11.キミは――
心は繋がっていた、はずだった。
あれからエドはビリーとユーリに付き添われながら、双方の部下達にこの三年間にあった事の説明と謝罪をした。
勿論、すぐには納得出来ず非難の声を浴びせる者もいた。
だが、エドの変わり様を目の当たりにした事と、彼の丁寧過ぎるほどの謝罪に非難の声は徐々に小さくなっていった。
ひとまずは、双方の造船所における蟠りが解けたのであった。
その後、エドは警備隊にこれまでの事情を報告し、コライユの街には眼鏡を掛けた赤い瞳の怪しい人物に対する注意喚起がなされた。
そして長い一夜が明け、遂に試験飛行の日を迎える。
昨夜のうちに出発準備を終わらせておく予定だったが、思わぬ事態に足を突っ込んですっかり疲れ切ったマルス達は宿屋に戻ってすぐ眠りについてしまった。
いつもよりゆっくりと朝を迎えた三人は、出発の準備をしながらユーリの迎えが来る時間を待っていた。
準備が終わってベッドに腰掛けながら、マルスは己の右手を見つめて昨日エドに言われた事を思い出していた。
三年もの間、彼を蝕んでいた黒魔法から解放するきっかけを創り出した力。
自分はそんなものを使った覚えはない。そんな力がある事すら知らなかった。
「マルスの力……何なんだろうね……」
パルが隣に腰掛ける。
「お前にそんな力があったなんて、十数年一緒にいるが気づかなかったぞ」
「オレだって知らなかったよ。そんな力あるなんて思ってないし、使った覚えもないしさ」
アイクの言葉にパルも頷いていた。
幼い頃から一緒にいる二人ですら、マルスがそういった力を使っている、持っているような様子は見た事がない。そして、彼自身も全くの無自覚だった。
「全然……何も感じたり、しなかったの……?」
パルに問われ、この謎の力を使ったと思われる、エドに触れた瞬間の事を思い出す。
「うーん……あ、でも、エドさんに触れた時……紋章の所がちょっと痛かった気がする。無我夢中だったからはっきり覚えてないけど。何て言うか、静電気が走ったみたいな感じ」
エドを救わねば、と無我夢中だったためにはっきりとは思い出せないが、僅かな痛みをマルスは右手に感じていた。
その事を思い出して、エドを救った力は紋章の――否、神から与えられた力なのかと思った。
だが、自身の記憶に間違いがなければ、右手にある紋章が光るような様子は特になかった。
紋章は神が選んだ者の証。
だからこそ、守護聖霊の力を使う時は紋章が光る。
もしあの力が神から与えられたものならば、使った時に紋章は光るはずだ、とマルスにしては珍しく論理的な思考を頭の中で巡らせた。
――じゃあ何の力なの?
そこでマルスの思考は停止する。
「……まあ、旅してたらそのうち分かるかもしれないよね。オレのすごい力かもって事で、今は喜んどこ!」
自分にしかない特別な力だというのならば、マルスにとっては喜ばしい事だ。
楽観的な言葉と共に彼は笑顔を浮かべる。
その姿を見ると、アイクもパルもそれ以上深く考える気がどこかへ行ってしまった。
「……あっ、そうだ! オレ、アベルに会いに行かなきゃ! 今日出発する前に会う約束してたんだ!」
はたと昨日アベルとした約束を思い出し、マルスはベッドから勢いよく立ち上がる。
「アベルって……前に、オスクルの洞窟で会った……?」
「そうそう。昨日街外れで鍛錬してた時に偶然会ってさ」
パルの問い掛けにマルスは上着に袖を通しながら答える。
「ユーリが呼びに来るだろうから、昼までには戻れよ」
「相変わらず母さんみたいな事言うなぁ。分かってるって」
戻ってから慌てなくて良いようにと、剣を腰のベルトに固定しながらアイクの言葉に答える。
「よし、じゃあ行ってきまーす!」
手早く準備を終えたマルスは二人にそう言って、陽気な足取りで部屋を出て行った。
廊下を走って行く彼の軽やかな足音が徐々に小さくなっていく。
「……なんとなく、なんだけどね……」
彼の足音が聞こえなくなってから、ふとパルが口を開いた。
浮かれた彼が転んだり、階段を踏み外したりしていないかとしばらく扉の方を見ていたアイクは、視線を彼女に向ける。
「胸騒ぎが、する……」
彼女の言葉が、マルスの事を指しているのだとアイクはすぐに察する。
「俺達も一応ついて行ってみるか。邪魔はしない、離れた所から見守る程度に」
幼い頃から何かと彼女の勘は当たる。
胸騒ぎがすると彼女が言うならば、何か良くない事があるのかもしれない。
こっそり後をつけようとアイクが提案すると、パルは頷いてベッドから立ち上がった。
* * *
アベルに会うため、マルスは軽やかな足取りで街の中を駆けて行く。
――また明日。
たったそれだけの約束にこんなにも心が躍るのは久し振りの感覚だった。
