10.災厄にとどめを
その声は、笑顔は、勇気となり道を切り開く。
アイクが魔力を解き放った瞬間、紋章の青い輝きがグローブを透過して外に溢れた。同時に、絶対零度の冷気がリヴァイアサンの巨体を包み込んでいく。
巨体から滴る海水が真っ先に凍らされ、氷の粒となって船上に降り注ぐ。そのまま冷気はリヴァイアサンの体を凍り付かせに掛かった。薄い鰭は凍りやすく、その端から自由が奪われていく。
ここまで僅か二秒程。
漸く思考が追いついたリヴァイアサンは反射的に身を引く。巨体は船から離れていくが、氷の戒めが広がる速さは止まらない。
そして鎌首を擡げた状態になった時、遂にリヴァイアサンの巨体は周囲の海水ごと凍り付いた。船を見下ろすような体勢でリヴァイアサンは尾の先すらも動かせぬ氷像となったのだ。
敵が防御より回避を選んだために、胸部分は狙い通り無防備な状態で凍らせる事に成功していた。
しかし、問題が一つ。その回避が想定よりも早く、顔も胸も船から随分と高い位置にある状態で凍ってしまったのだ。
「メインマストが奴の頭下に来るように、船体を横にしな!」
可能な限り心臓がある鼻根と胸を狙いやすくするため、フェーナが船を動かすよう指示を出す。
船はゆっくりと動いて向きを変える。一部凍った海水の割れる音が船の周囲から聞こえてきた。
最も長いメインマストがリヴァイアサンの高々と上がった頭、その真下に来る位置で船は停止する。
レオギスの指示で、第一部隊が心臓を破壊するため彼と共にメインマストを登って行く。
最上部で帆を張る横棒――ヤードの上にレオギス達は辿り着いた。だが、それでもリヴァイアサンの心臓までは高さが足りない。胸部分ですら、四人ほどで肩車をし合ってどうにか届くか否かの高さにある。
丸太で出来たヤードは一人で立つ分には苦にならないが、肩車をしたり飛び跳ねたり、梯子を掛けたりするには足場が悪い。まして船の最も高所であるため、うっかり体勢を崩して落下すれば大怪我では済まないだろう。
どうすべきか、レオギスもフェーナも、船員達も考えを巡らせる。
その最中、リヴァイアサンの体からパキリ……と硝子に罅が入るような音がし始めていた。リヴァイアサンを封じる氷の戒めが、徐々に解けつつあったのだ。
凍えた吐息を放つリヴァイアサンは、氷属性の魔法に幾らかの耐性がある。それに加えて、船の倍程はある巨体を凍り付かせていられる時間はそう長くはなかった。
アイクは腕を小刻みに震わせ、額には玉のような汗を浮かべて歯を食いしばり、氷の戒めが解けぬようありったけの魔力を絞り出すように送り続けている。
彼の魔力が尽きるのも時間の問題だろう。
「第三部隊! とりあえずお前らも奴を凍らせるのに力を貸してやれ!」
ヤードの上から魔法を主とする第三部隊にレオギスは指示を下す。それを受けてフェーナは、船の四方八方で防御壁を展開していた第三部隊をアイクの近辺に呼集する。
第三部隊の者達はすぐさま集結し、彼女と共にリヴァイアサンに向けて氷結魔法を放った。目立ち始めていた亀裂が新たな氷で覆われていき、再び戒めは強くなる。
だが、クライスの力を借りたアイクが渾身の魔力をもってしても、綻びもなく完全に凍り付かせていられたのは僅か一分程度。
第三部隊六人とフェーナの計七人の魔力を合わせても、その量は今のアイクよりも少ない。確実に押さえ付けていられる時間はそう長くないのは明白だった。
この状況で自分はどう動くべきかパルは悩んだ。しかし、悩んでいる暇などない事も分かっていた。
