9.黎明の時
みんなを守れる女王に、わたしはなりたい。
絶望の決意を抱いて、サリュは悄然とした様子で立ち上がる。
その時、彼女に鳥型の魔物が足の鉤爪を向けながら勢いよく降下してきた。
「陛下ッ!」
「っ!」
いち早く気づいたマルスが駆け付け、サリュに覆い被さる。
勢いのまま二人は床に倒れ数回転がったが、マルスが緩衝材となるようにしっかりと抱きしめていたために彼女は無傷だった。
獲物を見失い、身を翻して空に戻ろうとする魔物をアイクの放った氷の刃が斬り裂いた。
断末魔と共に魔物の体は形を崩し、霧散して消え失せる。
「大丈夫ですか!?」
マルスはすぐさま彼女を抱き起こして無事を確かめる。
「……っ、ぅ……」
俯いたままのサリュの口から小さな声が漏れる。
どこか怪我をしたのではとマルスは焦る。
「わ、たし……みんなを、守りたいのに……っ、どうして、何も出来ないの……っ」
弱々しく震えた涙声で、サリュは自分を叱咤する。
「もう、みんなを守るには、わたしの命を差し出すしか――」
「それは、だめ、です……陛下」
自暴自棄になっているサリュを制するように言ったのは、パルだった。
サリュの前で膝をついて目線を合わせ、きつく握られた彼女の両手を優しく包み込む。
「だって、わたし、女王なのに……王国の危機なのに……っ、何も出来ない……。だから、もうこうするしか……」
「陛下は、この国の、命そのもの。だから、絶対に、死んじゃいけない……。それに、陛下が、命を差し出したとしても……敵は、きっと、この国を滅ぼす……」
女王の命ひとつでこの襲撃を終わらせる気など、恐らくレオガルドには毛頭ない。それはサリュも分かっている。
分かっていても、今の無力な自分には命を差し出す以外に出来ることはない。
少しでも民を生き長らえさせるために、自分を犠牲にしなければ。彼女の頭はそれでいっぱいだった。
死ぬことよりも、先祖から母へ、母から自分へと受け継がれてきた大切な王国を、国を支えてきた民をここで失うことの方がずっとずっと恐ろしかった。
「守れる力、あるはずなのに……大切な人を、守れなかったこと……私は、ある。だから、今の陛下の気持ち、痛いくらい、分かります……」
言いながら、パルは思い出す。幼い頃に、父と母を守れなかった自分自身のあまりにも苦く痛い記憶を。
「あの時の私、もっと幼くて……そばに、誰もいなくて……孤独だった、怖かった……。でも、今の陛下は違う。きっと、力の使い方は、分かっている……。陛下を守ろうとしている人も、信じている人も、たくさんいる……。だから、大丈夫。自分のこと、信じてください。『わたしなら、みんなを守れる』って……」
「パルさん……」
そっとサリュは視線を上げてパルを見た。
二人のそばに、魔物をハルベルトで退けながらラティオが近づいてくる。
迫っていた魔物を粗方倒してから、彼女はサリュのそばに跪いた。
「姫さ――陛下、どうか敵の言葉になど惑わされないでください。貴女は、決して無力でも臆病でもない」
「ラティオ……」
力強く言い切るラティオとサリュは視線を合わせる。
彼女の青い瞳には、一点の曇りもない。
「立ち向かわねばと、一人で敵前に赴いた貴女のどこが臆病だと言うのです。駆け出して行った貴女の後ろ姿、私の目にはとても強く頼もしく映って見えた。そして今、国のため、民のために命を懸けようとしている。本当に臆病な者に、これほどのことは出来ません。決して」
右手を自身の左胸に当て、ラティオは続ける。
「陛下、どうか胸を張って、前を向いてください。貴女は、誇り高きヴュステの女王。そして、このラティオの――この国の、希望の光」
ラティオの言葉にサリュは僅かに目を見開いた。
『サリュ、胸を張って、前を向きなさい。おまえは誇り高きヴュステの女王となる者。そして、このディリシェの希望の光』
ふと、心の中に母ディリシェの凜々しくも優しい声が響く。
ラティオの言葉は、幼い頃――今よりずっと気弱で泣き虫だった自分に、母がよく掛けてくれた言葉と同じだった。