勿論アイクやパルと同じ約束をする時も、次に会う時が楽しみで堪らない。
とはいえ、長い時間を共にしてきたからこそ深まっていくものもあれば、薄らいでいくものもある。
十数年も一緒にいればその感動は薄れていってしまうものだ。
胸を躍らせながら走り続け、マルスは街外れにやって来た。
昨日鍛錬をしていた場所を通り過ぎ、木々の間を抜けて小川に出る。
太陽の光を反射して煌めく小川のほとりに、一際目立つ赤色が見えた。隣には、ドラゴン退治で振るっていた大剣が地面に突き刺さり立っている。
その大剣を見ると、マルスの脳裏に狂気の笑みを浮かべ返り血に身を染めた彼の姿が過ぎった。
今でも思い出すとぞわりと肌が粟立つような気がする。
浮かんできた光景と悪寒を振り払うようにマルスは頭を横に振ってから、大きく息を吸い込んだ。
「アベルっ! お待たせ!」
声を掛けると彼が振り返り、その赤い瞳がマルスの姿を捉えた。
「待ってたよ、マルス」
アベルの言葉にマルスは呼吸を整えながら笑みを返す。
「で、どうしたの? 出発前に会いたいだなんて」
息が整ってからマルスは尋ねる。
すぐには答えが返ってこない。
「……マルスは昨日、ボクの事、友達だって言ったよね」
「うん、言ったけど……」
昨日も、今もアベルの言葉の意図がマルスには分からない。
戸惑いながら頷く他なかった。
「だから、試してみたくなった」
太陽が雲に覆われ、地上に影が落ちる。
僅かに薄暗くなっただけだというのに、アベルの表情が分からなくなってしまう。
「ボクはね、マルス」
鈍く光る赤い瞳は、まるで血のようだ。
心許ない小川のせせらぎが聞こえる。
遠くで船の警笛が鳴り響く。
急に強くなった風が草木を揺らして、ざわざわと音を立てて過ぎ去っていく。
「ボクは、アヴィス四天王の一人。マルスの――敵」
「……え……?」
音が、消えた。
「え……な、に……? 四天王……? 敵……?」
五感が消えていくような錯覚に陥る。
茫然と立ち尽くして、譫言のようにアベルの言葉を繰り返す。
四天王、敵、友達。四天王、敵、友達。
頭の中で言葉がぐるぐると渦を巻く。
「そう、敵だよッ!」
「……ッ!」
突然、アベルは地面に突き刺していた大剣を引き抜き、振り下ろしてきた。
間一髪で反応出来たマルスは後ろに飛び退くが、切っ先が左頬を掠って血が溢れてくる。
無抵抗のままでは殺されると思ったマルスは、ぎこちない動きで剣を抜いた。
彼が剣を構える姿を見て、アベルは嬉しそうに口角を吊り上げる。
そして、大剣を振りかざしてマルスに襲いかかった。
「ぐッ……!」
振り下ろされた大剣を受け止めるが、アベルの一撃は小さな体からは想像もつかないほど重い。
両手で剣を支え、全力で押し返すそうとするもマルスの方が明らかに劣勢だ。
まだアベルは片手しか使っていないというのに。
腕が悲鳴を上げるように震える。
「はあああッ!」
渾身の力でマルスはどうにかアベルの大剣を受け流した。
だが、剣を構え直そうとした所で彼の蹴りが腹部に命中する。
「うぐッ……!」
痛みと同時に一瞬呼吸が止まり、胃液が込み上げてくる。
マルスは後ろに倒れ込んだ。
痛みと苦しさに顔を歪めながらも、どうにか起き上がろうとする。
だが、頭を上げたところでアベルの大剣の切っ先が眼前に突き付けられた。
「ねえ、これでもボクは、マルスの友達?」
そう問い掛けてくるアベルの顔には笑みが浮かんでいた。
マルスの反応を楽しんでいるような、面白がっているような表情だ。
ようやく彼に追いついたアイクとパルはその状況を見て、咄嗟に加勢しようとする。
「ボクは邪神と手を組んで世界を壊そうとしてる。だからこの先マルスの事を傷つける。殺すかもしれない。それでもボクはマルスのと――」
「友達だよッ!」
アベルの言葉を遮ってマルスは叫ぶように言い切った。
赤い瞳が一瞬大きく見開く。
アイクとパルは足をその場で止めた。
「アベルがどこの誰だったとしても、友達だよ!」
切っ先を眼前に突き付けられているとは思えぬ、威勢ある声だった。
アベルは黙って大剣を突き付けたまま、マルスを見つめる。
「だって……あの時も、昨日も、オレ達ちゃんと心が繋がってた。お互いの事分かり合えてたし、何より、一緒にいてすっごく楽しかった。こんなに気が合う相手、初めてだよ」
オスクルの洞窟で初めて会った時の事をマルスは思い出していた。
出会った当初の印象は良いものではなかったが、打ち解けてからはこんなにも気の合う相手がいたのだと驚くほどだった。
人面岩に突き飛ばされて笑い合った。一緒に愚痴を言い合った。ドラゴン退治も一緒にした。