ひとまず彼女は、自分もアイクの手助けをしようと氷結魔法を放とうと手を翳す。
その時、ふと後ろから声が掛けられた。
「パルっ、パル!」
声に気づいて振り返ると、マルスの姿が視界に入る。
離れた所から急いで走ってきた様子で、彼の息は僅かに乱れていた。
「あのさ、またオレの思い付きで悪いんだけど」
呼吸を整えつつ、マルスは前置きのように言う。
「氷魔法とかで足場って作れないかな? 魔法なら、梯子とかと違って場所選ばなくてもいけるかと思って」
マルスはヤード上にいるレオギス達を見上げながら、自身の思い付きを口にする。
確かに魔法であれば梯子とは違い、そもそもの足場が不安定な場所でも関係無く新たな足場を設ける事は可能だ。
「無理じゃ、ないけど……私に、出来るかな……」
マルスの視線を追ってヤードを見上げていたパルだったが、自信のなさを滲ませて語尾を小さくしながら視線を下げてしまう。
魔法で足場を作り出すのは可能な事だが、今の彼女にはまだ困難さの方が強い。
氷の戒めが持ちこたえられる時間や、心臓を攻撃された瞬間のリヴァイアサンの暴れ方などを考慮すると、二ヶ所にある心臓は同時に破壊すべきだ。だが、足場を二ヶ所に向けて作り出すには、魔力の量は勿論、凄まじい精神力が必要だった。
「大丈夫、パルなら出来るよ! だって、オレ達の中で一番魔法が得意だし、これまで何度も魔法で助けてくれたでしょ。パルの魔法の凄さはよく知ってる。パルに出来ない魔法なんてない。オレは信じてる。だからパルも自分を信じて」
不安を浮かべるパルに、マルスは明るい声で言って笑ってみせた。
彼の笑顔と言葉は不思議だ。いつの間にか不安を拭い去って、自信を与えてくれる。
言葉は至って単純で何の捻りもないが、案外不安な時ほどそういった言葉の方が心に響くのだろうか。彼の言葉を聞くと、安心感と共にどこからか自信が湧いてくるのだ。
そして、彼の明るく屈託のない笑顔は、如何なる状況だろうと緊張を打ち消してしまう力を持っていた。
「そうよパルちゃん! アタシだってついてるんだから!」
アテナの激励する声が聞こえる。
「……うん、やってみる……」
二人の激励を受け止め、パルは拳を握り締めて再びヤードに視線を向ける。
ヤードと二ヶ所のリヴァイアサンの心臓を交互に見ながら、両手をその間へと翳した。すると、彼女の両手のひらに魔力が集まり始め、彼女の髪や服が海風とは異なる力で靡く。
「アテナ、お願い……」
「任せてっ」
パルがアテナに指示した直後、グローブの中で彼女の紋章がシアン色の光を帯びる。彼女の内に秘めた魔力が解放された証だ。
その瞬間、更なる魔力が彼女の両手のひらに集中し、彼女だけでなく近くにいるマルスの髪や服すらも靡かせた。
彼女は目を閉じて意識を集中させ、リヴァイアサンの心臓まで届く道の姿を強く想像する。
攻撃時に使う魔法は球状であったり、氷柱や湾曲した刃状であったりと比較的簡単な形のもの、あるいは形を考えず放つものがほとんどであるため、これほど想像の段階に労力を割く事はない。
労力のかかる想像と魔法の創造を同時に行うために、彼女は魔力と共に相当の精神力も酷使させていた。
「レオさーんッ! パルが今そこに足場作るから! そしたら、みんなでリヴァイアサンの心臓狙ってください!」
彼女が魔力を溜めている間に、マルスが声を張り上げてヤード上にいるレオギスに自身の作戦を伝える。上からは威勢の良い返事が降ってきた。