亡き母との記憶が蘇ってくる。
まだ十にも満たない頃だっただろうか。このバルコニーで母と二人、朝焼けに染まる王国の景色を眺めていた。
母はサリュを抱き上げて王都を眺めながら、自身の女王としての矜持を聞かせてくれた。
『妾――いや、私はな、サリュ。強く皆を導く女王になりたいと思った。遠い昔から女王と民が繋ぎ、守ってきたこのヴュステを失いたくない。だから、私の代で必ず弱まった国力を回復させ、ヴュステ王国の誇りを守り繋いでみせる。そのために、強く皆を導く女王になりたいと思ったのだ』
母はその言葉通り、強く皆を導く女王だった。
強い光を宿した母の黄金色の瞳が、サリュに向けられる。
『おまえもいずれ、このヴュステの女王となる時が来る。サリュ、おまえはどのような女王になる?』
『わたしは――』
そこでサリュは思い出した。
頭も心も追いつかない状況で即位し、女王の務めに追われる日々の中でいつしか忘れてしまっていた、幼い頃に自分が描いた女王像を。
「貴女はディリシェ様にはなれない。そして、ディリシェ様も貴女にはなれない。貴女は貴女らしい女王像を描いていいのです。御母堂様の真似でない、貴女自身の」
ラティオの言葉を、思い出した自分自身の女王への想いを噛み締めるように、サリュは一度目を閉じる。
――この強い光は、わたしの手には届かないものだわ。
自分と同じ色の母の瞳を見つめながら、あの時幼心にそう思ったのをサリュは覚えている。
母の強さは、母にしか得ることの出来ないものなのだと。
そして、わたしもわたしだけの強さを手にしたいと思ったことを。
サリュは目を開け、立ち上がる。王冠の飾りが揺れ、しゃらりと音を立てた。
「そうね……わたしはお母さまじゃない。わたしは、わたし。わたしは――みんなを守れる女王になりたい。お母さまが、これまでの女王と民が、今日まで受け継ぎ守ってきたヴュステ王国を、ここに生きるみんなを守りたい」
もう彼女の体は、声は、震えてなどいなかった。
両の足でしっかりと立ち、視線を上げる。
――今なら、今のわたしなら、この力を使える。
『サリュらしいな。確かに、民が在るから、王が在る。国が在る。民を守る事こそ王の使命だ。サリュ、おまえなら必ずなれる。皆を守れる女王に』
自分の描く女王像を語った時、母は優しく微笑んでそう言ってくれた。
――見ていてね、お母さま。
空を覆う魔法陣の向こうで変わらず煌々と輝く太陽の光を受け、サリュの王冠が、黄金色の瞳が煌めく。
「小娘よ、答えは決まったか!」
レオガルドの声が響く。
魔法陣の魔力も先刻より明らかに強まっており、魔法が発動するまでの猶予はもう残り少ない。
バルコニーへ届く民衆の声は、サリュへの諦念が強くなっていた。
「陛下、どうかお助けを!」
「信じています、陛下!」
けれど、女王を信じる者の声も確かに聞こえた。
この声に応えたいとサリュは強く思う。
「さあ、犠牲とする命を吾輩に差しだ――ガハアッ!?」
突如、凄まじい速さと勢いで王都の上空を飛んできた光弾がレオガルドに命中し、その巨躯が王都に落ちていく。
兵団は慌てて戦線に出ていた民を王城へ退避させる。
サリュも、マルス達も、突然の出来事に呆然と落ちていくレオガルドを見ていた。
「ダーハッハッハッ!」
そこへ上空から聞き覚えのある笑い声が響いてきて、マルス達はレオガルドから視線を上空へ戻す。
「どうだ化け物! オレ様の最新作、『ビリー式魔導砲八号・改・勁烈』の威力は!」
「ビリーさん!」
視線の先にあったのは、飛空艇「天翔けるビリー号」だった。
拡声効果のある魔道具を用いているようで、上空でビリーの豪快な笑い声が響く。
先程レオガルドを撃ったのは、ビリー号の前面に備え付けられている大きな主砲から放たれた魔力弾だった。
「はは……俺の魔導砲なんて霞むくらいの威力だなぁ。やっぱすごいや、親方は。名前ダサいけど」
苦笑いを浮かべながら呟くユーリだが、その表情には安堵と尊敬が滲んでいた。