昨日だって、旅の話も倒した魔物の話も目を輝かせながら聞いてくれた。
その時にアベルが見せた笑顔も、感情も、瞳の輝きも、決して嘘ではないとマルスは思っていた。
「敵だからって理由だけで友達やめるなんて事、オレはしない」
澄んだ海色の瞳は、真っ直ぐに赤い瞳に向けられていた。
「は……馬鹿なの?」
「うん、馬鹿だよ。自覚はしてる」
呆然とした表情を浮かべるアベルに、マルスは笑みを浮かべてみせた。
「……っ、ふふ、アハハハッ!」
突然アベルは笑い声を上げた。
戸惑ったようにマルスは首を僅かに傾げる。
「ああ、やっぱりマルスって面白いね! 敵であるボクと友達であり続けようとする。この状況でそんな強い目をする。あははっ、期待してた通りだよ。ここで殺すのは勿体ないや」
アベルはマルスの眼前から大剣を離す。
「ボクは、もっともっと強くなったマルスと戦いたい。強くなったマルスを倒せば、ボクは本当に欲しかった強さを手に入れられる気がするんだ」
戸惑った表情のままマルスは彼の言葉を聞いていた。
「だからさぁ、強くなってよ。それまでは生かしててあげる。じゃあね」
そう言うとアベルは歩き出し、茫然と座り込んだままのマルスの横を通り過ぎる。
「……待ってよ」
静かな、だが確かな声で呼び止められ、アベルは歩みを止める。視線は歩む先に向けられたままだ。
マルスは立ち上がって彼の方を向いた。
「アベルにとってオレは、友達?」
彼の背中に問い掛ける。
「マルスは、ボクの……」
二人の間を風が吹き抜けていく。
アベルが顔だけをマルスの方に向けた。
「――ボクの敵、いや、獲物だ」
そう答える彼の顔は、ドラゴン達と対峙した時の表情に似ていた。
「そっか……。じゃあ、いつか『マルスは友達』って言ってもらえるように、オレ頑張るよ」
マルスはそう言って笑ってみせる。
屈託のないあたたかな彼の笑顔は、今のアベルにはあまりにも眩しかった。
このまま彼の笑顔を見ていると、その眩しいばかりの笑顔に焼き殺されてしまいそうな気すらした。
生まれて初めて太陽というものを目にした時のような、生まれて初めて目の前で炎を見た時のような感覚に近いとアベルは思う。
勿論そんな瞬間の記憶などありはしないが、直感的にそう思った。
眩しさから逃げるように、アベルは前を向く。
「またね」
アベルは歩き去っていった。
彼と入れ替わるようにして、アイクとパルが木々の陰から出てくる。
「あ、アイク、パル。もしかして、オレの事追いかけてきたの?」
二人に気づいたマルスの表情は、宿屋で見た時と何ら変わりはなかった。
二人にはそれがむしろ不気味に思えてしまう。
「……胸騒ぎ、したから……」
「あー……パルの勘はよく当たるもんね」
胸騒ぎという言葉を彼がどういう意味合いで受け止めているのか、二人には分からなかった。
ぎこちない様子の二人を他所に、マルスは「強い魔力を持ってると勘も鋭くなるのかなぁ」と呑気に呟く。
「大丈夫、なのか……?」
「え、何が?」
恐る恐るアイクは問うたが、マルスはあっけらかんと聞き返してくる。
そんな彼にアイクはどう答えていいのか分からなくなった。
「だって、アベルは……」
意を決したようにパルがアベルの名を口にした。
「アヴィス四天王。敵、なんだってさ。あはは、流石に運命的過ぎるよね」
マルスは笑いながら、どこか他人事のように言う。
アイクもパルも、これ以上何も言えなかった。
二人はこの状況で親友に掛けてやるべき言葉を懸命に考えるが、何一つ相応しい言葉が見つからない。
そもそも、今何を言っても彼の心には響かないだろう。
「あ、そろそろユーリが迎えに来る頃だよね。宿屋に戻ろう」
沈黙を破ったのはマルスだった。
彼は何事もなかったかのような声で言って、先に街の方へと歩き出す。
戸惑いながらもアイクはどうにか返事をし、彼の後を追いかけた。
先を行く彼の背を見つめて、パルはぎゅうと眉間に力がこもってしまうのを感じる。
(なんで、いつも平気なふりするの……?)
心の中でマルスに問い掛ける。
ビリーとエドが自分達の過去を振り返って、あの時互いに自分の思いを言えていたなら良かったと言っていた。
二人の事を思い出したパルは、心の中での問い掛けを今声に出して言う方がきっと良いのだろうと思う。
だが、本音を口にする事が良い意味になるのは、互いに言おう、聞こうとする気がある時だけだ。
今のマルスは自身の本音を言おうとする気などない。彼の背中から、先程の笑顔からパルはそう感じていた。
言葉を飲み込むように息を吸い込んで、パルも後を追いかける。
マルスは一人先を行く。
遠くで船の警笛が鳴り響く。
もうとっくに乾いたはずの赤い雫が一筋、左頬を伝って落ちた。