序章
その日はまるでバケツに入った水をひっくり返したようなひどい雨だった。
スコールとも呼ばれるそれは亜熱帯地域特有の現象のその中でひとり、地面に腹ばいになって伏せている者がいた。
彼が頭に被っている帽子、着ている衣服、履いているブーツ、手に嵌めているグローブ、その他の身に着けている全ての物が雨に打たれ、ぐっしょり濡れている。それらが体になんとも言えない不快感を与え続けている。それに加えて高い湿度も相まってその体で感じる不快感は計り知れない。
そしてそれらは“現実でない架空の世界”の中であっても同じだった。
「チクショウ。分かっていたとはいえ流石にコレはキツイな……」
彼は誰に言うわけでもなく文句を言っていた。その呟いた言葉は全て雨音にかき消され、もし近くで誰かが聞いていたら絶対聞き返してきていたことだろう。
それほどまでにこの日の雨は強かった。
『聞こえてるぞ。それはこの雨のことか? それとも今すぐそこまで迫ってきている敵のことか?』
だがそれでも話し相手は居た。その相手の声は頭に着けていたヘッドセットから聞こえてくる。
「どっちもだ。スコールに紛れて逃げられるかと思ったら案外まだ食い付いてくるし、このスコールも予想以上に降ってきやがる。ここまでリアルに再現しなくともいいだろうがよぉ」
『まあそう文句を言いなさんな。極限までのリアルさが“コレ”の売りだろ? それに今のこの状況、アンタも楽しんでいる筈だ。違うか?』
「まったくもってその通りだ。さて、元のクエストは既に完了しているし逃げ隠れするのにもそろそろ飽きてきたな。ここらで追いかけてきている奴さん方にご退場いただくか。それにいつまでも濡れた地面に伏せているのも気持ちがいいものじゃないしな」
話の内容から察するにこの話している二人はクエストの最中に予期せぬ敵と遭遇し、無駄な戦闘を避けるためにスコールが降りしきる密林の中に身を潜め、敵をやり過ごそうとしていた。
だがそれでも敵を追撃を止めず、その魔の手はすぐそこにまで迫ってきている気配すら感じられる。だが向こうの気配は感じられてもその姿はスコールと生い茂る密林の木々によって確認するのは容易ではない。
『やるならばいつでもカバーできる。どうする? 仕掛けるか?』
「あぁやってやろうぜ。敵に位置は分かるか?」
『さっきからずっと補足している。射撃指示を請う』
「サプレッサーは付いているな?」
『当たり前だろう? 俺たちの標準装備をわざわざ外す必要がどこにある?』
「上出来だ。初弾はお前が撃て、タイムカードを押すんだ。その後は俺のバックアップ、背中を預けたぞ?」
『ラジャー。状況を開始する』
その日俺は、俺たちは“この世界”で初めて人を撃った。それは銃声さえも掻き消してしまいそうな雨音がひどく響くスコールの降る日のことだった。