「さぁて、このビリー様が来たからには形成逆転、勝利確実だ! オイ、ちょこまか空から湧いてくる魔物共ォ! 一掃してやっから覚悟しやがれェッ!」
言下、飛空艇の側面から、小型の魔導砲が左右それぞれ三つ顔を出した。そこから数多の小さな魔力弾が放たれ、空に出現する新たな魔物を撃ち抜いていく。
魔力弾に撃ち抜かれた魔物は次々と消滅し、生き残った魔物は手負いのまま地上に落ちて兵士達にとどめを刺される。
魔導砲の一撃でレオガルドが怯んだこともあり、出現する魔物の数も減っている。
ビリーの活躍により、この数分で地上の戦況も優勢に傾き始めていた。
だがその時、王城前広場に獅子の咆哮が響き、レオガルドが勢いよく突進してきた。
その場にいた兵士数名が巨躯に弾き飛ばされ、宙を舞い、地面に叩きつけられる。
「余計な蝿がちょこまかと……!」
広場の中央に立ったレオガルドが、忌々しくバルコニーと飛空艇を見上げた。
バルコニーで戦っていた護衛兵が女王周囲の守りを固め、マルス達はすぐさまパルの浮遊魔法でそこから広場へと降りていく。
広場では、兵長ガーディと共に兵士達が剣や槍を構えて臨戦態勢を取っていた。
ラティオもサリュのそばでハルベルトを構える。
「陛下――」
「ラティオ、あのね」
お下がりください。そう言いかけたが、サリュに呼び掛けられたラティオはハルベルトを構えてレオガルドを見据えたまま、彼女の言葉に耳を傾ける。
「わたしは、わたし。弱さも未熟さも、全部受け入れて進んで行く。わたしのままで、女王としてこの国を守り抜いてみせる。だからね……これからも『姫様』でいいわ」
「――はい、姫様」
噛み締めるように、ラティオは慣れ親しんだ呼び方でサリュの言葉に応える。
「姫様、恐れることなどありません。貴女がこの国を守る盾となるのならば、私は――我らは貴女の矛となり、敵を退けましょう。貴女には指一本触れさせない」
「ありがとう、ラティオ。わたし、必ずみんなを守ってみせるわ」
ラティオからの力強い言葉を受け止める。
それからサリュはそっと自身の胸に両手を当てた。
「わたしは女王、みんなを守る女王。わたしは女王、みんなを守る女王。わたしは女王――」
サリュは小さな声で呪文のように繰り返す。
いつも自分に言い聞かせていた言葉は、未熟な自分を押し込めて、無理矢理に前を向かせるものだった。
けれど、今は違う。
――わたしなら大丈夫。必ず出来る。
自分自身の全てを包み込むような優しいあたたかさが胸の中に広がっていく。
「どれだけ増援が来ようとも、魔法の発動は最早秒読み! 臆病で無力な貴様のせいで皆が死に、この国は滅び――」
「黙りなさい、ヴュステに仇なす魔族よ」
レオガルドの喧しい声を遮り、サリュの凜とした声が広場に響く。
「おまえにこの国を滅ぼさせなどしない。そして、わたしの命も、パルさん達の命も、おまえには渡さない」
眼下の広場にいるレオガルドを見据える黄金色の瞳には、確かな覚悟と自信が宿っていた。
サリュはひとつ息を吸い込む。
「わたしは、誇り高きヴュステの女王サリュ=レーヌ・ヴュステ! これ以上、わたしの国を、わたしの大切な民を傷付けることは断じて許さない!」
その言下、彼女の体から魔力が黄金色の光となって溢れてくる。
「ああ……これが、女王の力なのね……」
サリュは胸の前で両手を組む。彼女の周囲に光が広がる。
「させるかァッ!」
「陛下ッ!」
レオガルドは勢いよく右腕を振り下ろし、その鋭い爪から魔力を纏った衝撃波を放った。
掠った地面を抉り、その爪撃はサリュのいるバルコニーへと飛ぶ。
焦るマルス達と兵士達の声が響く。
――しかし。
「な、にィ……ッ!?」
爪撃はサリュの周囲を漂う光に触れた瞬間、霧散するように消え去ってしまった。
思わずレオガルドは驚愕の声を漏らす。
「女王サリュ=レーヌ・ヴュステの名の下に、我が国に堅牢なる守護を、光もたらす祝福を!」
祈りの言葉を詠唱すると、サリュの周囲に漂っていた黄金色の光が円状となって弾けるように広がった。