11.波間に消えゆく
船長を救え。
レオギスの鋭い剣はリヴァイアサンの硬い皮膚を貫き、奥に秘められた巨大な心臓に突き刺さった。
同時に、胸元に到達した第一部隊員三人の剣が、そこに秘められるもう一つの心臓に突き刺さる。何者、あるいは何かによってつけられた傷が心臓付近の堅固な鱗を削り取っており、彼らの剣を容易く心臓へと到達させた。
剣が深々と突き刺さったその時、リヴァイアサンの心臓が強く脈打った。その衝撃が剣から彼らの体に伝わる。
直後、剣が心臓に突き刺さったのを見届けたようにアイクや船員達の魔力が底を突いた。水竜の身動きを封じていた氷結魔法が効力を失い、共に凍り付いていた周辺の海水が液体に戻っていく。
漸く自由を得たリヴァイアサンを、最大の急所たる心臓を突き刺された強烈な衝撃が襲った。その惨苦と驚きに巨体が大きく震え、けたたましい蛮声が海上に響き渡る。巨体を覆う氷が割れて剥がれ落ち、太陽の光に煌めきながら海へと消えていく。
第一部隊員の三人は、水竜が解き放たれたのとほぼ同時に縄を滑り降りて甲板に戻った。縄との摩擦で手のひらの皮が剥けるのも、剣を水竜の体に残したままなのも気にしている暇などなかった。
リヴァイアサンは頭を振り乱し悶絶する。振り落とされまいと、咄嗟にレオギスは鼻根に深く突き刺さる剣の柄を掴んだ。
「クソ……っ、このままじゃ……」
レオギスは船へ戻る術を失った。今彼の命を繋ぐ物は突き刺さる剣のみ。そして今彼に出来るのは、ただただ振り落とされぬよう剣の柄を握り締める事だけだ。
リヴァイアサンは死への惨苦に暴れ狂う。
振り落とされて海に沈むか、リヴァイアサンと共に海に沈むか。今のままでは、その二つの選択肢しか残されていない。
レオギスは甲板に目を向ける。甲板には布団が敷き詰められている。動ける者の中に、魔法が扱える者も数名視認出来る。
このまま仇敵と海に沈むくらいなら、一か八か仲間に賭けて、甲板に飛び降りよう。そう彼は意を決した。
そして彼は、最も安全に飛び降りられる時機を――リヴァイアサンの頭が船に近づく瞬間を狙う。
だが、飛び降りる最適な時機は、瞬時に現れては消えを繰り返していた。さらに、巨体が起こす波によって船は押し流されていく。
「躊躇してる暇なんかねぇよな……」
船との距離は開き、柄を握り締める手も限界が近い。躊躇っている暇も、時機を見計らう余裕も、最早彼には残されていない。
「ええい、儘よ!」
何度目かリヴァイアサンの頭が船に近づいた瞬間だ。レオギスは自らを奮起するように叫んで柄を手放し、勢いよく飛び降りた。彼の体は重力のままに船上目掛け降下していく。
甲板では動ける船員達がシーツやカーテンの端を持って張り、パルを含め辛うじて魔力の残っている者が落下の衝撃を軽減出来るよう風魔法を放つ準備をしていた。
落下していくレオギスの瞳には、シーツの端を持って構える仲間達の姿が、そしてフェーナの姿が映る。レオギスは仲間のもとを、彼女のもとを目指した。
彼がメインマスト最上部のヤードの高さを超えた時だ。暴れ狂うリヴァイアサンが天を仰いで一声叫ぶと突然その動きを止めた。遂に心臓が鼓動を完全に止め、絶命したのだ。
そして、絶命したリヴァイアサンは天を仰いだ状態から崩れ落ちるように後ろへと倒れる。美しい巨体は着水と同時に激しい水飛沫と荒波を引き起こし、深大なる海の青へと呑まれていく。
まさに、不運な事態と言う他なかっただろう。
巨体の着水によって引き起こされた荒波が、船を強く押し退けてしまったのだ。錨を下ろしてはいたが、襲い来る荒波の前では船にぶら下がる装飾品同然だった。そして、激しく揺さぶられた船上では誰もが立っている事すらままならなかった。
