7.激情の赴くままに
それは時に自我を飲み込む感情。
デボラの攻撃により地面に倒れ伏したアイクは、襲って来る痛みと積み重なるように溜まった疲労に苦悶の表情を浮かべながら、どうにか起き上がろうとしていた。
だが、体に上手く力が入らず、思うように体を動かせない。
魔力も安定しない今、ルストに治癒魔法をかけてもらえはしないかと彼の方を見るも、イヴリスの猛攻に抗うので手一杯な様子で、とても助力を求められるような状況ではなかった。
「これで終わりにしようじゃない。あんまり傷増やしすぎると、せっかくの綺麗な顔が台無しになって売れなくなるからねぇ」
痛みと疲労で上手く力の入らない体で必死に起き上がろうとしているアイクを嘲笑うかのようにデボラは言う。
「執事のジジイは大して需要ないだろうから殺しても良いか。あっちの坊やは健康そうだから、それなりの値で売れそうね。それと、あのお嬢ちゃん、可愛い顔してるじゃない。ふふ、ああいう子は需要が高くてねぇ……目一杯あの体で稼いでもらうわ」
デボラは形の良い唇を吊り上げて、離れた所にいるパルを見た。
彼女を見るその赤い瞳は、悪意と欲に満ちていた。
「トイフェル、あんまりお嬢ちゃんを傷物にするんじゃないよ。綺麗な方が女は金になるんだから。あと、なるべく生け捕りにしな」
離れた所で戦う弟にデボラはそう声を掛けた。
そして、アイクをいよいよ戦闘不能にしようと視線を彼に戻す。
まさにその瞬間だった。
デボラの視界に入ったのは、剣を振りかざす、起き上がるのすら困難だったはずのアイクの姿。
彼女の理解が追いつくよりも早く、剣が振り下ろされる。
「……っ!」
反射的に彼女はその一撃を避けるも、反応が遅れてしまったがために左肩を刃が掠った。
痛みと共に傷口から血が流れ、デボラは驚愕の表情でその傷とアイクを交互に見た。
つい先程まで倒れて、起き上がれもしなかったはずの彼は、妙なほどにしっかりと立っていた。
受けた傷は残っており、呼吸も少々荒いままで、治癒魔法で傷と疲労を癒やしたわけではないようなのはデボラにも見て取れる。
ただ一つ違うとすれば、それは彼の纏う雰囲気だった。
凍るように冷たく、氷柱の先端のように鋭い雰囲気を彼は纏っていた。
それは、怒り以外の何物でもない感情だ。
凍てつくような鋭い怒りを纏い、彼の黒水晶の瞳もまた同じものを宿してデボラを見据えていた。
急に雰囲気の変わった彼に危機感を覚えたデボラは、舌打ちすると魔力を込めた長鞭を振るった。
だが、アイクはそれに動揺する事もなく鞭の攻撃を躱しながら距離を詰めていく。
人の感情とは、何とも不思議なものだ。
特に怒りの感情は、時に驚異的な身体能力を感情の主に授ける事がある。
それによってアイクは苦戦を強いられていたはずの鞭の軌道を見切り、躱し、着実にデボラとの距離を詰めていた。
「馬鹿な……! くそッ、こっちに来るな!」
デボラは初めて彼の接近に恐怖を――このままでは負けるという恐怖を感じた。
彼女はそう吐き捨てると長鞭に炎を纏わせ、自身の頭上で振り回す。
炎を纏った鞭が彼女を守るように、周囲と彼女の間に炎の障壁を生み出した。
しかし、アイクが怯む気配も、足を止める気配もない。
「クライス」
静かな、だが、怒りに満ちた声でアイクがクライスに呼び掛けると、彼の剣がまたしても氷に覆われていく。
氷を纏った剣で、アイクは炎の障壁を斬りつけた。
炎を纏って回る鞭と氷を纏った剣がぶつかる。
しかし、氷の剣は炎の障壁の力と拮抗しており、彼の剣が炎と鞭の先にいるデボラに届く気配はない。
「っ、あはは! なんだい、この程度! 氷ごと剣もあんたも燃やし尽くしてやろうじゃない!」
これまでとそう大差ない攻撃に拍子抜けしたようにデボラは笑うと、一層鞭に魔力を込めた。
その瞬間、鞭が纏う炎はさらに赤々と燃え上がり、凄まじい熱を放つ。
