6.雪の世界へ
美しくも恐ろしい雪の世界へ。
しばらく歩いていくと洞窟内の明るさが増していき、出口が近づいているのが分かるようになった。
そして、明るさと同時に肌で感じる寒さも増してきている。
「流石に出口近くは寒いなぁ……」
出口の方から吹き込んでくる風は冷えきっていた。
入り口や寝泊まりした場所に比べて気温はだいぶ下がっており、吐く息がいつの間にか白くなっている。
マルスは何度も息を吐いてみてはその白さに驚いていた。
「うっすら雪も積もっているな」
そうアイクが言うように、風と共に吹き込んできたであろう雪が洞窟内に積もり、地面や壁はうっすらと白い。
振り返って見ると、三人の後ろにはくっきりとした足跡が白の上に続いていた。
アイクが何となく壁を指でなぞると白い雪が付き、一度瞬きする頃には溶けて色を失っている。
グローブをしているとはいえ、雪に触れた指先は先程よりも冷たくなったような気がした。
「洞窟出たら、やっぱりもっと寒いのかな……」
「洞窟の中で既にグラドフォスの冬と同じくらい寒いんだ。もっと寒くて当然だろうな」
口から出ていく白い息を見つめながらマルスが呟くと、アイクが自分の手を握ったり擦ったりして冷えてきた指先を温めながら応える。
彼の言葉で今以上に寒い状況を想像したマルスは思わず嫌そうな顔をした。
進むほどに寒さを増していく洞窟内を、三人は寒さを誤魔化すように身を寄せ合って歩いていく。
幼い頃にも冬はこんな風に三人で、時には兄も含めて四人でくっついて歩いたりしたものだと、マルスは「寒い」という意識が大半を埋め尽くした頭の片隅で思い出していた。
流石に心身共に成長した今は、かつてのように三人でくっついて歩くという事は恥ずかしさ等からもう出来ないと思っていた。
マルスは基本的に他人との距離感が幼い頃とほとんど変わらず近いのだが、アイクもパルも自分達の年齢や性別を意識して、普段は幾らかの距離を保つようにしている。
だが、進むたびに増していく寒さはその理屈めいた距離感を忘れさせるほどで、アイクもパルも無意識のうちに自然と真ん中を歩くマルスに寄っていた。
両の二の腕辺りに二人のぬくもりを感じて昔に戻ったような気がしたマルスは、嬉しそうに顔を綻ばせる。
だが、嬉しさで僅かに体温が上がったような気がしたのも束の間で、次の瞬間に一際冷たい風が吹き込み、三人は思わず鳥肌が立つのを感じた。
前方から吹く寒風から一番肌を露出している顔を守るようにずっと下の方を向いていた三人は、体を震わせると共に顔を上げる。
顔を上げた三人の前には、遂に洞窟の出口が見えた。
目の前に迫った出口から光が差し込んでおり、下を向いていたせいで気がつかなかったが、宿泊した場所と比べて辺りが大分明るくなっている。
光を、外の空気を求めるように三人は無意識のうちに早足になりながら、遂に雪国ネジュス地方へと足を踏み入れていった。
「うわぁぁ……! 辺り一面真っ白だ!」
洞窟を出た途端に目の前に広がる雪の世界にマルスが驚嘆の声を上げた。
目に見えるあらゆるものに大量の雪が降り積もって真っ白な世界を作り出している。
山はまるで雪が積もりに積もって出来ているかのようで、とてもその下に土や石があるとは想像がつかない。
木々も雪が葉の代わりと言っても良いほどに雪に覆われており、その枝から葉や実のように雪を生やしているのではないかと思ってしまう。
グラドフォスも冬には雪が降るが、三人が生きてきた中では多くても膝下くらいの量だ。
ネジュス地方の雪の量はそれを遙かに上回っており、三人が生まれて初めて見るような量だった。
「こんなに雪があったら、雪ダルマ何個作れるんだろう……」
「私、アイスがいい……」
「……他に考える事は無いのか」
目を輝かせて雪を眺めて妄想するマルスとパルに対して冷静な返しをしつつも、アイクも心の片隅では生まれて初めて見る景色に興奮していた。
社会勉強のためと父親に連れられていくつかの国や街を見てきた彼だったが、雪国には行った事が無く、本の挿絵と文章を眺めてはよく想像していたものだった。