落ち行くレオギスは、自身を受け止めてくれるはずの場所を見失った。彼の眼下に、体の下に広がるのは白波荒れ狂う青。このまま落ちれば荒波に呑まれて水竜と共に沈むのは明白だ。
「レオさんッ!」
不意に彼の名を呼号する声が、荒波の騒音を掻き分けて彼の耳に届く。咄嗟に視線を上げると、海と空の青を切り裂くように赤色の物体が勢いよく向かって来ているのが見えた。青の中で異様に目立つそれは、赤色の浮き輪だった。
そして、飛んで来る浮き輪を捉えた視界の奥に、明らかに投擲後と分かる体勢をした茶髪の少年の姿が――マルスの姿が見えた。
しかし、彼が投げてきた浮き輪はレオギスに届く前に、急に失速して落下を始めようとする。
唯一の生存の可能性を逃すわけにはいかない。レオギスは千切れそうなほどに腕を、指先を伸ばす。
「風よ……!」
揺れによって転倒していたパルが、体勢を立て直すと同時に風魔法を放った。土壇場ではなった魔法故威力は微弱であったが、軽い浮き輪を押すには十分だ。
風魔法によって押された浮き輪は、遂にレオギスの手のひらに触れた。彼は浮き輪の穴に指を引っ掛け、自身の体に引き寄せる。
体に浮き輪の張りある柔らかさが感じられ、僅かな安堵を覚える。だが――。
「レオーッ!」
フェーナの悲痛な叫び声が響く。同時に水柱を高く上げ、レオギスの体が突き刺さるかの如く海の中へと消えた。
波が大きく船を揺らす。いつの間にかその波の下、海の中にリヴァイアサンの巨体は消えていた。そして、レオギスの姿も海上から消えてしまったのだ。
「レオ……っ、レオ……!」
「姐さんいけねぇ!」
フェーナは船から身を乗り出し、海に身を投げようとした。だが、咄嗟にそばにいた船員二人が彼女を押しとどめる。
「放せ! レオが、レオが……っ」
「この大波じゃあ、姐さんもどうなるか分からねぇ! やめてくれ!」
船員の腕を振り解こうとフェーナはもがく。
リヴァイアサンが沈んだ後で波は多少緩くなってはいたが、生身で飛び込めば命は危ういだろう。そのような死地に彼女を送り出すなど船員達には出来なかった。
誰もが船の縁から身を乗り出して、レオギスの消えた辺りを憂色を浮かべて凝視する。中にはフェーナのように自分が船長を助けると言って飛び込もうとする者もいた。
フェーナは泣き出しそうな顔で、否、瞳にうっすらと涙を浮かべて力なくその場に座り込む。
剛毅そうな印象を抱いていた彼女がひどく弱々しい姿を晒している事に、マルス達は驚きと哀切の入り混じった表情を浮かべていた。彼女とレオギスの関係を思えば、哀切の感情は一層強くなる。
「あ……お、おい見ろ!」
誰かが声を上げた。その声で皆は一斉に縁から身を乗り出して海を見る。
大波揺らめく広漠とした青の中に一際存在感を放つ赤色が浮いて、波の山に押し上げられては谷に滑り降りてを繰り返している。そして、その赤い浮き輪には褐色の手が一つ引っ掛かっている。だが、その主の姿は視認出来ない。
何度目か浮き輪が波の谷に滑り降りた時だ。
もう一つの日に焼けた褐色の手が、海の青から突き出て浮き輪を掴んだ。それに続き、青を突き破るように朱色の髪が海上に姿を現した。
レオギスは生きていたのだ。荒い呼吸を繰り返しながら、波に呑まれぬよう必死に浮き輪にしがみついていた。船との距離は八十メートルといったところだろうか。
船長が生きている事に船員達から安堵や歓喜の声が上がった。
それからすぐに、今にも船長を呑み込まんとする海から救うための指示やそれに応える声が上がる。
可能な限り波立たせぬよう、船は慎重にレオギスに近づく。
彼との距離が二十メートル程まで来ると船は停止し、同時に縄の括り付けられた浮き輪が海に放り出された。軽い浮き輪は投げられた勢いのまま彼のそばに着水する。
