最終話 ポールの死
息も絶え絶えに無我夢中で走った。頭の中は真っ白だった。吐き出した空気を取り戻さねばならなかった。しかし、どこまで走っても新鮮な空気をとりこむことはできなかった。吸っても吸っても、さきほど吐き出した息が再び肺の中に蘇ってくるのだった。
たどり着いたのはあの河川敷である。あの日の情景が蘇る。あの時もうすでにぼくは彼女のお皿を渇いた空気にさらしていたのである。
彼女は甘い台詞なんかこれっぽっちも聞きたくなかったに違いない。彼女が受け入れることができたのは自分の好きなきゅうりの話である。
あの時きゅうりはどこにも属していなかった。
告白という状況、陶酔しているぼく、穏やかなふりをしている世界、美しい彼女。
美しさは醜さと隣り合わせであり、醜い彼女は影に隠れてもうそこにいたに違いない。きゅうりが相反するふたつを繋いでくれたのだ。
そして、そんなきゅうりをすきと答えたぼくは、気付かないうちに証人としての役割を与えられていたのだ。証人のぼくは、醜さが現れた瞬間、秩序に従って逃げた。
相対するふたつはいつだって同時に存在することなどできない。ぎりぎりのところで、背中合わせで押し合っている。その境界線を超えてしまった時、もうそこにはなにもない。そんなわかりきったことを証明しただけのことだ。
突然、冷たいぬるっとしたものが足首に触れた。そしてそれがなにかを確かめる間もなくぼくの体は強い力によって河川敷の砂利の上を一気に引きずられ、抵抗する暇もなく川の冷たい水の中へと引きずり込まれた。ちくしょう、やられた。ぼくは冷静だった。
ぼくの体と川の水は反発の音をあげ、激しいしぶきをたてた。
目にうつるものは水が生み出す青とも緑ともつかぬゆらめきの世界だけである。ゆっくりと落ちていく。底は見えない。
どこまでも、ぼくは空っぽになりながら落下する。地上で抱いていたもろもろの想念はどんどん溶け出して消えていく。音もなく、風もなく、静けさもない。ぼくは自分が無へと近づいていくことを知っていた。なんの感情も抱かなかった。
その時、彼女の姿が、ぼくの意識の中に朧げに浮かび上がった。
彼女は完全に河童のかたちをしていた。
曖昧な世界で、ぼくは彼女を美しいとも思わなかったが、醜いとも思わなかった。
こちらをじっと見つめている。その表情からはなんの感情も読み取れなかった。彼女は急にくるりと背を向けると、泳ぎだした。華麗な平泳ぎ。ぼくは彼女がどこへ向かおうとしているのかわかった。
ーお皿が渇いたから、海へいくんだな。ぼくのいった通りに。
ふと、こどもの頃に読んだ絵本の一節を思い出した。
「カッパのポールは川じゃないから死んでしまいました。」
ぼくは幼いながらポールの死に心を痛めたものだ。要するに生き物にはそれぞれ生きていくのにふさわしい場所があるということがいいたかったんだと思う。
川じゃないから死んでしまいました。死んでしまいました。
ぼくはその時意思を取り戻した。そして、叫んだ。
「海はまずいよ、塩水で溶けるよ」
ごぼごぼごぼ。泡が溢れる。急に息が苦しくなる。ぼくはもがいた。もがけばもがくほど、苦しくなる。いやだ、死にたくない。
あぁ、海へ行く必要なんて、なかったよね、ここ川だから。ぼくが渇かしたお皿、もう潤ったね。薄れゆく意識の中、ぼくの体にのびてくる河童の手を見た。その手についた水かきを、ぼくは心底美しいと思った。
気付いたら河川敷に横たわっていた。
見たことのない女が、ぼくの顔を心配そうに覗き込んでいる。目の覚めるように整った顔、ツヤのある黒髪、心地良い洗濯石鹸の香り。ぼくの意識が戻ったことに気付くと、女はそっとその手を差し出した。白くきれいな手。
しかしそこには、なにもなかった。醜さも、そして美しさも。
「きゅうりは好き?」ぼくは寝そべったまま尋ねた。顔をしかめて怪訝そうにする彼女。
あぁ、今無性にきゅうりが食べたい。川の水で冷やした、新鮮なきゅうりが。
彼女はぼくにきゅうりを食べさせるために、現れたのかもしれない、ふとそんな気がした。だからぼくは残りの人生、きゅうりをたくさん食べなければいけないのかもしれない。そう強く思った。
そんなわけで、ぼくは毎日きゅうりを食べる。きゅうりに含まれる豊富なカロテンやミネラルを摂取するためでもない。有り余るきゅうりの処分におわれているわけでもない。ただ、もう毎日きゅうりを食べる。おわかり頂けたでしょうか。