冒険の始まり①
「で、目が覚めたらここにいた、とそういう訳か 」
修行僧は言った。修行僧、というのは翼が心の中でつけたあだ名である。その男は髭が伸び、髪はぼうぼうで、服は何日も着替えていないようだ。おまけに暗くて湿っぽくて狭い部屋に一人でいる。囁くような小声で話すのも、それらしく見える原因だろう。猫背のなで肩で痩身、年はおそらく四十そこそこ。風貌に反して物腰は柔らかく垂れ目も相まって、翼は優しそうな人だと思った。修行僧は視線を自らの肩に向けた。
「それでシイ神さまの言い分は? 」
「シイ神さま? 誰ですか? 」
そう尋ねた途端に、修行僧の肩に乗っていた小さな人形が喚いた。
「家を壊しておいて誰だとはなんなのだ‼︎我は山の神の一柱ぞ‼︎この無礼者‼︎ 」
「しっ!声を抑えて。貴方様の言い分をお聞かせください」
修行僧が宥めてくれた。人形、いや人の手の平にすっぽり収まるほど小さな人間は、甲高い声で顔を真っ赤にして喋っている。萌黄色のゆったりした服を着ていて、髪を二つ結びにしている。男か女かはわからない。本当に神ならば性別を超えた存在というのが正解だろう。丸顔で童子のようだが、言葉遣いは尊大だ。
「ふん!我はこれなる報セ山藤の母親の願いを聞き届け、助けてやろうと転移術を使っていたらこの糞餓鬼に家を壊され、しかも勝手についてこられて迷惑しているのだ! 」
「く、糞餓鬼ぃ⁈ 」
いきなりなんなんだこのチビは。翼が軽く怒りを覚えたところ、また修行僧もとい報セ山藤が宥めてくれた。
「まあまあ。さっきは関係ない人を巻き込んだって慌ててたじゃないですか」
「そ、それは神としての自尊心に関わるからなのだ。それに山藤に迷惑かけたら悪い」
打って変わってしおらしい。が、翼を睨むと
「だからけしてお前のためなんかじゃないのだ! 」
と喚いた。
「落ち着いて。大声出さないでください」
「そうですよシイさん。さっきからうるさいですよ」
報セに翼が便乗すると、
「シイ神さまで一区切りなのだ!変な区切り方するな! 」
と叱ったものの、流石に騒ぎすぎたと思い直したのか、小さな声で話し出した。
「つまり我がこの地に来たとき、その呪いを邪魔したお前の魂を道連れにしてしまったのだ。お前は今生きながらにして肉体を離れ、魂と人格に我が霊的な肉付けをした存在、つまり生き霊なのだ」
しばしの沈黙。
「困るんですけど」
「だから我もわざと巻き込んだわけではないのだ」
またもしばしの沈黙。
「俺、いや自分は生き霊なんですか? 」
翼が一人称を変えたのは、目上の人と話す時は敬語を使うべし、という家庭教育によるものである。軍人一家であるが故に、翼が使う敬語には軍人言葉の影響がある。まるきり軍人言葉というわけではないが、周りの大人たちの反応を見ながら目下や同等と話す時は俺、目上と話す時は自分という一人称を使うようになった。意識的というよりも慣習的な問題である。
黙っていた報セが口を挟んだ。
「君を見れば、人間じゃないことはわかるよ」
「何でですか? 」
「何でって……、自分の体を見てごらん」
言われた通り、翼は自分の手を見てみた。半透明になっている。手だけではない。翼の着物越しに壁が見える。
「透けてる……」
「全身そうだよ。あと君、地面から浮いてるし」
確かに、足が地面についている感覚がない。他の感覚もどことなく薄い気がする。見えているし、聞こえているし、この部屋の饐えた嫌な臭いもわかるけれど、全てが薄い膜で覆われているように、遠く感じた。
翼は壁に手をついた。触ることはできる。そのままぐいっと押すと、ずぶりと手が沈み込んだ。
「すっげぇ…… 」
翼は静かに感動した。全ての人間が詰め込まれている肉体という容器から、翼だけは解放されている。翼はただこの非日常に、浸っていた。
「君は家に帰らなくていいのかい? 」
