9.風に乗って
何事も時機ってものがある。
やや冷えた風が頬を掠め、風の吹く音が妙に大きく聞こえる。
気がついたマルスは己のいる場所を知って、思わず悲鳴を上げそうになった。
エヴァの力で三人が連れて来られたのは、塔の屋上だったのだ。
思いの外狭いうえに落下を防止するような柵などは無く、うっかりしていると落ちてしまいそうだった。
屋上からは、町からここまで続いている森を見下ろせる。
森の中を歩いている時は高いと思っていた木々よりも、さらに高い所にいるのだとマルスは実感して鳥肌が立った。
少し離れた所に見える町も玩具の町のように小さい。
「一体ここで何をする気だ……?」
「いーから、いーから。そのままそのまま」
下手に動けば命の危機を感じるような場所に連れて来られ、アイクはすっかり警戒しきった声音でそう尋ねる。
エヴァの方は警戒されているのをまるで気にする様子もなく、アイクと彼の隣にいたパルの背中に触れた。
その瞬間、エヴァの手に魔力が集まってくる。
「流石に三人もってなると、思ったより距離行かねぇかもなー……。歩いて一日分の距離が限度か?」
魔力を集めたままエヴァは何やら独り言を呟いている。
前に進めば塔から落ちる、彼が魔力を溜めているとなると下手な身動きが出来そうにない。
そんな前にも後ろにも逃げられないアイクとパルは、恐ろしさで心臓が異常に脈打っているのを感じていた。
マルスもどうする事も出来ずにその様子を緊張した面持ちで見ているしかなかった。
「……ああ、そうだ。俺の探してほしい奴の特徴とか、まだ言ってなかったな」
アイクとパルが心臓が脈打つ音に聴覚までもが支配されるような感覚に陥っていると、ふとエヴァが思い出したようにそう言った。
この状況で何を言い出すか、と思わず三人は口を揃えて言いたくなったが、重要な話ではあるために出かかった言葉を飲み込んだ。
「名前はルナ。正式には、ルナ=エスペ・ヴィクトワール。ヒュム族で、金髪に紫色の目をしてる。紫のアネモネみたいな、綺麗な色の目だ」
教えられたのは、女性の名前だった。
そして、真剣な声でエヴァは彼女の特徴を述べていく。
「紫のアネモネのような綺麗な色の目」と聞いた時、マルスは彼の部屋に飾られていた一輪のアネモネの花を思い出していた。
家具や魔法に関する道具で溢れかえった部屋の中の、唯一整えられた場所で一輪挿しに生けられていたそれは紫色だった。
薬や毒になるものならばまだしも、普通の花になど興味の無さそうな彼の部屋に、一輪のアネモネが至極大事そうに飾られていたのをマルスは不思議に思っていた。
だが、それは彼が必死に探し、救おうとしているルナという人物を象徴するものなのではないかとマルスは感じていた。
あなたを信じて待つ。
パルが教えてくれた、紫のアネモネに込められた言葉。
それはまるで、大切な人の無事を、そしてその人との再会を願うエヴァを表しているようにマルスには思えた。
「ルナ。金髪に、紫の目。うん、覚えた」
マルスはエヴァの言葉に深く頷いてみせた。
エヴァも彼に任せたと言う代わりに頷き返す。
「んじゃ、いってらっしゃーい」
真面目そうな声も顔付きもどこかへ消え、薄気味悪くすら感じる笑顔と明るい声でエヴァは言うと、突然触れていたアイクとパルの背中を押した。
彼の真面目な話に集中し、すっかり油断していた二人は抵抗する間も無く塔から落ちていく。
今まで聞いた事も無いような二人の悲鳴が響いた。
「ちょっ、なんてことすんの!?」
「まあ、いーからいーから」
咄嗟にマルスはエヴァを睨み付けて声を荒げた。
だが、彼はそんなマルスを気にする様子も無く近づいてきて塔の端まで追い詰める。
これ以上は後ろに下がれないか、とマルスが目だけを動かして後方を確認したその一瞬、エヴァは素早く両肩を掴んで後ろを向かせると、魔力を込めた両手でその背中を押した。
流れるようなその一瞬の出来事にマルスは頭が追いつかなかった。
気づいた頃には足が屋上から離れていた。
「うぎゃあああああっ!」
迫ってくる地上、背筋に嫌な刺激を走らせる浮遊感、抗いようの無さ、それらが一気に襲いかかってきてマルスはまるで断末魔のような叫び声を上げた。
「あとは安全に運んでくれるはずだから! また会うまで達者でなぁ!」
自身の体が空気を切り裂いていく音に混じって、上からエヴァの声が聞こえる。
これのどこが安全なのか、よくこの状況の自分に向かって達者でなどと言えたものだ、などという思いが頭に浮かんだが、それよりもこの状況に対する恐怖でマルスは何も言い返せなかった。
このまま自分はどうなるのか、アイクとパルはどうなったのかと思いながら悲鳴を上げてマルスは落ちていく。
そして、森の木々と同じくらいの高さまで落ちてきたその時だった。
突然、ふわりと風に受け止められるように落下していく体が止まる。