彼は沈まぬよう手元の浮き輪を腕でしっかと掴み、もがくように船から投げられた浮き輪へと泳ぐ。生きたい一心で彼は行く手を阻む波の山谷を必死に泳ぎ越え、投げられた浮き輪を掴んだ。
船長が浮き輪を確かに掴んだのを視認した船員達は、それに括り付けていた縄を引っ張った。浮き輪はレオギスを連れて船へと引き寄せられていく。
一方船上では、船長を救うため屈強な男船員二人が自身の体に縄を括り付けていた。
他の船員達は縄の長く余った部分を掴み、二人の男船員はその縄を命綱にしながら慎重に船の縁から船体を足がかりにして海上へと向かう。
船のすぐそばまで引き寄せられていた船長のもとに彼らは降りていき、船長が流れたり沈んだりする事のないよう肩を貸す。そして、あらかじめ用意していた縄を船長の腰に巻き、それをさらに浮き輪から甲板へと伸びる縄に括る。
「よーし、引き上げろ!」
男船員の一人が甲板に向け叫ぶと威勢の良い返事が聞こえ、それぞれの体が引き上げられ始める。海水を飲んで噎せ、疲弊の色を浮かべたレオギスを二人の男船員は両隣で支えた。
マルス達も船員達に混じって縄を引いていた。怪我で無念にも大した力になれぬ船員の分、パルは自身の怪力を遺憾なく発揮し、彼らの引き上げの大きな戦力となっていた。
掛け声を上げながら誰もが懸命に縄を引く。
そして、遂にレオギスは男船員二人と共に甲板に引き上げられた。船の床板を踏むのが随分久し振りに感じた。
漸く人心地ついた彼は、大きく息を吐きながらその場に腰を下ろす。彼から滴る海水が床板に染みを作った。
「ありがとな、お前ら。助かったぜ」
呼吸を整えてからレオギスは皆に感謝を伝える。船員達は笑みを浮かべたり、彼を茶化したりしてその感謝を受け止めていた。
濡れた体が海風で冷え、彼は大きなくしゃみをした。すると、前方から投げられた毛布が彼の頭に掛かり、すっかり体を隠してしまう。
少々驚きながら毛布の中から顔を出して、その投げられた方向を見る。彼の視線の先には腕組みをしたフェーナが立っていた。
「ったく、心配かけさせんじゃないよ。…………まあ、無事で良かった」
いつものどこかぶっきらぼうな口調で彼女は言う。最後の言葉を僅かに震えた声で言うと、彼女はレオギスから表情が見えないよう顔を背けた。
「お? お前もしかして泣いて――」
「う、うっさい! この馬鹿船長が!」
一瞬だが彼女の黄色の瞳に煌めく物を見たレオギスは、あまりに珍しい彼女の様子に反応せずにはいられなかった。
フェーナは誤魔化すように彼に皮肉を言うが、いつものやりとりが再びこうして出来る安堵を感じてますます瞳の奥から溢れてくるものが止まらなかった。泣き顔を見られまいと彼女はレオギスに背を向ける。
すると、不意に彼女の背中にひやりとしたものが触れ、日に焼けた褐色の腕が彼女の体を包んだ。
「フェーナ、心配かけて悪かった。またお前に触れられて、お前の声が聞けて良かった」
レオギスはフェーナを抱きしめながら、柔らかな声音で言った。彼女は涙を拭い、頷いてその言葉を受け止める。
海水に濡れ冷えたレオギスの体温は徐々に上昇し、彼女のぬくもりと溶け合っていく。
二人の様子をしばらく黙って見守っていた船員達から、茶化すような声や口笛が上がり始める。羞恥心の強いフェーナはその状況に耐えられなくなり、一気に紅潮する。
「っ、も、もういいだろ! だいたい、全身びしょ濡れのままで抱きつく奴があるか、この阿呆!」
先程までの弱々しい様子はどこかへ消え、フェーナは勢いよくレオギスの腕を振り解いて、彼の体を突き放した。
すっかり油断していた彼は押された勢いで尻餅をつく。
船員達からはどっと笑い声が湧き上がった。船上が明るい笑い声に包まれる。
揺らめく波は徐々に穏やかさを取り戻しつつあった。