本の知識と想像でしかなかった景色が今目の前にあるという感動は大きかった。
「この道を辿って行けば、町に着くのかな。それにしても、なんでこの道だけ雪が積もってないんだろ?」
ひとしきり景色を楽しんだマルスは、そう言って洞窟から続いている道を見た。
道幅は洞窟内のように馬車が通れる程度で、彼が言うようにその道だけ雪がほとんど積もっていない。
道の両脇にはマルスの腰ほどの高さ、道から離れていくほどに胸の辺り、背丈ほど、背丈以上と雪が道に向かって下り坂を作るように積もっている。
「確か、道に炎の力を持った魔石を埋め込んでいるらしい。そのおかげで、この道の雪だけが溶けているんだ。雪があると馬車はおろか人ですら歩くのが難儀だろうからな」
マルスが疑問に思っていると、アイクがそう言って片手のグローブを外して道の上に触れた。
マルスとパルも真似して触れてみると、指先に雪の冷たさを感じると共に、後からじんわりとした温かさを感じる。
次第に冷たさよりも、温かさの方を強く感じるようになっていた。
アイクが言うように、この道は洞窟から続く交易路であるため、人や馬車の通行が出来るようにと地面に炎の精霊の力を宿した特殊な石――炎の魔石を埋め込んでいるのだ。
炎の魔石は魔力を込めると発火し、焚き火や暖炉、灯りの代用品として使える他、何もせずとも常に熱を帯びているため、これを利用した防寒具は冬の時期や雪国では重宝されている。
ネジュス地方では平地でも常にマルスの腰より上くらいの雪が積もるのだが、炎の魔石を利用した道はその熱で降り積もる雪を溶かしており、多くとも踝辺りまでしか積もっていない。
道に向かって下り坂を作るように雪が積もっているのも、炎の魔石による熱のせいだった。
その技術を面白いと感じながらグローブを付け直すと、三人はいよいよ道を歩き出した。
雪があまり無いため非常に歩きやすいのだが、気温の方は洞窟内よりもずっと低い。
初めこそ雪国の景色に気を取られて寒さを忘れていた三人だったが、歩いているうちに寒さを身に染みて感じる。
一応冬用の外套を着用してはいるものの、それはあくまでグラドフォスの冬に合わせて作られたものであるために、想像以上の雪国の寒さにはお情け程度の防寒力しかなかった。
加えて、次第に天気も崩れ始め、曇った灰色の空からは白い雪が風と共に三人に吹き付けてくる。
「寒い……」
マルスは他人が見ても分かるほど小刻みに震えながら、少しでも暖を取ろうと自分で自分を抱きしめるようにして歩いている。
いつでも血色の良い彼の唇も今ばかりは紫色に変色していた。
アイクとパルの様子はどうだろうかと気になったマルスは、震えながら両隣を歩く二人を順番に見る。
右隣にいるアイクはやはりマルス同様に震えながら、寒さに耐えているせいなのか険しい顔をして足下と行く先を見据えていた。
軽く眉根を寄せて目を細めている顔は何か小言を言われる時にしかマルスは見ないのだが、こうして自分に向けられていない状態で見るその顔――横顔ではあったが――は、彼が見せる表情の中でも特に大人っぽく、同性のマルスから見ても綺麗だった。
青がかった黒髪と青い瞳の美しい容姿から若かりし頃は「青薔薇」と謳われた母親と、厳格ながらも目鼻立ちのはっきりとした端正な顔立ちでかつては貴族の娘達に持て囃されていた父親の間に生まれた彼だ。
綺麗な顔立ちで当然だとマルスは思う。
美形って羨ましい、などと心の中で呟いたところでまた強い風が吹いてきて、マルスは大きく体を震わせる。
寒さを誤魔化すように腕をさすりながら、今度は左隣にいるパルの方を見た。
そして、マルスは驚きに目を丸くし、思わず二度見をした。
パルの髪が何とも歪な形状をして凍っていたのだ。
濡れた髪が体に触れていては体温を奪われるだろうと、彼女は外套に付いているフードに髪をしまっていたのだが、先程から吹き付けてくる風の前ではフードなど無いも同然だった。
風で何度もフードが脱げ、寒風にさらされ続けた彼女の濡れた髪は風に吹き上げられた状態のままでいつの間にか凍り付いてしまったのだ。
頭に何か武器でも付けているかのような彼女の姿に、マルスは面白いという感情を通り越して驚きに言葉を失っていた。