炎の熱でアイクの氷が溶け始め、彼の手や顔などには火傷らしい熱と痛みが広がる。
「お前を、許さない」
この状況でも、アイクが表情一つ変えずそう言うと、彼の右手の紋章がいつになく強く輝いた。
その光は僅かにグローブから漏れ出しており、炎の赤い光を塗りつぶすように青く涼やかな光が彼の右手を包む。
そして、より強い魔力を宿した氷が、溶けかけの氷ごと彼の剣を覆った。
「何ッ!?」
デボラは驚愕の声を上げた。
氷の剣が鞭の炎を抑え、それどころか、剣に触れている所から徐々に鞭が凍り始めていたのだ。
一層デボラは魔力を鞭に込めるも、アイクの氷の魔力がそれを上回っており、鞭は見る間に凍っていく。
「ば、馬鹿な……!?」
デボラが再び驚愕の声をこぼす頃には、炎は消え去り、鞭は完全に凍り付いていた。
鞭は彼女の周囲を覆うように、蜷局を巻いた蛇のような形で凍り付いており、彼女を守っていたはずの障壁が今度は彼女を捕らえる檻となっていた。
この状況に動揺を隠せないデボラは、目を白黒させて凍り付いた鞭と剣を振り下ろすアイクの姿を見ているしかなかった。
刹那、硝子の砕けるような音が響き、氷の檻が――否、デボラの鞭が砕け散った。
アイクの剣によって砕かれたそれは、きらきらと松明の光を反射して宙に舞う。
彼女の感情にも、彼の感情にも似つかわしくないほど美しく、氷の破片は煌めきと共に地へ落ちていく。
不意に、武器を失って完全に無防備となったデボラに、剣の影が落ちた。
彼女が顔を上げると、目の前には変わらぬ怒りを宿したアイクが剣を振りかざしている。
明らかにデボラの命を狙って剣は構えられていた。
彼らの目的は盗賊からブローチを取り返す事であり、命を奪う事ではない。
いくら相手が神に仇なす魔族だと分かっているとはいえ、今の状況で下手に命を奪うような真似をすれば、イヴリスにブローチを破壊されてしまう可能性も十分にあり得る。
冷静な彼ならば、一番よく分かっているはずの事だ。
だが、彼の瞳には冷静さなどなかった。
否、落ち着いてはいるものの、怒り以外の感情が存在していなかったのだ。
彼が冷静ではなく、本来の目的以上の事をしようとしているのに勘づいたクライスは、彼の意識に何度も呼び掛けて引き止めようとしていた。
しかし、その声は彼に届かない。
契約者の意思あるいは許可が無ければ実体化出来ない今、彼を直接止める事も出来なかった。
そして、ついにデボラに剣が振り下ろされる、まさにその時。
「アイク、ダメだよ……」
空気のような軽やかな声がしたかと思うと、アイクの肩が急に重くなり、彼はその重さに引っ張られるように後方へ倒れた。
突然の事に、彼を満たしていた怒りの感情が驚きによって空気が抜けるかのようにしぼんでいく。
気づけば、彼は尻餅をついて剣から手を離し、いつの間にか目の前に現れた人物の背中を呆然と見上げていた。
彼のもとに現れたのは、離れた所で戦っていたはずのパルだ。
「大人しくしててね……」
パルはそう言いながら、同じく状況に頭がついていかない様子のデボラの目元を両手で覆い、催眠魔法をかけた。
アイクと対峙していた際に感じていた焦りや、突如現れたパルへの驚きなど様々な感情で気が揺らいでいた彼女は、驚くほどあっさりと催眠魔法で意識を失ってしまう。
倒れかかってきた彼女の体を受け止め、地面に横たわらせるとパルはアイクの方を振り返った。
「……そういう怒り方は、嫌い……」
パルは呆然として尻餅をついたままのアイクの前まで来てしゃがむと、彼の皺の寄った眉間を指で軽く弾いた。
彼女の言葉とその痛みで、アイクはようやく我に返った。
「……悪い……気が動転していた。止めてくれて、助かった」
アイクは弾かれた眉間を軽く手で押さえながら、自身の目的を逸脱した行為を反省する。
分かってくれれば良い、とパルは微笑み、手を差し伸べて立ち上がるのを手伝ってくれた。
「私も、あの怒り方は感心出来ぬぞ、主」
