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荒波にもがけ、少年  作者: 刻露清秀
黒キ翼の冒険譚〜出会いと別れと一夏の恋〜
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鹿毛馬市の長い一日⑨

 当たり前だった翼の日常。絵本は望めば買い与えられたし、使用人がいるので皿を運んだことはなかった。菱の島に来てから、いかに恵まれた生活だったのか、身に染みてわかった。裕福な家庭に育ち、大きな都市で育った翼にとって、ここ数日で目の当たりにした菱の島の貧しさは、衝撃的であった。カジカはおそらく恵まれた側の人間であるということも含めて。


 帝国内の他の地域にも貧しい人々は存在する。事実、翼は市立の中学校に通っているため、少数ながら貧しい家庭の生徒を見かけることもあった。しかしながら、いくら貧しいとはいえ弁当にはおかずが入っていたし、少なくとも何日も雑穀だらけの芋粥をすすっていることはなかった。


 兄の受験のことも、道場でこっぴどく怒られて兄弟子に殴られたことも、母親がしつこく弁当に入れてくる臭い漬物のことも、翼にとっては嫌なことだったけれど、受験も道場も弁当も無縁な人々にとっては鼻で笑い飛ばす代物だ。それが翼の日常だ。


 何年前のことだったか、正確な日付は覚えていないが、五年ほど前のことだったと記憶している。鷹目が大切にしていた本に、そうとは知らず茶をこぼして殴られたことがあった。当時は兄に腕力で敵わなかった翼が母親に言いつけたので、兄は正座をさせられ説教が始まった。


「鷹目さん、いいですか。鷹目さんには嫡男として……」


とお決まりの文句で始まった説教は、要は幼い弟の粗相くらい多めにみなさい、殴ってはいけません、とそれだけのことだったのだが二時間の長きにわたり、足が痺れた鷹目に再び殴られるという悲劇が起きた。


 同じぐらいの年に、翼が鷹目を『兄貴』と呼んでいるところを、使用人の一人に見つかったことがある。小さな出来事だったが何故覚えているのかといえば、その使用人、お島という若い女がその数日後に辞めてしまったからである。もちろんその出来事とは関係ない。なんのことはない、


「坊ちゃん、『兄貴』なんてくだけた言葉を使ったら、母上様にお説教されますよ。若様のことは『兄上』とお呼びなさい」


と軽く注意されただけのことだ。使用人たちは鷹目は若様、翼は坊ちゃんまたは坊ちゃまと呼び分けていた。坊ちゃんと呼んだということは、お島自身は割とくだけた言葉遣いだったのかもしれない。お島の言葉を気にしていたわけでもないが、翼は面と向かって『兄貴』と呼ぶことはしなくなった。家族にも使用人にもあまり喜ばれないことに気がついたのである。もちろん他人に兄について話す時に『兄上』などと敬称をつけたりはしない。身内だからである。


 鷹目は実際の所『兄貴』より『兄上』が似合う少年だった。成績が良く、小学校の卒業式では答辞を読み、生徒会長を務めた。面倒見がよく、大人の言うことをよく聞くので教師の覚えもめでたく、おまけに武術もできるとなれば、面白味のない優等生に聞こえるかもしれない。だが翼と一緒になってバカなこともやったし、道場の仲間とも仲が良く先輩にも可愛がられていた。道場では長らく一番年下だった翼がいじめられないように気を使ってくれた。要するに、文句のつけ所のない『兄上』だったのである。世間の高い評価は、翼から見ても妥当なものだった。


 そういえばお島が勤めを終える日、鷹目が学校から帰っておらず、何故そうなったのか詳しくは覚えていないが、翼が一人で駅までついて行った。駅までそう距離はないのだが、あまり二人で話すことがなかったから気づまりで、最近お島と話したことを話題にした。


「俺ね、兄貴って言うのやめたよ」


「何故? 」


お島がやめろと言っていたのに、と疑問をぶつけられたことに戸惑っていると、お島はフンと鼻を鳴らした。


「母上様が怖いですか」


「いや。兄上は『兄上』って感じだろ」


お島は頷いた。


「ええ。母上様ご自慢の若様ですからね」


こんなに露骨ではなかったかもしれないが、お島は翼の母親に対する皮肉めいたことを口にした。翼は幼いながらに、お島がすぐに辞めたのは母上とうまくいかなかったからなんだな、と感じていた。


「坊ちゃん、貴方は大変だ」


別れ際にお島が言った。当時の翼はその言葉をそう深くは考えなかった。

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