傍らのアイクは間にマルスがいるためパルの姿がほぼ視界に入っておらず、さらには寒いと思う事と前を向いて歩く事に集中しており、彼女の様子には気がついていない。
何も見なかった事にしようとマルスが思っていると、ふとパルが自分の右袖に付いた雪を払おうと頭を右に向けた。
すると、当然凍りついた彼女の髪はマルスの方に向けられ、その鋭い先端が彼の頬を掠めた。
その瞬間、マルスは叫び声と共に飛び上がった。
「いったァッ!」
パルの凍った鋭い毛先が彼の頬に引っ掻き傷を作ったのだった。
うっすらと血が滲む程度の軽い傷だったが、寒さで痛覚が敏感になっているために痛みを何倍にも感じる。
飛び上がったマルスの悲鳴でようやく現状に気づいたアイクは、理解が追いつかないといった顔で痛みに悶えるマルスと慌てた顔をして彼に駆け寄る歪な頭髪のパルを交互に見た。
「マルス、ごめん……!」
自分のしてしまった事に気づいて謝罪しようとパルは、飛び上がった勢いで少し離れた所に行ったマルスに近づく。
マルスはまた彼女が不用意に動いたら怪我をするのではないかという不安から、無意識に近づいて来る彼女から距離を取ろうと後退ってしまう。
「ま、待って……もう、怪我、させないから……」
彼の抱いている不安を感じ取ったパルは、そう言って自分の髪がまた彼を傷つけないよう注意しながら少しずつ近寄っていく。
その最中、不意に後ろで様子を見ていたアイクが声を張り上げた。
「マルス、後ろ!」
彼の叫び声に反応し、後ろ向きで歩きながらパルと距離を取っていたマルスが立ち止まって振り返った時には、もう遅かった。
足の裏に雪とは違う柔らかい感触がする。
一体何かと足下を見れば、左足が白い縄のようなものを踏んづけている。
「あ、う、嘘……」
歩み寄ろうとしていたパルは途中で足を止めて、マルスの背後を見て驚愕の表情を浮かべていた。
マルスは彼女の視線を辿って自分の背後を見る。
「まっ、魔物……ッ!?」
なんと、マルスの背後には彼の倍ほどの体長に彼の胴回りほどの太く逞しい手足を持ち、雪のような白い毛皮に覆われた巨大な魔物がいたのだ。
そして、その魔物の尻尾をマルスは思いきり踏んづけていた。
炎の魔石が埋め込まれたこの道で暖を取っていたところ、マルスに尻尾を踏まれたらしく魔物は酷く怒っている。
鋭い牙を持つ大きな口からは低く恐ろしい唸り声が聞こえ、同じく大きな鼻からは荒い息が漏れていた。
まさに絶体絶命の状況だ。
すぐさまアイクが小声で、魔物と目線を合わせたまま刺激しないようゆっくりこちらに歩いて来るよう伝えてきた。
マルスは寒さとは別の震えを感じながら小さく頷くと、彼の言う通りに魔物と目線を合わせたまま二人の方へ自由な右足を一歩下げる。
そして、魔物の尻尾を踏みつけている左足を慎重に持ち上げたその瞬間だった。
尻尾に感じていた重みが消えた事が刺激になったのか、魔物は突然けたたましい声で叫ぶと、その太い腕を振り上げた。
咄嗟にパルがマルスを助けねばと駆け寄ろうとしたが、それよりも早く魔物の逞しい腕がマルスの体を直撃し、彼の体は容易く宙に打ち上げられ、そのままどこかへ飛ばされてしまった。
マルスは悲鳴を上げる暇も無く、吹雪の向こうへ姿を消していく。
「マルス……っ!」
呆然とパルもアイクも彼が見えなくなった方角を見つめる。
思いも寄らない出来事に二人は完全に気を取られ、マルスを助けようとした時のパルの気迫を敵意だと感じた魔物が興奮状態になっている事に気づいていなかった。
魔物が腕同様に逞しい足で駆けてくる音でようやく気づいた時には手遅れで、今度はパルがその太い腕でマルスのように殴り飛ばされてしまう。
恐らく彼女は、自分の身に起きた事を理解する暇も無かっただろう。
そして、彼女を吹き飛ばした勢いのままアイクに迫っていく。
何とかやり過ごす事は出来ないかと考えるが、考えている間に魔物の巨体は目の前にやって来て、振り上げられる腕を見たところで彼の意識は途絶えてしまった。
三人の姿は吹雪の向こうへと消え、魔物の咆哮が雪原に響き渡っていた。




