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きゅうり  作者: ねずみ
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5、きゅうり、再び


 きゅうり、お皿、みどりいろ、吠える犬、くちばし。きゅうり、お皿、くちばし…


 頭の中で、それらのイメージ映像がぐるぐる回る。


 くちばし、お皿、醜い笑顔…


 ぼくはもう発狂寸前だった、理解できない、どうしてどうして。ついさっきまで脆く儚い輝きを放っていた美しい恋人は、瞬きする暇もなく、醜く恐ろしい妖怪に変貌してしまった。


 一睡もできずに夜は明けた。鏡に映ったぼくの顔は青ざめていた。胃はなんにも受け付けなかった。足下はふらつき、今にも倒れそうだった。しかし頭だけはぎんぎんと冴えていた。


 ぼくは今日、なんとしてでも学校へ行かなければならない。

 

 見えない力に引きずられるようにしてぼくは学校へたどり着いた。いつもとなんら変わらない朝の風景。彼女もそうであることを願った。


 昨日の出来事はなにかが見せた幻覚だ。世界が何らかの磁力でねじ曲がったりしてぼくはたまたまそこに居合わせて幻影を見たとかそういう次元の話だ。彼女は今日も、僕の隣の、そのまた田中くんの隣の席で、ぼんやり宙を見つめて座っているに違いない。違いない違いない…

 

 そしてぼくは教室に足を踏み入れて、願った通りの現実がそこにあることに感謝した。しかしだからといってぼくの心に平穏がもたらされるわけではもちろんなかった。


 彼女はぼくを見つけると、にやりといたずらっぽく微笑み、目の前を飛び回るハエを手で掴んで口に入れた。


 ぼくへのご挨拶か。他の誰でもない、彼女の正体を知ってしまったぼくへの。体がこわばるのを感じた。

 

 授業中、ぼくは必死に田中くんに隠れて過ごした。彼は相変わらず問題集に夢中だ。田中くん、きみにもう問題集をプレゼントすることはないだろうな。なんせぼくは今、ほんとうに吐きそうだ。

 

 休憩時間がくると、彼女はおもむろに席を立ち、教室を出て行った。


 ぼくは再び自分の意思とは別のところにある本能みたいなものに突き動かされて、彼女の後をついていった。

 

 廊下を抜け、階段を降り、玄関を出て、校庭を抜ける。どこへいくんだ。ぼくは気付かれないように一定の距離を保って彼女を追いかけた。

 

 たどり着いたのは校舎の裏。ひとりの男子生徒が待っていた。彼女が近づいていくと、顔を赤くして、きてくれたんだ、と照れたように言った。どうやら美しい彼女はまたこんな風に呼び出されたらしい。ぼくは物陰に身を隠して耳をそばだてた。 

 

 そして彼はとうとうと、いかに自分が彼女のことを想い、恋い焦がれているかを語りだした。そしてもうその熱い想いを抑えることができなくなった旨を、わかりやすく丁寧に解説した。


 完璧な愛のプレゼンテーション。ぼくが数週間前、まさにやろうとしていたことだった。


 しかし彼女の正体を知ってしまった今、ぼくにとって彼は何も知らない滑稽な男でしかなかった。化け物相手に愛を告白している男。美しい姿は仮の姿…そんな彼女は身動きひとつしないで聞いている。こちらから表情まではうかがえなかった。

 


「ほんとにもうきみのことばかり考えてしまって」

 

「それで、」彼女がようやく口を開いた。ぼくは息をのんだ。彼女にとって大切なのはただひとつ。相手の気持ちなんてどうでもいいのだ。彼女がしりたいのは…

 

「きゅうりのことはよく考えますか?」


  丁寧に敬語だが質問はやっぱりそれだった。相手はうろたえる。ぼくは彼の頭の中が手に取るようにわかる。愛の告白にきゅうりがとびこんできたとき、人は少なからず混乱に陥る。

 

「きゅうり?きゅうりのことはその…まぁ、あんまり考えないけれども、でもきみのことはよく考えるよ。」

 

彼は必死に話をもとに戻そうとしている。しかしこんなことでひきさがるはずがない。「考えないんですか?じゃいつ、きゅうりについて考えるんですか?」

 

「え‥まぁ、そりゃ、サラダに入ってたときなんかは」

 

ぼくは激しく彼の意見に共感した。きゅうりのことなんか、人間はそんなに普段の生活で考えたりしない。人間は。

 

 彼女は「そうですか」と冷たく言い放ち踵を返してもときた道を戻っていった。ぼくはわけがわからないといった表情でたちつくす彼が気の毒で仕方なかった。彼の告白は映画のワンシーンのように完璧だったのに。

 

 教室に戻ると、彼女はまるで自分がふられたかのような暗い表情でおとなしく座っていた。なんだこいつ。ぼくのなかで、いつの間にか恐怖は過ぎ去っていた。

 

 そんなわけで、昼休み、お弁当のふたを開けてきゅうりが入っているのを見つけたぼくは、食べる気がどうしても起きなかったので、ごみ箱に乱暴にきゅうりを投げ捨てた。もうしばらく食べたくない。

 

 その時背後に黒い気配を感じた。振り向くと、ぼくを睨みつけて彼女が立っていた。軽蔑したような表情。肌は雪のように真っ白で、昨日の緑色が嘘のようだ。しかしぼくはだまされない。

 

「なんで捨てるの?」その声はどこか寂しげだった。


  ぼくはためらうことなく冷たく吐き捨てた。

 

「近寄るな、ばけもの。」

 

ぼくはその時彼女の整えられた顔が醜く歪むのを見た。


 その顔には、人間のそれではない、必要以上のおぞましさが浮き出ていた。そして不思議なことにぼくはその時、彼女の存在がより鮮明に、リアルにぼくの意識の中に食い込んでくるのを感じたのである。


 彼女は生きている。ここにはっきりとひとつの生命体として力強く君臨している。


 ぼくはそんなこと知らなかった。彼女は今まで、あくまでぼくが認識する世界の一部分であり、ぼくを恍惚へと誘う美しいもの、愛すべきもののひとつでしかなかった。


 それが今、思わず目を覆いたくなるくらいの醜さに変貌することによってその存在を根源的なところから訴えかけてきている。


 つよい、強すぎる。


 頭がくらくらして、倒れそうになる。ぼくは、必死に想像する。


 緑色のきみと歩く。緑色の手をつないで、渇いたお皿にぼくは、いつだって潤いを与えることができる。


 そんな毎日、素敵じゃないか?まさに目が眩むほどの青春の輝き。


 いつの間にか目の前の彼女は完全に妖怪に変貌していた。ぼくは彼女に近づく。生臭い匂いが胃になだれこんでくる。肌の色は、近くでみるとどす黒い緑というよりも、青黄色に近い色をしていた。彼女の鋭い黒々しい瞳がぼくを映す。

 

 ぼくは彼女の顔に精一杯顔を近づけた。そして、頭の上に向かって思いっきり肺に溜まった重い空気をふきかけた。皿の滴が風を受けて飛び散る。

 

ー消えてしまえ、おまえなんか。

 

彼女はみるみるうちに青ざめた。いや、白ざめた。ぼくはそんな彼女を押しのけて教室を飛び出した。


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