1、甘いセリフと、隠れやすい田中くん
ぼくは毎日きゅうりを食べる。きゅうりに豊富に含まれるカロテンやミネラルを摂取するためではない。有り余るきゅうりの処分におわれているわけでもない。ただもう毎日きゅうりを食べる。あの日からずっと、ほぼ毎日。
『きみは本当に美しい。はじめてきみの姿を見たとき、ぼくの心臓は異様に跳ね上がった。それからずっと胸の高鳴りが止まらない。もういつでもきみのことばかり考えている。自分でも心配になるくらいだ。
きみの底知れない魅力がぼくを惹き付けるんだ。同じ人間とは思えない、まだ見たことのないような世界がきみの後ろに広がっている。ぼくはその正体を知りたいんだ。
だからその、要するに、きみのことが…ぼくは、すきなんだ。よかったら、ぼくと…』
「ぼくと‥‥つきあってください。」
そこでぼくはペンを置いた。
ちょっとくさすぎるだろうか。小さく声に出して読み返してみる。
いや、きっと、これぐらいじゃないと彼女には伝わらないだろう。ありきたりの告白は、聞き飽きているに違いないのだ。なにしろ彼女はあんなに魅力的なのだから。
そんなことを考えながら、左隣の席の、またそのひとつ左の席の、美しい彼女の横顔を盗み見た。透き通った瞳、雪のように白い肌、肩までかかる艶のある黒髪。
ぼくの心臓は高鳴る。彼女に見つからないように、隣の席の田中くんに隠れて息をひそめる。
田中くんは熱心に数学の問題集に取り組んでいる。彼は古文の時間になれば古文の問題集に熱心に取り組み、英語の時間になれば英語の問題集に熱心に取り組む。だから彼には無駄な動きがなく、とても隠れやすい。彼にはいつか是非それ相応のお礼がしたいと思っている。なんなら、新しい問題集をプレゼントしたって構わない。
それくらい、ぼくは彼女に夢中なのだ。寝ても覚めても彼女のことばかり考えて、そのたび胸を熱く焦がして、強く煮えたぎるこの想いをどこへぶつければいいのかわからないまま、朝も昼も晩も過ぎていく。
あぁ田中くん、きみにこの気持ちがわかるだろうか、ぼくはもう彼女のいない世界を想像するだけで軽く吐き気が、いやもう軽く吐けそうだ。
そんなわけで田中くん、ぼくは今日、この溢れんばかりの熱く激しい想いを、彼女に伝えようと思ってる。想いは募っていく一方で、もうこれ以上、自分ひとりじゃ抱えきれないから…
ぼくは数学の時間いっぱい、心の中で田中くんに話しかけ続けた。そうでもしないと、繊細に研ぎすまされた心のバランスみたいなものが、不安と緊張で今にも崩れ落ちてしまいそうで、恐ろしかったのだ。