冒険前夜
朝靄の中、この物語の主人公、黒キ翼少年は刀を振るう。頭頂部で一つに束ねた癖っ毛が揺れる。新氷上帝国暦三十一年八月現在、十三歳である。
背丈は大人に近づきつつあったが、それに似合わず頰が丸く顔の肉付きは幼い。ひょろりとして見えるのは、体格が子どものまま背丈ばかりが伸びているからで、小麦色の肌の健康優良児である。整えていない太い眉毛と、あほ毛の放置された黒いボサボサの癖っ毛から洒落っ気とは無縁だとわかる。特に美形でもなんでもないが、なんとなく人懐っこい印象を与える子どもだった。
着ているものは通っている道場の練習着である。背中に牡丹色の紋が入った濃紺の練習着に、紺色の先が広がった袴だ。華美ではなくむしろ質素で着古されているが、良い仕立てだ。成長に衣服の新調が追いついておらず、手首や足首が袖からはみ出て七分袖、七部丈になっていて、肩の位置もあっていない。実のところ兄のお下がりなのだ。
張り切って練習していることからもわかるように、翼は刀術が好きだ。というよりも、戦って勝つのが好きで、負けるのは大嫌いだ。つまりかなりの負けず嫌いだ。刀術を習い始めたのも、初めは二歳年上の兄の真似がしたかったからだ。でも負けると泣くほど悔しくて、負けたくない負けたくないと鍛錬を積んだら、いつの間にか兄より強くなってしまった。体格に恵まれたこともあり、後から始めた拳闘も地元では負けなしで、昨年の総合武術大会では、中学生の部で優勝もしている。
翼は軍人の家に生まれた。この氷上帝国の出世する軍人のほとんどは、名の知れた家の出である。心石という特殊な石の技術で世界はそれまでとは大きく変わったが、彼らは子息を昔ながらの武人のように育てたがる。武術を習わせる家庭は非常に多い。
例にもれず翼の家、黒キ家もこの国を実質的に統治する、大将軍さまこと将軍の家来衆として、この国を牛耳っていた。本家筋ではないので父親は一将校だが、氷上帝国は基本的に男性が家を相続し、女性は嫁に出る慣習であるにも関わらず、わざわざ婿をとって家を存続させる程度には名家である。
そんな名家のお坊っちゃんである翼が、薮ぼうぼうの山の中で、刀を振らねばならないのは、直接的には兄の鷹目のせいである。
鷹目は黒キ家の嫡男である。別の家に一度嫁に出た翼の母親が、離婚して実家に戻り翼の父親を婿に迎えたのは、黒キ家の次期当主を産むために他ならない。そういう経緯もあって、次期当主として英才教育を受けた鷹目は、当然のように将校になることを期待されていた。本人もその気で並々ならぬ努力を積み重ねてきた。それなのに士官学校の試験を受けることができなかったのである。理由は視力検査に引っかかったからだ。
それまで教育に口を挟まなかった父親が、お前の夜型の生活習慣のせいではないかと鷹目を責めた。生活習慣が夜型になったのは、夜遅くまで勉強をしていたからである。当然、鷹目は父を恨めしく思うようになった。勉強ばかりしていて今まで反抗らしい反抗をしていなかった反動で、最近は顔を合わせれば罵り合いが始まる。
そして運命の日は、翼の総合武術大会の決勝戦の日でもあったのだ。母は翼は武術大会に行き、父と用事があった兄は家にいた。優勝に心を弾ませた母子が家に帰ると、家の中は修羅場と化していたわけである。
負けず嫌いの翼にとって、優勝できたことは本当に嬉しかった。嬉しかったけれど、優勝してしまったが故に
「翼だってできたのに」
「翼は努力していたから報われた」
「それに引き換え鷹目、お前という奴は」
と兄を追い詰める原因になってしまった。
この上なく良好だった兄弟仲も、これを機に悪化の一途を辿った。家の空気はどんよりと沈み、翼は家に居づらくなった。将校にはなれなくても、頭は良いんだからいいじゃないか。翼はそう思っているのだが、鷹目はそうは思わない。鷹目は真面目なのだ。真面目で責任感が強い。俺は駄目な奴なんだ、期待を裏切った、と必要以上にうじうじして、挙句
「お前は武芸ができるからいいよなぁ。お前が長男に生まれなかったことがこの家の不幸だよ。なあ? 」
などと翼に八つ当たりする。そんな鷹目の前で刀術の稽古などしようものなら
「翼は未来があっていいなあ。父上は今はお前に期待しているぞ。今は。裏切らないようにせいぜい頑張れよ。父上にかかれば、失敗は全て努力不足だからな」
などと、ぐちぐち言うに決まってる。そんな理由で、翼はわざわざ近くの山の中で模擬刀を振って稽古をしていた。
周りに誰もいないから、気合をあげて練習していた翼は、喉が渇いたことに気がついた。また水筒を忘れてきたことにも。仕方がない、今日の稽古はこの辺にしよう、集中できてないし、と思って山道を下っていると、手頃な石があったので、それを蹴りながら進むことにした。コロコロと石を転がしていると、つい楽しくなって、強く蹴りすぎてしまった。石は放物線を描いて、草むらに落ちた。石はそこら中に落ちているし、執着があったわけでもないのだが、そのまま放るのも惜しいので、草をかき分けて石を探すと、果たして石はそこにあった。
近くにはうすぼんやり光る小さな家があった。よくできた人形の家だろうか。ただでさえ木が腐り、苔が生えた汚い家なのに、屋根がひしゃげていた。翼の蹴っていた石が当たったのだろうか。誰の落し物だか知らないが、壊してしまったのは申し訳ないと思い、翼は家を持ち上げて、家の窓から中を覗いた。構造がわかれば、直せるかもしれない。
家はまるで本物のように梁と柱があって、床には小さな人がいて、怒った顔でこちらを見ていた。……人? そう思う間も無く、翼の意識は闇の中に落ちていった。
翼は後に、この時を振り返って妙な気持ちになる。この時、小石を蹴っていなければ、これから始まる一連の出来事に巻き込まれることはなかったのだ。巻き込まれることがなければ、彼女に出会うことは生涯なかっただろう。
彼女の存在を知ることがなければ、彼女の死に、これほど心を痛めることもなかったのだ。運命とは皮肉なものだ。