2.急襲
突如、平穏は掻き乱されて。
船は単純な造りで、それほど広いものではなかったが、初めて船に乗ったマルスの好奇心を満たすには十分で、乗客の立ち入りが可能な所は全て見て回った。
彼は目を輝かせてあちこちを忙しなく見回しており、船酔いでもしないかと心配になるほどだ。
だが、好奇心と興奮でいっぱいの彼の中には体調不良など入り込む隙は一切なく、むしろ彼の視線を追おうとするアイクとパルの方が船酔いを起こしそうだった。
そうして船内を粗方散策し終え、三人は最後に甲板を訪れていた。
甲板には他の乗客も多く足を運んでおり、賑わいを見せている。
船の進行に合わせて吹く風は潮の香りを纏っており、青い空と海を見つめて深呼吸をすると言葉にし難い爽快感が肺から全身に伝わった。
その爽やかな風を受けながら海鳥達が高い声を響かせて上空を舞い、中には船の縁などで羽を休めているものもいる。
三人は船の縁から青い海と空、白い波と雲を眺めながら会話をしていた。
パルの動物と意思疎通出来る力を使って、そばに留まっているカモメもいつの間にか会話に参加しており、三人と一羽というどこか奇妙な会話になっている。
「良いなぁ。オレも動物と会話出来るようになりたい」
パルとカモメの姿にマルスは羨望の眼差しを向けて呟く。
動物が好きな彼は、ごく自然に動物と会話の出来るパルが羨ましかったのだ。
彼は微笑みながらカモメをじっと見つめ、頑張って念じれば意思が伝わるのではないかと期待した。
すると、カモメは一声上げた。
「……直接、話せはしないけど……君は、とても優しそうな子だね……って、言ってる……」
カモメが言った言葉をパルは伝える。
マルスの澄んだ海色の瞳と屈託のない笑顔に、カモメは彼の人柄の良さを感じたらしい。
カモメに褒められ、マルスは何とも言えない嬉しさを感じつつ、カモメに向かって「ありがとう」と感謝を伝えた。
その後しばらく三人はカモメを交えて会話を続けた。
だが、幾らか船が進んでカモメ達が船を離れ始めると、三人と共にいたカモメも群れを追って空へ飛んで行ってしまった。
カモメ達はどこへ行くのだろう、そう思いながらマルスは小さくなっていく群れを眺める。
「アストルムのお祭り、楽しみね」
「ママ、お祭りの衣装買ってね」
船内を好奇心のままに見て回った疲れが今頃出てきたマルスが、船の縁に肘をついてぼんやりとカモメ達の飛んで行った空を眺めていると、ふと近くを通りがかった親子の会話が耳に入ってきた。
楽しそうな事に敏感なマルスは「お祭り」という単語にすぐさま反応を見せる。
「アストルムって、今祭りやってるの?」
肘を縁から離して、マルスは隣で船に寄り掛かりながら空を見上げているアイクの方を見た。
知識が豊富な彼にすぐ分からない事を尋ねるのはマルスの癖だ。
「俺もすっかり忘れていたが、確かにアストルムでは今ちょうど祭りの時期だな。ラエティティア・ルミノクスと呼ばれる祭りだ」
「世界三大祭りの、一つ……?」
アイクが思い出したようにアストルムで開催されている祭り――ラエティティア・ルミノクスの事を話すと、パルが軽く首を傾げてそう聞き返した。
「ああ。グラドフォス、エストリアに並ぶ世界三大祭りだ。俺もまだ見た事はないが……」
アイクの言うようにグラドフォス、エストリア帝国、そしてアストルムの街で行われる祭りは世界三大祭りと呼ばれている。
グラドフォスやエストリアという大国の祭りと肩を並べている、それだけでアストルムで行われる祭りの壮麗さはマルスにも容易に想像がついた。
「祭り、行ってみたいなぁ……」
誰に言うでもなく、マルスは願望を口にしていた。
それを聞いたアイクは、彼の反応を分かっていたかのように小さく笑みをこぼす。
「本当は到着したらすぐに次の目的地まで向かう予定だったが……せっかくの旅だ。楽しみの一つや二つ、あっても良いだろう。一泊する事にして、祭りに参加するか」
「ホント!? やった!」
祭りに行っても良いというアイクの言葉に、マルスは一瞬の内に笑顔を浮かべて彼の方に顔を向ける。
雲に隠れていた太陽がその顔を出して明るい輝きを放っている、そんな様子を彷彿とさせるような笑顔だ。
祭りに行けるという嬉しさを溢れさせているマルスに、アイクとパルもつられて笑顔を浮かべる。
「楽しみだなぁ。どんな祭りなんだろう……」
マルスは青空を見上げて、ラエティティア・ルミノクスという祭りが一体どのような祭りなのかを想像した。
同時に、グラドフォスの祭りの様子も彼の頭の中に浮かび上がってくる。
