鹿毛馬市の長い一日⑩
カジカの話を聞きながら、翼は自身の日常について考えを巡らせていた。カジカの兄自慢に引きずられて、兄に関する思い出ばかり蘇ってくる。お島のことなど、いつもは考えもしなかったのに。その時
「カジカ! 」
と鋭い声がした。青の民連盟軍首領、センジョである。センジョは翼を警戒しており、張り詰めた空気が二人の間に流れた。
「センジョ兄さん! 」
とカジカが答えた。
「兄さん? 」
思わず翼は聞き返した。もしやとは思ったが、同じ霊能者とはいえ、血の繋がりがあるとは。センジョという名前も翼には初耳だ。そういえば報セが沼ノ少尉と呼んでいたが、その呼び名は嫌っているようだった。
センジョは足音も荒く近寄ると、カジカの手を引いて大股で歩き去った。翼は不満だった。センジョが翼を警戒するのは理解できるが、ろくに構いもしないのにカジカに対して態度が乱暴なことが理不尽に見えたのである。翼はいたくカジカに同情していた。受験以降、急に態度を変えた兄の姿をセンジョに重ねていたのかもしれない。カジカよりはるかに恵まれた境遇ではあるが、兄が弟妹に持つ影響力を翼は身に染みて感じていた。
翼はセンジョの後を追った。
センジョはカジカの腕を引いて、すぐ近くにいたリンに会いに行った。カジカはすぐさまセンジョの手を振り解いて、リンにもたれかかっている。翼はセンジョとリンから少し離れて腰を下ろした。センジョとリンは何か話しかけていたが、センジョが口を閉じ、会話が途切れた。
「気にしないでいいですよ」
と言ってみたものの、意図的に邪魔した節もある。センジョはしかめっ面を隠そうともせずに、自身も腰を下ろしてからリンに座るように言った。
「勝手に妙な者に預けられては困る。君には恥というものがないのかね」
「……ごめんなさい。知り合いだったものだから」
「知り合い?なお悪い。どっから帝国人が湧いたのか怪しんでいたが、やはり君か。殺されても文句は言えないぞ」
センジョの言い分ももっともだが、リンが気の毒で翼は口を挟んだ。
「恐れながら」
刀は鞘ごと地面に置いてある。
「カジカを連れ出したのは自分です。それから報セさん、あの写真家は弱っていたので、自分が保護を求めて数日家に置いてもらいました。リンに非はありません」
センジョは鼻で笑った。
「それは俺が決めることだ。しかし霊まで手懐けるとは流石だなリンドウ。カジカを取り上げたのは君で、かつこの辺りで唯一の産婆となれば、流石の俺でも殺したりはしない。カジカは君に懐いている。このようなことは二度としないと誓ってくれたまえ。カジカのことは明日もリンに任せる。いいなカジカ? 」
カジカは無言で頷いたが、翼はその言葉に怒りを覚えた。立場上カジカと一緒にいられないのはわかる。でもそんなに大事な妹なら、なぜ赤の他人に任せるのだ。リンが乳母か使用人ならばまだわかるが、取り上げただけの知り合いで、おそらく金を払っているわけでもない。
「貴方が一緒にいればいいでしょう。お兄さんなんだから」
思わず口を零した。
「お前に言われる筋合いはない。俺はこの市庁舎を守る義務がある」
「でもさあ……」
昼間の無理に笑った顔を思い出して、胸がざらついた。家族に、あんな顔させちゃいけない。センジョの眉間の皺が深くなったことには気がついていた。
「家に帰りたいって言ってました。カジカは悲しんでる、だから」
正義感というものは厄介だ。正義感は他のあらゆる感情を押しつぶし、囁く。敵を倒せ、奴が悪い。正義感を振りかざす人間は本質的に冷静ではなく、むしろ原始的で残忍な感情に従って行動している。家族を蔑ろにする者を許すな、という正義感は、他人の立場に立って考える、という当たり前の行動を抑制した。
「だったらなんだ! 」
センジョが声を荒げた。しまった、と思った時はもう遅い。センジョの堪忍袋の緒が切れてしまった。