遠慮がちに修行僧に声をかけられて、翼は我に返った。感動している場合ではない。
「帰りたいです! 夏休みが終わるまでには。まだ学校の宿題終わってないんですよ」
氷上帝国の学校は四、四、四、四のほぼ単線型の学校制度を採用している。つまり七歳になる年から四年間は小学校、十一歳になる年から中学校、十五歳になる年からは士官学校も含む高等学校、十九歳になる年から学士となるため大学で勉強する。年度初めは一月である。
中学校に入るには、家が豊かでなければならず、高等学校に上がるのも極一部。大学に上がるのは、家柄も頭も良い雲上人だけだった。翼は一月生まれで今十三歳、中学三年生である。来年は受験生だ。士官学校を受ける予定でいる。
「何が宿題だ。そんな簡単に帰れるわけないのだ」
シイ神さまは不貞腐れている。
「そう意地悪言わずに帰してあげてくださいよ。故意に邪魔したわけじゃないんですから」
「しかし……こいつを帰すとなると我も一緒に帰らねばならぬ。そこからまた戻ってくるのはかなり骨が折れる」
「あの」
翼は口を挟んだ。
「シイ神さまは報セさんの願い事を叶えるためにこの場所に来たんですよね。報セさんの願い事を叶えて帰るときに、自分も連れて帰ってくださいよ。もちろん手伝いますよ! 」
信じられない、という目で見られた。報セが先に口をきいた。
「君、僕がどこに閉じ込められているか知らないだろ」
「閉じ込められてる! なるほど、修行ではなかったんですね 」
修行、という翼の言葉に、修行僧報セはかすかな笑みを浮かべた。
「そうなんだよ。残念ながら」
「悪いことして捕まったんですか? 」
「違うよ。刑務所だったら、もっとましな待遇だったろうな 」
確かに、刑務所にしてはここは汚すぎる。先程、翼が触った壁は土でできていた。ということは、ここは土牢なのか。土牢は地面に囚人が出られない高さに穴を掘り、上に格子をつけた牢屋である。氷上帝国ではかなり昔に法律で禁止されている代物だ。上を見上げてみると、人一人の身長より高いところに格子があった。
「それじゃあ、何故こんなところにいるのですか」
返事はなかった。答えるのをためらっているようだ。
「ここはどこですか? 」
またも返事はなかった。
「なんで黙ってるんですか? 信用できないとでも? 」
「しっ! 静かにしてくれ。そうではないよ。だが君には無理だ」
この人は俺を侮っている。裕福な家庭に育った子どもの常として、翼は子ども扱いされるのが大嫌いだった。
「自分が子どもだからですか? 」
「だから声を抑えて。君だから、というより、無理難題だ。君は神さまじゃないだ「おい! お前うるさいぞ! 」
その時怒鳴り声がして、土牢の蓋を開けて、若い男が顔を覗かせた。
「まずい…… 」
報セは翼とシイ神さまを隠そうとしたが、遅かった。翼が驚いている間に
「何だ、そのガキ?と人形? 」
男は翼達をつまみだそうと、梯子を降ろして土牢に降りてきた。酒に酔っているようで、翼が半透明なことにも気づいていない。翼は応戦すべく、男に摑みかかろうとした。すると翼の手が触れた瞬間、急に眠りに落ちたように、男は倒れた。翼の中で驚くべき事柄が渋滞を起こした。けれど現実は翼の驚きを待ってはくれず、
「どうした? 」
ともう一人、男が顔を覗かせた。
「うわぁ! 」
と不恰好な掛け声とともに、今度は翼が梯子を駆け上り、殴りかかった。男はまたも悲鳴もあげずに倒れた。息はしているので、気を失っただけのようだ。
土牢に戻って翼は言った。
「何がどうなっているのかわかりませんが、見張りは倒してしまったようです。このまま逃げますか? 」
報セはしばらく呆気にとられていたが、
「いや。見張りの他に、近くに根城があるから下手に動くのはまずい。中に戻っておいで。作戦を立てよう」
と答えた。土牢の中で倒れた男を外に運び出して、梯子を畳んで隠すと、報セは簡単に身の上話を始めた。