4、彼女の変貌
それからというもの、彼女はたまの休み時間にぼくのところへやってきては不可思議な質問を投げかけてくるようになった。
「猿とすれ違ったらどう逃げる?」「ひょうたん好き?」「相撲はやる?」
ぼくはそのたびに思考回路の中をフルに移動し、持っている知識を総動員して難問に立ち向かった。
普段は寡黙な彼女だったが、ぼくが答えるたび表情をパアっと輝かせて喜びを表した。ぼくはその顔を見られるだけで生きる喜びを味わうことができた。あぁ、世界はほんとうに素晴らしい。彼女の不思議な魅力にぼくはすっかり参っていた。
そして、ある日の放課後、彼女がぼくの下駄箱の前で鞄を抱えて立っているのを見つけた時、ぼくの世界はこれでもかというくらいに輝ききらめいた。
目が合うと、彼女は照れくさそうにちょっと微笑んだ。そしてぼくの心の中では花火が一斉に打ち上げられ、パレードが行き交い、祝福のファンファーレが響き渡った。
冬の匂いがかすかに漂う帰り道で、ふたり並んで歩いた。
彼女はなんにも言わなかったがぼくもまたなんにも言わなかった。ひたすら彼女が隣にいることに生命の神秘を感じ感動していた。
目にうつるものすべてが美しく見える。河川敷で美しい世界は儚く消えていったが、今はあり得るはずのない永遠すら感じることができる。あの枯れ木も、落ち葉も、あのラーメン屋も、みんな美しい。
そんな風に陶酔しきっていたので、ぼくは彼女が突然立ち止まったことにすぐには気付かなかった。
ふと振り向くと、数メートル後ろで彼女は立ち尽くしている。その顔は恐怖にひきつっていた。彼女の視線の先に、犬を連れた老人の姿があった。
「どうした?」
尋ねても彼女は答えない。顔面蒼白で石のように固まっている。
そうしているうちにどんどん犬連れの老人は近づいてくる。ぼくは目を凝らして見たが、とてもちいさな小型犬のようだ。
犬嫌いとはいえ、そんなに恐れるべき対象ではないだろう。ぼくは彼女にそれを伝えようと振り向いた、そして彼女の頬がみるみるうちにどす黒い緑色にそまっていくのを目にしたのである。
ぼくは単純にあわてた。なんだってそんなに緑色になるんだ?
ぼくの十数年の経験と知識ではおよそ理解のできない出来事だった。しかしそれは確かに目の前でおこっている。これは紛れもない現実だ。
ぼくは突然の事態に激しく混乱し動揺していたが彼女を助けなければいけなかった。そしてすぐそばまで近づいてきていた犬連れの老人に助けを求めようとした。
しかしその途端、犬が吠えだしたのである。あんな風に吠える犬をみたのはぼくの人生において後にも先にもその時だけである。犬はその小さな体に似つかわしくなく、狂ったように吠えていた。緑色に染まっていく彼女に向かって。
老人が必死にリードを引っ張る。犬の小さな体は砂埃をあげて後ずさる。彼女は頭を抱えてその場にしゃがみこんだ。ぼくはとっさに彼女に駆け寄り、すっかり透明感をなくした緑色の肌に触れた。しかしその触り心地はもう人間のそれではなかった。
なんと説明したらいいのだろう、生々しい、魚の肌よりもっと固い、粘っこくてぬめりを帯びた感触。
ぼくは思わず手を引っ込めて彼女から身を引いた。
なんなんだ。どうしたっていうんだ。ぼくはなんにも考えられなくなった。ただ、気持ち悪いと、そう思った。さっきまであんなに周りに満ちていた美とか永遠とか、そんなものはもう跡形もなく消え去っていた。
ぼくはあまりに急激な世界の方向転換に、置いてけぼりをくらって呆然と立ち尽くしてしまった。
すると彼女がゆっくりと顔をあげた。
ぼくはあの顔を一生忘れることができないだろう。そこにいたのはもうぼくの知っている彼女ではなかった。
そして人間ですらなかった。どす黒い緑に染まった肌、くちばし状の口、突き出た鼻、そして眼光鋭い瞳がぼくを捉えた。
その瞬間ぼくの体は恐怖で硬直した。頭の中が真っ白になる。
この世にいるはずのない生き物が、今、まさに目の前にいる。どこだ。ぼくは頭の中で必死に叫んだ。彼女は、どこへいったんだ。ぼくをあんなに恍惚へと導いてくれた彼女は。目の前の、醜い生き物はなんだ。
その化け物はそんなぼくをあざ笑うかのように、くちばしの両端をあげて笑った。その笑顔には、かすかに、ほんのかすかにだが、下駄箱の前で微笑んだ彼女の面影があった。
その瞬間ぼくのなかでなにかが音をたててはじけた。それを合図にぼくは、その化け物に背を向けて走り出した。脇目もふらず全力で走った。まとわりつく恐怖を追い払うために、どこまでも走り続けた。