グラドフォスの祭りは国のあちこちに様々な露店が並び、大道芸や演劇などが噴水広場で行われ、開放される城の広場では貴族平民問わず参加出来る舞踏会が開かれる。
そして祭りの目玉と言えば、国をぐるりと取り囲むようにして打ち上がる大規模で煌びやかな花火だ。
地上界一と謳われるグラドフォスの花火職人が魂を込めて作り、打ち上げる花火は、その美しさと迫力に誰もが見とれ、自然と感動の拍手や歓声が国中に響く。
毎年その祭りにはパルと、時間の合間を縫い、父親の目を掻い潜って来たアイク、そして兄と共に参加して心ゆくまで楽しんだものだ。
笑顔の絶えない、楽しく、幸せに満ちた時間だった。
「兄さんとも、一緒に行きたかったな……」
ふとマルスの口から、今は叶わぬ小さな願望がこぼれる。
彼は僅かな微笑みを浮かべていたが、その笑みにはどこか切なさが混じっていた。
「また一緒に祭りに行くためにも、早くカイル兄を見つけないとな」
マルスの呟きを聞き取ったアイクがそっと彼の肩を叩き、パルも彼の顔を見上げて微笑みを浮かべる。
彼が兄を大好きである事も、普段あまり口にせずとも兄が恋しくて堪らない事も、二人はよく知っていた。
二人が向けてくれる優しさに、マルスの表情からは寂しさの色がいつの間にか消えていた。
嬉しさの滲み出た笑みを浮かべ、マルスは二人に頷いてみせるのだった。
* * *
三人は客室に戻り、席に腰を下ろして談笑しながら寛いでいた。
そうして客室に戻って寛ぎ始めてから十数分が経過しただろうか。
その頃には船の出港から二時間ほどが経っており、乗客のほとんどが客室でのんびりと寛いで過ごしている。
ゆったりと船は進み続け、船内には穏やかな時が流れる。
西へと傾いてきている太陽から放たれる日光は柔らかで、窓から三人を優しく照らしていた。
穏やかな時間と暖かな日光は三人の疲れを柔らかくほぐすと共に、眠りの世界へと彼らの意識を誘おうとする。
マルスはもう意識がだいぶ遠退いているらしく、ほとんど瞼は閉じた状態で頭がかくん、かくんと一定のリズムで揺れていた。
「…………?」
パルも寝てしまいそうになっていたが、ふと彼女の鋭い感覚に何かが引っ掛かり、彼女は寝惚け眼のまま窓の外を見た。
(何だろう……何か、強い気配がする……)
ぼんやりとする目を軽く擦って、パルは感じ取った強い気配の正体を探ろうとした。
その時だ。
突如、船に下から突き上げるような大きな衝撃が走った。
衝撃によって椅子とテーブル、客達の体が弾むように大きく揺れる。
「うわわっ、何!?」
船に走った凄まじい衝撃で無防備だった体が跳ね上がり、臀部を打った痛みと衝撃でマルスの意識は微睡みの世界から一気に現実に引き戻される。
何が起きたのかと三人は慌てた様子で船内を見回した。
船自体もまだ揺れており、天井の照明が振り子のように天井に近づいたり離れたりを繰り返している。
他の乗客達も慌てた表情で不安と戸惑いを口にしながら、テーブルの下に身を隠したり、荷物で頭を守ったりしていた。
その中で、船に取り付けられている警鐘の音が鳴り響く。
短い間隔で何度も鳴り響く甲高い音は心臓に直接響いてくるかのようで、恐怖心と鼓動の速さに拍車をかけてくる。
再び船底から突き上げるような衝撃が襲い、乗客達は悲鳴を上げた。
幼い子どもの恐怖に泣き叫ぶ声が警鐘の音と共に客室内に響く。
船員達は声を張り上げて乗客に頭を守るよう伝えたり、指示を仰ぎに操舵室に向かったりしている。
マルス達三人も身を寄せ合って頭を守りながら、船員からの指示を待った。
「非常事態発生、非常事態発生! この船は怪物の急襲を受けています! 乗客の皆さんは船員の指示に従って避難してください!」
音声を伝達する魔法道具から、隠しきれない焦りの滲んだ船員の声が響いてくる。
その船員の言葉から、船を襲った衝撃は怪物の体当たりだったのだとすぐに想像がついた。
船員達は声を張り上げて避難指示を出し、老人と幼い子どもを優先的に避難させていく。
我先にと子どもや老人を押しのけて避難しようとする者もおり、船員達はその対応にも追われ船内は混乱を極めていた。
子どもと老人の避難が粗方終わったところで、その他の乗客の避難が始まる。
怪物の体当たりはないものの、怪物が動く事で引き起こされた波が船を大きく揺らし、乗客達は何度も転倒しそうになった。
マルス達も転ばぬよう注意しながら、船員の指示に従って客室の出入り口へと向かって行く。
扉の向こうでは怪物の雄叫びが響いていた。