立ち上がったところで、意識を介してクライスがそう言ってきた。
冷静さを取り戻したアイクがようやく聞き取った彼の声は、どこか厳しい声だった。
彼の制止も無視してしまっていた事を思い出したアイクは、彼にも謝罪をする。
「とはいえ……怒りの感情によって、主の力が強まったのも事実。おかげでこの状況を打破出来たわけでもある。だが、怒りとは諸刃の剣のような感情だ。飲まれてしまえば、周囲も自身も傷つけかねない」
「……肝に銘じておこう」
アイクの怒りの感情が彼の力を強め、クライスの力との親和を深められたおかげで窮地を脱する事が出来たが、怒りの感情に飲まれかけていた彼は本来の目的を見失ってしまっていた。
怒りは人を強くする事が出来る感情の一つだ。
しかし、人を飲み込むのも早い感情で、身を委ねてしまえば周囲が見えなくなってしまう危険な感情でもある。
それを忘れるなとクライスはアイクに忠告したのだった。
クライスの忠告をアイクが受け止めてから、二人はデボラのもとに歩み寄った。
そして、ルストから預かっていた縄でデボラを動けないように縛る。
「ねえ、アイク……。この人も、私と戦ってた子も……不思議な形の耳をしてる……。ヒュム族とは、違うの……?」
デボラを縛る傍らで、ふとパルがそう尋ねてきた。
自身が倒したトイフェルも、目の前で眠るデボラも、同じように耳輪の尖った特徴的な耳をしていた。
自分達と同じヒュム族――地上界で最も人口の多い種族である――ではないという事は何となく分かったのだが、一体どの種族なのかが分からない彼女はあらゆる知識を持つアイクにそう尋ねたのだ。
「ヒュム族ではない。……それどころか、地上界の種族ですらない者達だ」
「どういう、事……?」
アイクの返答からさらなる疑問を抱いたパルは、僅かに首を傾げて聞き返す。
「魔族と呼ばれる者達だ。神話において、邪神が神の国を侵攻するための戦力として生み出した存在とされている。皆一様にこの特徴的な耳と蛇のような禍々しい瞳をしていると、本で読んだ事がある。……まさか、本当に存在するとはな」
「魔族……。どうりで、強かったわけだね……」
パルは驚くような表情を浮かべながら、眠るデボラを見た。
確かに自身が先程まで戦っていたトイフェルも同じような耳の形をしており、瞳も蛇のような赤く禍々しい瞳だった。
そして、さほど鍛えているとは思えない体つきであったにもかかわらず、非常に頑丈で手強かった事も魔族であるというのならば合点がいく。
「やっぱり、本当に魔界も……悪い神様も、いるんだね……」
「ますます現実味を帯びてきたな」
パルの言葉にアイクは頷いた。
数日前のアヴィス四天王の一人を名乗るゼロスとの戦闘に加え、今回の魔族という存在との戦闘。
神話という名の絵空事の物だと思っていた存在が、全て現実なのだと思い知らされる。
パルはもう一度眠る魔族に視線を向ける。
(そういえば……あの耳と目、どこかで見たような……。でもどこで? いつ?)
尖った耳輪と蛇のような赤い瞳。禍々しさを持つそれらに見覚えがあった事をパルは今思い出した。
だが、どこで、いつ見たのかが上手く思い出せない。
思い出そうとすると、どうしてか胸の奥底からどろりとしたおぞましい何かが這い上がってくるような感覚に襲われる。
思い出したくないのか、思い出してはいけないのか。
僅かに眉根を寄せ、パルは自身の胸に手を当てる。
「っと、今はまだ物思いに耽るべき時じゃないな。俺達もルストさんとマルスに加勢するぞ」
彼女の様子を知ってか、知らずか、アイクがそう声を掛けた。
考えたい事は山ほどある。だが、今はそれよりも盗賊達を倒し、エレノアの宝であるブローチを取り戻す事が何よりもの優先事項だ。
パルは頷いてから、彼に治癒魔法をかけて傷と疲労を幾らか癒やしてやった。
そして、二人はそれぞれ戦う体勢を整え、イヴリスを見据えるのだった。




