彼らの処遇②
市庁舎として機能していた頃の名残りはあった。机や印刷機、書類の詰まった引き出しに本棚、投げ出された筆箱。筆箱はところどころ墨で汚れているし、書類には署名もあるが、これらは使われなくなって久しいのか埃をかぶっていた。机や椅子は現役である。ただし机は傷病者を寝かせる寝台として。市庁舎の中は広場以上に人でごったがえしていた。報セはしゃがみこんでいる老人や、甲高い声で話している女を押しのけるようにして、リンの後に続いた。
ある親子に目が止まった。
若い母親とその子どもらしき少年。少年の年はおそらく八歳前後。少年は母親の気を引こうと一生懸命だが、母親は別のものに気を取られている。記憶の扉が開きかけて、報セは顔を顰めた。
実は彼は帝国の多数派、翼をはじめとする緋の民の出身ではない。定住をせず村々を渡り歩いく人々、彼らの言葉で『あゆむわたり』の出身である。戸籍の導入など定住を前提とした統治から取り残され、彼らは数を減らしている。
そんななか報セ山藤の母親は、若くして彼を産んだ。産後の体調不良を乗り越えるとともに息子への関心を失い、たった一人の息子が彼女の元を離れる時も、涙一滴流さない母親だった。記憶の中の母は痩せていて、長く豊かな髪を背中に垂らし、いつも夢見るような瞳をして、ぼろぼろの服を着ているにも関わらず一輪の花のように嫋やかな女だった。
そして彼女は霊能者だった。機嫌が良い時は幼い報セに語って聞かせた。山や野に住む小さな神々のことを。そのお陰で報セはシイ神さまを目にしても、さほど驚かなかった。自分には見えずとも、そんな者もいるだろう、ぐらいには思っていたのである。ハッキリと認識することはなかったが。
シイ神さまの姿を目にした時、報セはその背後に母の存在を感じた。同時に朧げながらも、母がこの世を去ったことを悟った。若い頃は母をずいぶんと恨んだが、その死を悟った時から恨みの他の感情も思い出してきた。死に目に会えなかったことに、鈍い痛みさえ覚えた。
一度だけという条件で、シイ神さまは報セを死の危機から救ってくれた。母の冷たい仕打ちを忘れたわけではないが、それとは別に感謝するべきであろう。母は死を悟ったと同時に突然、一人息子が愛しくなったのだろうか。それとも記憶にある態度とは裏腹に、それなりの愛情を抱いていたのだろうか。
これまで、明日をも知れぬ我が身よとかなり荒んだ生活をしてきたが、思いがけず助けられてしまった。ならばそれは、生き方を見直せという天啓かもしれない。いやいや……
「山藤! 」
記憶の中の母と同じ呼び方で呼ばれ、報セはとめどない追憶を中断した。
「あの、大丈夫?また腰が痛む? 」
突然立ち止まったので、体調不良を疑われたらしい。リンは心配そうな顔をしている。記憶の中の母とはまるで違う顔。もちろんリンを貶めているわけではない。ただ母はもっと丸顔だった。
「いや、大丈夫だよ。ちょっと考え事をしてたんだ」
「そう? 」
リンはまだ疑わしげな顔をしている。
「そうだよ。大の大人を疑わなくても」
リンは意味ありげな微笑みを浮かべた。
「そうかしら? 」
「何が言いたいんだい? 」
リンは肩をすくめた。リンはいわゆる美人とは異なるが、穏やかな表情は魅力的だ。
「報セさんは無茶するから気をつけなきゃって、翼が」
「そんなぁ。ずいぶん翼と仲良くなったものだね。愚痴まで聞いてるなんて」
口にしてから嫌味な言い方になったことを後悔したが、リンは気にしていないようで、ただ首を横に振った。
「愚痴じゃないと思うわ。だって初対面の時だもの。それ聞いたの。自分の置かれた状況を、詳しく説明してくれたの」
「はあ」
翼はなんというか、かなりちょろいのではあるまいか。初対面の人間になんでもかんでも話しすぎである。
「素直な子よね。都会の子はああいう子が多いのかしら」
「都会に?それはどうだろうな」
報セは頭の中で翼を思い浮かべた。
見た目は、主に身長のせいで、実年齢の十三歳より大人に見えたが、関わってみれば年相応の子どもだった。もちろん、良い意味で。周りの大人はある程度の教養と、人に優しくするだけの富を持ち合わせているのであろう。
「帝国の中でも一部じゃないかな。ああいう子は」
菱の島の内戦が長らく解決していないことからも伺えるように、氷上帝国はあまり裕福な国ではない。菱の島の心石を目掛けて諸外国から企業が参入したが、それも昔の話。現在の氷上帝国は世界でも治安の悪い国として有名である。
「あら、そう。貴方は?子どもの頃は素直だったんじゃない? 」
「まさか‼︎ 」
自分でも驚くほどの語気で否定してしまった。しかし自他ともに認める事実である。
「ある意味で素直ではあったけどね。もっと捻くれてたし、独善的で凶暴だったよ」
「凶暴って」
リンは声をあげて笑ったけれど、報セ自身は妥当な評価だと思っている。今よりずっと暴力にも犯罪にも躊躇いのない、貧乏な少年だった。
リンは本島にさえ住めば、この菱の島よりは裕福になれると思っているのかもしれない。たしかにそのような一面はあるが、そうとも限らない。少なくとも報セがまだ幼かった二十年ほど前はそうだった。報セは頭を掻いた。そうか。二十年ひいても十二歳なのか、僕は。
報セが感傷的になっているその時、一人の若い男が二人に近づいてきた。顰められた黒い眉、黒目の小さな目、菱の島に多い堀の深い顔立ち。エラが張っていて実際よりも大きく見える顔が、小柄な身体にくっついている。いかにも神経質な性格をしていそうだ。報セには一人、思い当たる人物がいた。この青の民連盟軍の参謀、確か名前は……
「浜ノ玉髄だ。話がある」
男は瞳をギョロリと動かして、報セを見つめた。