リヴァイアサンの身動きを封じている氷は、第三部隊の者が加勢した時こそ持ち直しはしたものの、再びいくつもの亀裂が走って微小な音をいくつも鳴らしている。その音が耳に入る度に、誰もが心臓を跳ねさせた。
アイクだけでなく、それを支える第三部隊やフェーナも魔力の底が見え始め、亀裂の数は著増している。口元の長い髭の先や鰭の端などは氷が溶けて剥がれ落ちており、僅かに蠢き出していた。
苦悶の表情を浮かべ、何人かが膝をつき始める。
「……っ、いける……!」
閉じていた瞼を開け、パルがそう告げる。その言葉を耳にしたマルスは安堵したように表情を緩める。
「お願い……届いて……!」
パルは溜めていた魔力を解き放った。直後、ヤードからリヴァイアサンの胸元に向けて伸びる氷の道が出現する。
同時にレオギスの足下から氷の柱が生えてきて、彼の体をリヴァイアサンの顔に向けて押し上げながら伸びていく。喫驚した彼は危うく落ちそうになったが、どうにか踏みとどまって近づいて来る憎い仇敵の顔を見据えた。
第一部隊の者達はリヴァイアサンの鰭の付け根に向け、先端に重石の付いた長縄を三本投げつける。
弧を描いて重石のついた先端が鰭を飛び越えた瞬間を狙い、第一部隊の一人が風魔法で重石を押してやると、その勢いで縄が鰭の付け根に巻き付いた。
「三人こっちに残っとけ! 船長とオレ達が船に戻れるよう構えといてくれ!」
第一部隊長がまだヤード上に残る三人の隊員に指示しながら、その他二人の隊員と共に縄を掴んで氷の道を登り始める。縄をきつく握り締めて突起や窪みに足を引っ掛け、隊長ら三人は慎重に、だが素早く心臓のある胸を目指す。
残された三人の第一部隊員は有事の際も隊長らが無事に戻れるよう、隊長らが使っている縄に新たな縄を括り付けて長さを足す。そして、それを甲板へと垂らしてから自分達も甲板へと降りる。
長くなった縄の先端は甲板の床から一メートル程上を風に吹かれて漂っており、彼らはそれを掴んで固定する。同時に、手の空いている者に船中にある敷き布団やシーツ、カーテンを集めさせた。
敷き布団を甲板の上に並べ、手隙の第二部隊の者を中心にシーツやカーテンをその上で広げて、レオギスも可能な限り無事に戻れるよう準備を整えた。
そして、レオギスは遂にリヴァイアサンの顔に辿り着いた。
パルの魔法は敵の鼻先で止まり、レオギスは仇敵の顔を睨みながら突き出るように伸びる鼻と口の上に足を乗せる。ぱきり、と僅かに氷の割れる音が靴の下から聞こえた。
足下に視線を落とす。これほど間近で見る水竜の口は、想像よりも遥かに巨大だった。
この巨大な口に、先代船長――父は呆気なく飲まれて消えていったのだ。
父だけではない。海辺に住む者や船旅をする者、そしてかつての同胞達も。実に多くの命がこの巨大な水竜によって奪われたのだ。
レオギスは静かに腰に下げていた剣を鞘から抜く。そして、一歩ずつ鋭い光を宿すリヴァイアサンの黄色の双眸の間――鼻根へと向かって行く。
心臓があるという鼻根の前に立つと、確かにどくんどくんと彼の体を震わせるかのような鼓動の音が響いてくる。
生きている、確かに生きている。鮮烈に伝わってくるその感覚と巨大な心音に気圧されてしまいそうになる。
圧倒されかけている意識を立て直すようにレオギスは両手で柄を握り締め、頭上まで高々と剣を振り上げた。その切っ先は真っ直ぐに鼻根の中心を狙う。
「……これで、終いだ」
言下、レオギスは渾身の力を込めて振り上げた剣を鼓動響く鼻根――その奥に秘められる心臓へと突き刺した。




