心した僕の顔を、施野がまじまじと見てきた。
「顔色悪いけど、大丈夫か?」
「ああ……昨日、大学で友達と喧嘩しちゃって、あまりよく寝れなかったんだ。」
部屋に着くと、リュックを背負ったまま、倒れ込むようにベッドに横になった。一度横になってしまったら、指一本動かない。ただ、目と意識だけは、はっきりとしていた。目は開いているが、視界に写っている物を上手く認識することができない。
僕はひどく疲れている。こんな時は深く眠りたかった。
警察署での事を思い出す。刑事たちの視線が痛かった。邪魔くさそうな、自分が犯人ではないかと疑うような視線に耐える事が、とても辛かった。こんな時でも、自分の態度は悪くなかっただろうか、刑事さんに嫌われていないだろうか、と自分の発言一つ一つを思い出していた。思い出すたびに、胸が苦しくなった。
3
軽い目眩を感じながら、目を開いた。時計の針は深夜2時過ぎを指してる。いつの間にか寝てしまっていた。体を起こし、リュックを床に下ろした。中途半端な睡眠のせいで体に力が入らず、うまく動かない。部屋が静か過ぎるように思えた。
朦朧とする意識の中で、殺された早河さんの事を思い浮かべた。自分が大学の課題をしていた時、彼女は殺された。部屋の前に積んであったレンガで、何度も何度も殴られて死んだんだ。きっと彼女は死への恐怖と苦痛に顔をゆがめ、助けを求めて叫んだんだろう。いやにリアルな場面が脳内に流れ、自分の記憶にない、何か不快な感覚を微かに覚える。そしてゆっくりと、彼女の死に実感がわいてきた。
人が死んだんだ。昨日の晩、この部屋の直ぐ前で。
心臓に鈍い痛みが広がる。こんな所で休めるわけがない。ベッドから飛ぶようにして玄関に向かった。ただ、このアパートから離れたい、その一心だった。
扉を開けた瞬間、筋肉が縮み上がり、身体を動かすことができなくなった。その場を離れようとしたが、足だけが金縛りにあったように硬直して動かない。膝が笑っている。腰が酷く痛い。
僕は左に向かいたい。右には早河さんの部屋がある。早河さんが殺された場所がある。見たくはない。見たくはないのに、視線が右に動いた。
そこには早河さんが立っていた。
口を歪めるように開き、色のない目を大きく開いて僕を見て立っている。
心臓の痛みは少しずつ高まり、強く速い鼓動へと変化していく。身体の至るところの筋肉が痙攣し、小刻みに震えて止まらなかった。叫ぼうとしても、声が出ない。呼吸がうまく出来ない。恐怖で弾けるように震える身体は全くいうことをきかない。彼女から目を逸らすこともできず、ずっと目が合った状態になっていた。彼女は全く動かない。近づくことも、離れることもせず、ただただ立っている。
保たれていた静寂を破るように、携帯の高い着信音が鳴った。その音に、驚いた反動で固まっていた身体が一気に解放された。一気に息を吸い込み、一目散に走った。彼女に背を向け、振り返らず、前だけを向いて。
どういうことだ?頭の中で呟き続けた。彼女は死んだんだ。昨日の晩、誰かにレンガで頭を殴られて、何度も何度も殴られて、恐怖で顔を歪めながら死んだんだ。
でも、どうして僕の前に現れるんだ。何かを伝えたいのか?僕は君の事を何も知らないし、君も僕の事を何も知らないはずだ。そう、君は僕の事なんて何も知らない。ただの隣人で、それ以上でも以下でもない。一体、僕の周囲で何が起こっているんだ?まとまらない考えを必死に巡らせ、自分の状況を整理しようとした。だが、意識の奥に、状況を整理したくないという気持ちもあった。
先走るように動揺する身体に不安になりながら、ただ逃げ続けた。
どれくらい走って来たのだろう。人気のない道を歩いていた。見慣れない道だ。いや、実際は何度も通った道かもしれない。視界は保たれているのに、意識を失っているような感覚で、真っ直ぐ歩けなかった。前を向くことだけを意識した。途中、自分が歩いているのかどうかも分からなかった。