どうしたのかとマルスが不思議に思っていると、今度は森と平行になるように森の上空を体が勝手に進んで行く。
彼は文字通り、空を飛んでいたのだ。
突風のような速さで彼の体は南の方角へ飛んでいく。
ひとまず落下の心配は無くなり、少し落ち着いた彼はどういう事なのかと自身の体を見た。
すると、体が暖かなぬくもりを持った淡い緑色の光に包まれている事に気づく。
それはパルが身体能力を強化する魔法や治癒魔法をかけてくれる時と似たような感覚で、彼はこの光がエヴァの魔力なのではないかと思った。
勝手に進んで行くのにしばらく身を任せていると、視線の先に同じく淡い緑色の光を纏ったアイクとパルの姿が見えてきた。
二人も無事だと分かり、マルスは安堵しながら距離を縮めていく。
「おーい、二人共! 無事だったんだね」
「まあ、何とかな。一時はどうなるかと思ったが」
明るい声で呼びかけながら追いついてきたマルスに、アイクは酷い目に遭ったと言わんばかりの表情を浮かべて自身とパルの無事を伝える。
「こういう事なら、素直に言ってくれれば良かったのにねー。でも、これ凄い魔法だなぁ」
エヴァが魔法について一切語らずに塔から自分達を落とした事を思い出しながら、マルスは僅かに唇を尖らせて呟く。
不満はあるものの、空を飛ぶ事を可能にするこの魔法には感心している様子で、彼は純粋な賞賛の言葉も口にした。
「本当に……凄い……。空間移動魔法よりは、簡単だけど……三人も一気に……これだけの距離飛ばせるの、本当に凄い……」
パルはすっかり感心しきった口調でそう呟いていた。
魔法が使えないために魔法に疎いマルスは彼女が非常に感心している様子を見て、何がどう凄いと感じたのかを尋ねる。
彼女曰く、この魔法は風の精霊の力を用いた浮遊魔法の一種らしい。
対象者に術者自身の魔力と精霊の力を送る事で発動し、送られた魔力と精霊の力が消費されて無くなると解除されるものだ。
並の魔導師ならば一人か二人を数キロほど飛ばせる程度で、修行を積めばさらに距離と人数を増やす事が可能になる。
だが、エヴァの口振りから察するに、彼がこの魔法を会得したのはごく最近の事のようだ。
まだ会得してからさほど時間が経っていないにもかかわらず三人を一度に飛ばし、塔から数キロ離れてもまだ魔法が途切れない事から、どれほど彼が膨大な潜在魔力と大きな才能を持っているのかを考えさせられる。
彼の類い稀なる魔法の才を賞賛しつつ、流れていく景色に思った事を口にしながら三人は魔法に身を任せてさらに南へと進んで行った。
* * *
塔を離れてから一時間ほどが経過しただろうか。
そろそろ上空からの景色にも慣れ、地面と水平になる体勢が難儀になってきたかという頃、次第に三人を包んでいた淡い緑色の光が弱まってきていた。
光が弱まるのに合わせるようにして、三人の体も徐々に下降していく。
気づけば木のてっぺんほどの高さからはかなり下がり、体を地面と垂直にすれば足が着きそうだ。
いつ着地しても良いようにと、三人は地面と水平にしていた体を垂直に直す。
「あ、光消える……。おわわ、っと……!」
体を包んでいた光が静かに消えた瞬間、急に足が地面に着いてマルスは思わず転びそうになった。
転ぶ寸前で踏ん張り倒れそうになる体を支えると、足の裏に伝わる大地を踏みしめている感触が強くなる。
まだ浮遊感は抜けないものの、地上に降りてきたのだと実感出来た。
転びそうになっている体勢を元に戻すと、マルスはここがどこかと辺りを見回した。
三人が降り立ったのは、ちょうど森と平原の境界に当たる場所だ。
後ろを振り向けば先程まで浮遊しながら進んで来た森が広がり、前を向けばどこまでも続いているかのような平原が広がっている。
「塔から南の方角におおよそ六十キロほど、高速で移動してきた事になるな」
地図を広げて現在地と塔やバルコとの位置関係を確認しながらアイクが言う。
約六十キロという歩きならば一日はかかっているであろう距離を、三人はエヴァの魔法のおかげでごく短時間の内に進む事が出来たのだ。
港町バルコまではまだ先が長いものの、歩く距離を一日分ほど短縮出来たのは非常にありがたかった。
「ひとまず、ここで軽く昼食をとってから先へ進もう」
アイクの提案に二人は頷いて賛同する。
時刻は太陽の位置からして、昼下がりくらいだろう。
朝食を食べてからはエヴァの所で紅茶を飲んだくらいだった三人は、彼と別れてからずっと空腹を感じていた。
ましてや昼を少し過ぎていたため、空腹はいつもより一層強い。
腹の虫が鳴かないよう腹を押さえながら、三人は安全そうな大木の木陰に腰を下ろした。
そして、三人はすぐに食べられる保存食を口にしながらエヴァとの出来事やこれからの事を話しつつ、穏やかな昼下がりの一時を過ごすのだった。
森から吹き抜けてきた風が、優しく三人の頬を撫でていった。