遠くの方で男の声がした。その声に意識を傾けると自分の名前を呼んでいる事に気付く。その声がだんだん自分に近付いてくる。声の方へ視線を向ける前に、男は僕の肩を軽く叩いた。
「おい、大丈夫か?」
顔を見ずとも、誰の声かはすぐに分かった。施野の静かな喋り方にほかならない。
「なんでここに……?」
自分の声が、微かに震えた。喉は渇いているのに、身体の至るところから異常な量の汗が滲み、次々と流れる。
「なんでって、ここ、バイト先からの帰り道で……。」
足を止めると、急に呼吸ができなくなった。正確には、呼吸に意識を向けなければ、うまく息を吸えなかった。施野が何か言っているが、言葉がうまくはいってこない。
「お前、本当に大丈夫か?酷い顔色だけど。」
息を吸う事だけに、意識を向けた。施野の声が遠くなっていく。自分の呼吸する声だけが段々と大きくなって、耳にしつこくふれた。
だんだん狭くなっていく視界の中で、口を歪め、目を剝いた彼女の顔がぼんやりと見えた。
4
「……あの日は嫌な日でした。友達と喧嘩したんです。ちょっとした意見の食い違いだったのですが、その事で頭が真っ白になって、何も考えられなくて、バイトでもミスばかりしてしまいました。
アパートに帰った時、鍵を開けようとしても、うまく手に力が入らなくて……嫌われたらどうしようって、本当に不安だったんです。馬鹿みたいですよね。でも、僕にとっては……あ、すみません。話が逸れてしまいました。それで、うまく鍵を開けられなくて焦っていると、早河さんが帰って来たんです。……ほら、あの通路って狭いじゃないですか。僕はリュックを背負っていて……邪魔になると思って急いで鍵を開けようとしたんですけど、やっぱりうまく開けられなくて……そしたら、早河さんが僕の背中を押して、「邪魔」って……邪魔って、言ったんです……。僕に邪魔って言ったんです。
僕ね、ずっといじめられていたんです。小学校でも中学校でも。何故かわからないけどずっと「邪魔」と言われ続けて……やっと地元から離れて、新しい場所で頑張ろうって、嫌われないように、邪魔にならないように頑張ろうって思ったのにっ。僕には無理でした……。
刑事さんは人に「邪魔」って言われたらどう思いますか?僕はね、僕の存在全てを否定された気分になるんです。ここにいてはいかな気がして……じゃあ僕はどこに行けば良いんですか?皆の邪魔にならないようにと遠い場所に来たのに、また邪魔者扱い。僕は……どこに行けば良いの。
ごめんなさい、刑事さんにとってはこんな事どうでも良い事ですよね。すみません。
それで……どこまで話しましたっけ……そうそう、「邪魔」って言われて、それで、それで……身体が熱くなって、視界が狭くなって……気が付いたら、通路に置いてたレンガで彼女を殴っていました。その時は、もう、自分が何をしているのか、分らなかった。ただただ、殴り続けていました。鈍い振動が両腕に走り、手放したくなる痺れに耐えながら何度も、何度もレンガを彼女に叩き続けました。心臓が痛くて、それと同時にふわふわとした開放感が沸き上がってきて、自分から何かが剥がれていくような……そんな感覚でした。
途中から視界がぼやけて、彼女の顔も見えなくなって……もしかしたら泣いてたかもしれません。彼女じゃなくて僕が。泣きたいのは彼女の方なのにね。でも、彼女も良くないですよ。人に向かって「邪魔」なんて言うから。
……殴った後の記憶もそんなにありません。部屋に戻って大学の課題をした事は本当です。不思議と、いつもより早く課題を終わらせることが出来ました。課題が終わってからは……友達の事を考えていました。明日から無視されたらどうしようって……。本当に嫌な夜でした。逃げ出したかった。……でも、大学に行ったら、友達は普通に接してくれました。一緒に講義を受けて昼食も食べて、一緒に帰って……本当に良い友達です。彼には、嫌われたくないな。
ところで、貴女はいつまで僕の前に立っているんですか?
……邪魔ですよ。」




